第二章 幽霊城 4
顔をペタペタと触られる感触に、唸って体の向きを変える。鼻を掠めるフワフワとした毛に、思わずくしゃみが出た。急に目を覚ましたアレックスは、数秒ぼんやりした後でハッとして飛び起きる。疼く額に手をやってから見回すと、真っ暗な部屋の中だった。
客室のベッドにいつの間に移動したんだと怪訝な顔をして服を確かめる。ジャケットと靴が脱がされていた。覚えているのは、食堂で食前酒を飲み過ぎ、饒舌になって余計なことをしゃべっているうちに、目が回ってきたところまでだ。
「寝たのか……?」
アレックスは顎に手をやって呟く。なんてことだ。晩餐の席でそんな醜態を見せたことなど一度もなかったというのに。しゃべったことの内容も半分以上覚えていない。馬鹿げたことを口走っていないよなと、冷や汗が滲んできた。
いや、そんなことよりもだ。
ミランダの髪に手を滑らせて、心配する彼女に何か――。
彼女の頭に手を回し、引き寄せた、ような気がする。
「待て待て待て、嘘だろ。何をしたんだ!?」
その後の記憶が途切れてしまっている。最後に見たのは、驚いた様子で目を見開いていた彼女の顔だ。
動悸が速くなり、口元を手で押さえる。
まったく覚えていない自分に、頭が余計に痛くなってきた。まさか、酔った勢いで彼女の唇を奪ったりしていないだろうなと、胸に問いかける。いや、大丈夫だ。その直前で意識が途切れたということは、未遂で眠ったはずだ。だが、もし――少しでも触れてしまっていたら?
「最低だ……」
何が最低かと言えば、自分の不道徳な行いがである。彼女は気楽に楽しむような遊び相手ではない。地味で目立たず、家も没落しているとはいえ、貴族の令嬢。それもどう考えても、男慣れもしていない純情な娘だ。もちろん、誰かと親密な関係になったこともないだろう。口づけなど、したこともなかったはずだ。となれば、もし、うっかり唇を奪ってしまっていたとしたら、それが彼女にとっての初めてのキスということになるだろう。想い人でもなく、屋敷に招いた客人に酔った勢いでされたなんて、生涯、心の傷になりかねない。
本来なら、責任を取らねば――。
「いや、責任ってなんだ。どうしろって言うんだ」
アレックスはベッドに両手をついてうな垂れながら、独り言を漏らす。白い子猫がやってきて、枕の上でごろんとあおむけになると、短い尻尾で鼻をくすぐってきた。
こそばゆくてくしゃみを漏らしてから、座り直して挑発的な子猫を両手で持ち上げた。
「……やって……ないだろう?」
不安にかられて尋ねると、子猫は大きな欠伸を漏らす。興味なしという様子だ。
「やったのか……どっちなんだ!?」
彼女の元に言って、事実を確かめるわけにもいかない。さすがに、いくら何でもそこまでは恥知らずではなかった。明日の朝、朝食で顔を合わせた時、彼女の反応を見ればわかるはずだ。いや、その前にこんな無作法をやらかした男と顔を合わせたくなくて、朝食の席に現れない可能性もあるう。
確かにアレックスはモテる。言い寄られたことは数え切れない。微笑んで見せればそれだけで、恥じらいの笑みを浮かべて嬉しそうにする。キスしようとして拒まれたこともない。だからといって、全ての女性がそうであるわけではない。気のない相手にいきなりキスされれば、不快に思うのは当然のことだ。
頭が痛い――。
なんであんなに飲んでしまったんだと後悔に苛まれる。それほど、果実酒が美味しかったからだ。だが、今までだって、美酒などいくらでも飲んできた。だからといって酔い潰れるほど飲んだことはない。気の置けない友人とパブで飲んでいる時でも、それなりに節度を守ってきた。
そもそも、自分の失態を酒のせいにするなど、無責任で無様だ。公爵家の子息として、そんなふうに育った覚えはない。疼く頭を小さく振って、深く溜息を吐く。
これはとにかく、誠心誠意謝るしかないだろう。謝ったところで許される行いではないだろうが、このまま知らぬ振りもできない。とはいえ、窓の外は真っ暗で、風が荒れていて隙間風が吹き込んでいた。暖炉の炎が大きく揺れている。こんな時間に、令嬢の部屋を尋ねるのも、恥の上塗りになる。
水でも一杯飲んで落ち着こうとベッドから抜け出した時、外から微かに人声が聞こえることに気付いた。
(こんな時間に、訪問者か?)
子猫を抱きかかえ、窓に移動する。カーテンを開いて目を懲らすと、灯りがいくつもちらついているのが見えた。雨具を着た男たちがカンテラを持って集まっている。防寒具を着た村の住人のようだ。
「……何かあったのか?」
ただならぬ様子だった。事件でも起こったのかもしれない。アレックスはコートをはおり、用心のためにバッグの中から持ってきた拳銃を取り出す。それをポケットに忍ばせて部屋を出た。
ついてこようとした白い子猫には、「お前は部屋を出るなよ。大人しく寝ていろ」と言い聞かせた。扉を閉めると、内側からかぐる音がする。どうやら、連れていけと言っているらしい。それを無視して、アレックスは駆け出した。
二階の廊下を通り抜けてエントランスの階段を降りていくと、ホールにはメイドと執事、それにミランダがいた。執事が彼女に防寒具を渡しているところだった。
(こんな時間に出かけるつもりか? 無謀だろ……)
「ホーリー嬢!」
アレックスが呼ぶと、彼女が振り返る。一瞬、その顔を見て、キスのことを思い出したけれど、今は問えるような状況でもない。
「エルハルド子爵……申し訳ありません。騒がしくてしまって……」
「それはいい。こんな時間にどこに行く。外は嵐だぞ」
歩み寄って尋ねると、ミランダはメアリーと顔を見合わせていた。
開いた扉の外では、「お嬢さま、早くしてくだせぇ」と村人らしい男が急かすように呼びかけていた。
「それが、近くの村で問題が起きてしまって……様子を見に行ってきます。エルハルド子爵はお気になさらず、お休みになっていてください。ジェファーソン、後はお願いね」
ミランダは執事の方を向いて、防寒具のフードをかぶる。執事は「お嬢さま、お気をつけください」と、その手にカンテラを渡していた。驚くことに、彼女一人を行かせるつもりらしい。
村人がついているとはいえ、到底安全とはいえないだろう。
アレックスは、「待て、私が行く。何が起こったのか知らないが、君は屋敷にいろ」と彼女の腕をつかんだ。事情は村人に訊けばいい。だが、ミランダは「いいえ、いけません!」と、首を大きく横に振る。
「エルハルド子爵はお客様なのです。これは領主代理である私の役目なのですから。こういうことには慣れていますし……大丈夫です」
毅然としてはいるが顔は蒼白で、胸を押さえている手が震えている。メアリーという名の女中は、「あの、お嬢さま。一緒に行っていただいた方が……」とおずおずと口を開いた。やはり彼女も、女主人一人で行かせるのは心配なのだろう。
「私も同行するということならいいだろう?」
「ですが……っ」
「これ以上、グズグズしている時間があるのか?」
アレックスが尋ねると、ミランダは扉の外で待っている村人たちを見る。そして目を瞑って息を吐いた。
「わかりました。お願いいたします……本当に、ごめんなさい。また、ご迷惑をおかけしてしまって」
「それはいい。行くぞ」
アレックスは彼女の手からカンテラを取り、先に屋敷を出る。アレックスを見た村人たちは、いったいどこの誰だというように、困惑した様子で顔を見合わせていた。
村人が用意した馬車に、ミランダともに乗り込む。馬車はすぐに嵐の中を走り出した。




