風が吹いたので、桶屋を開業することにした
風が吹いたので、桶屋を開業することにした。
理由は説明不要だろう。あの有名なことわざに従ったまでだ。
さっそく私は様々な手段で資金をかき集め、自宅を改装し、昔ながらの木の桶を仕入れ、店をオープンした。
しかし……売れない。
オープンして一週間、桶は一つも売れなかった。
どうしたことだ。風が吹いたら、桶屋は儲かるはずなのに……。
あのことわざは嘘だったのだろうか? いやいや、そうとは思えない。私はあのことわざを信じるぞ。信じる者は救われる。
――というわけで、なぜ売れないのか考えてみることにした。
通りすがりの人に桶を買いませんかと言ってみる。
当然、いらないと返事される。
理由を聞くと――
「だってウチには洗面器もバケツもあるから、今更桶なんていらないよ」
こんな答えが返ってきた。
桶ってのは主な用途は水を汲むことだ。
バケツや洗面器があれば事足りるし、今更桶なんか買うまでもないということか。
いきなり明確かつ絶対的な答えにたどり着いてしまい、私は愕然とした。
迷路を攻略しようとしたら、まだ分かれ道にもなっていないのに、壁にぶち当たった気分だ。
やはり桶で儲けるなど無理なのだろうか。
いやいや、諦めるにはまだ早い。こういう時は物事をポジティブに考えよう。なにしろ風は吹いたんだから。
とりあえず自分でも桶を使ってみて、なにか桶の強みはないか考えるんだ。
さっそく私は風呂で桶を使ってみることにした。
体を洗い、桶に入った湯で泡を流す。
すると――
「おお……木の香りが……」
ほのかに木の香りが漂い、風流な気分になった。
これはプラスチック製の洗面器では決して味わえないものだ。
家にいながら、どこか温泉地にでも来たような感覚を味わえる。
気持ちの問題ではあろうが、風呂上がりの疲れの取れ方も、いつも以上に感じた。
「これだ……!」
私はほんのかすかに活路を見出した気分になった。
だが、これだけでは足りない。
今更ながら気づいたが、私は桶屋で儲けると言いつつ、桶のことをあまりにも知らな過ぎた。
野菜の美味しさを知らぬ八百屋が、ゲームの楽しさを知らぬゲームメーカーが、旅行の醍醐味を知らぬ旅行代理店が上手くいくか? いくわけがない。
私は一度店を閉じると、桶研究の旅に出た。
日本各地であらゆる桶を見て、触って、学んで、使ってみて、堪能する。桶づくしの日々を送った。眠る時さえ桶を抱き枕のように抱いた。
桶を作ってる職人の方々とも交流を深めた。
実際に桶が作られてるところを見るのは大きかった。桶のことをより深く理解できた気がした。
その最中、ある若い女性桶職人さんと出会い、恋にも落ちた。
肩まで伸びる黒髪を後ろで結わいた、爽やかな女性だった。
「私とともに桶屋で儲けませんか?」
この私の告白に彼女は、
「OKです!」
と答えてくれた。
数年の旅で桶の真髄を学んだ私は、桶職人の彼女とともに、独自のオリジナル桶の製作に着手する。
軽く扱いやすく、頑丈で、風流で、木の匂いを楽しめる。そんな桶を目指し、作り上げてみせた。
私は第二の桶屋をオープンした。
『桶で風流ある入浴を』『水汲みが楽しくなる』『木の香りを感じよう』などのキャッチコピーをつけた桶は、じわじわと売れていく。
利益はわずかだが、ようやく桶屋が店として成り立った形となる。
さらに桶職人の彼女がこんな提案をしてきた。
「今時は動画宣伝も効果があるっていうし、CMを作ってみない?」
「そうだね……やってみようか!」
さっそく二人で桶をPRするCMを作ってみた。
どうせならと振り付けや歌詞も作って、二人で踊るようなシーンも入れてみる。
「水汲んでOK! 食べ物入れてOK! 寿司運ぶのもOK! 桶はなんでもOKさ!」
“なんでも”は誇大広告な気もしたが、まさかこんな動画に消費者庁も噛みついてはこないだろう。
動画を投稿してみたところ、これが皆の注目を浴びた。
今風にいうと“バズる”というやつだ。
CMの歌やダンスを真似する個人やグループまで現れた。
こうなると桶はますます注目されるようになり、私たちの店の桶も飛ぶように売れた。
従業員も増やし、嬉しい悲鳴を上げる日々。
ついにはテレビ出演依頼まで来て、私はテレビ番組の中で彼女と一緒にCMソングを歌ってみせた。
これが非常に好評で、巷では「桶ブーム」といっていい社会現象まで巻き起こった。
しかし、私はあくまで自分たちは桶売りであることを忘れず、様々な誘惑をはねのけ、堅実な経営を続ける。
しばらくして桶ブームは去ってしまったが、そのおかげか大きなダメージを負うことはなかった。
いつしか私は彼女と結婚し、二児の父となった。
店主として、夫として、父として、私は桶に情熱を注ぎ続ける。
私の桶屋にはありがたいことに今日もお客様が来てくれる。
桶を買っていったお客様に、丁寧に頭を下げる。
「ありがとうございましたー!」
仕事もひと段落し、私は店先に出る。穏やかな西日が心地よい。
その時、風が吹いた。
私の目にゴミが入ったが、私はすぐに桶に水を入れて、目の中のゴミを洗い流した。
目が見えなくなるということはないだろう。
おわり
お読み下さいましてありがとうございました。