第二章 幽霊城 3
晩餐の時間になり食堂に向かうと、煮込み料理のいい匂いが漂っていた。古い楕円形のテーブルには灯りが灯されていて、花が慎ましく飾られている。暖炉で薪が燃え、部屋の空気を暖めていた。席に着いたアレックスはグラスを取る。ワインでもシャンパンでもない。色は濃い赤紫色で甘く芳醇な香りがする。一口飲んでみると、香りがよく爽やかで口当たりがいい。「果実酒か……」と呟いて、グラスを傾ける。年代もののワインにも劣らないしっかり醸成された酒の風味だった。これほど上等の果実酒は、あまり口にしたことはない。
「所領で採れたベリーで毎年お酒を造るんです……特産品でもあるんですが、あまり有名ではありません。教会のバザーにも出しているので、おいしいと買ってくださる方はいらっしゃるんですけど」
ミランダは残念そうに微笑む。そう言う彼女のグラスには、水が注がれていた。
「君は飲まないのか?」
「あっ、私はお酒を飲むと……は、恥ずかしいことに、すぐに眠くなってしまうんです。あまり強くないようで」
「そうなのか?」
気付くと、アレックスのグラスは空になってしまっていた。それに気付いた執事が瓶を手にやってきた。高齢のためか、果実酒の瓶を持つ手が小刻みに震えている。「あっ、ジェファーソン、私が」と、ミランダが腰を浮かせる。執事を気づかってのことだろう。それにこぼしはしないかと心配になったようだ。
「瓶は置いておいてくれ。君は気にせず、座っていろ。これくらい、自分でできる」
アレックスは軽く手をあげる。ミランダは少し迷ってから座り直し、執事に目配せして頷いていた。「では」と、執事は果実酒の瓶をテーブルに置いて下がる。使用人の少ない家で、無理に世話をしてもらうこともない。晩餐といっても、公爵邸に比べたら慎ましいほどだ。堅苦しく礼儀作法を守ることもない。この場では、眉を潜めるようなやかましやのご婦人もいない。
アレックスは瓶を取ると、グラスにたっぷり注ぐ。実のところ、あっと言う間に飲んでしまいそうだから、そのたびに注いでもらうのも面倒だっただけだ。つまりはすっかり気に入って、この果実酒の瓶を独占する気でいた。
「エルハルド子爵はお酒がお好きなのですね」
「そこそこだ。ただ、これはうまいな。気に入ったよ」
「それはよかったです。お帰りの際に、お持ち帰りになりますか?」
「いいのか?」
「はい。もちろんです。子猫のお世話をしていただいたのに……何のお礼もできていませんから」
「それなら、遠慮なくいただくよ」
こんな北の端までわざわざ出向いてきた甲斐も少しはあったというものだ。上機嫌になり、果実酒をコクコクと飲む。半分ほど飲んだ時には頬がほんのり熱くなっていた。あまり一度に飲み過ぎると、酔いが回る。グラスを置いて、目の前に置かれている皿に目をやった。大きめの野菜と肉が入ったシチューだった。フォークとナイフを取り、肉を切り、口に運ぶ。濃厚で蕩けるような味わいだった。
「あの、どうでしょう? お口に合いますでしょうか?」
ミランダははらはらした様子で、アレックスがシチューを食べるのを見守っている。
「え? ああ……うまいな……これは鹿肉か?」
「はいっ、林に仕掛けておくと、たまにかかっているんです」
「罠? 誰が仕掛けておくんだ? 猟師か?」
「いえ、私とメアリーが……この辺りの林は、猟師も立ち入りません。伯爵家が管理しているので」
「……君があのメイドと!?」
驚いて思わず彼女の方を見る。ミランダは「はい」と、にこやかに頷いている。
「……その鹿を、どうするんだ?」
「あっ、ちゃんと処理して、村に持っていったり、保存用に燻製にしたりします。これは新鮮だったので、そのまま煮込みました。ですから、柔らかいと思います」
「君が……獣の解体までやるのか!?」
もちろん、狩猟は貴族のたしなみの一つでもあり、狐狩りをしたり、鹿狩りをすることはよくある。それが恒例の季節の行事となっていたりもする。公爵家でも大々的に貴族を招いて、狩りを楽しむ。だが、貴族のご令嬢が罠を仕掛けて、かかった獲物を自ら解体して食肉に加工するなんて聞いたことがない。
ミランダ・ホーリーは腕も脚も細く、とうてい体力がありそうには見えない。狩りや乗馬をたしなむような活発な令嬢とは違い、いかにも屋敷に引きこもって本を読んだり刺繍をたしなんでいたりする方が似合いそうである。この令嬢が屋根に登って修繕を行ったり、罠を仕掛けて獲物を自ら獲るような逞しさを持ち合わせているなんて誰が想像できるだろう。
人は見た目では判断できないものだなと、アレックスは皺の寄った眉間を摘まむ。
「それで……このシチューも、君が作ったのか?」
「はいっ、メアリーと一緒に……昨日から下ごしらえをして、ずっと煮込んでいました!」
ミランダは自信たっぷりに言う。なるほど、屋敷を訪問する客のために、張り切って準備をしてくれていたらしい。しかも、焼きたてのパンも香ばしくてうまい。添えられたバターも、チーズや燻製肉も、どれも素晴らしい味だ。これは、公爵家のコックですら舌を巻くだろう。きっと、田舎だから素材がいいに違いない。
シチューとパンはいくらでもお腹に入りそうだ。その上、チーズや燻製肉があれば、自然と酒が進む。
しばらく、食べることに集中しすぎて、会話をすることも忘れてしまっていた。
いつの間にか、瓶も空になりかけている。
「あの子猫が屋敷のクロスを傷だらけにするから、うちの家政婦長がいたく腹を立てていた。あいつめ……廊下の壺も蹴っ飛ばして割ったんだ。その時の家政婦長の顔ときたら……」
アレックスは酔いで赤くなった顔を押さえながら、「クククッ」と笑う。半分頭がクラクラしていて、自分が何を話しているのかわからなくなっていた。
「申し訳ありませんでした。そんなに迷惑をおかけしていたなんて! 壺とクロスの弁償は……」
「ああ、いいんだ。大したことじゃない。あの壺は、実は……もうとっくに割れていたんだ。私が子どもの頃に落としたことがあるから。オリバーと一緒に隠れてくっけたんだ。だがこれで、証拠隠滅だ」
「まあ、そうなんですか……」
困惑したようなミランダの声が聞こえる。食事は終わり、デザートが運ばれてきていた。シャーベットだった。ミルクのシャーベットと、ミントのシャーベットの二種類が皿に盛られている。それもおしゃべりをしている間に、半分溶けてしまっていた。
アレックスは行儀作法を忘れてテーブルに肘をつき、グラスを傾けながらミランダを見る。
彼女は心配そうにアレックスを見ていた。グラスを置いて、少し身を乗り出し、彼女の長い黒髪に触れる。艶やかで、サラッとした手触りは絹のドレスに触れた時のようだった。
ミランダはびっくりしたように目を見開いて、緊張している。
「なんで、灰色のドレスなんて着て舞踏会にやってきたんだ?」
髪を指で弄びながら、眉根を寄せてきく。もう少し、似合うドレスがあるだろう。
ミランダの顔が二重になって見えた。視界がぼやけて、そのままゴンッとテーブルに頭をつける。
「エルハルド子爵……? エルハルド子爵っ!」
倚子の音がして、あわてた彼女の声がした。突っ伏したアレックスの肩をしきりに揺すっている。
顔を起こすと、のぞき込んでくるミランダの顔がすぐ近くにあった。
もう少しマシなドレスを着ていれば、きっと誰かが声をかけていただろう。
グラスが肘に当たって倒れる。アレックスは彼女を見つめたまま、その頬に手を伸ばした。
今日は肌が冷たくないんだなと、そんなことをぼんやりと考えながら無意識に引き寄せていた――。




