終章 2
翌日の朝、いつの間にか屋敷を抜け出していた子猫を捜して庭に出ると、木の側にちょこんと座っていた。その毛は雨に濡れて、足も体も泥で汚れてしまっていた。アレックスは「勝手に抜け出すと迷子になるぞ」と、身をかがめて手を伸ばそうとしたが、土からわずかに覗いた小さな足を見つけて動きを止める。
「ああ……こんなところにいたのか……」
思わず、そう呟いていた。「アレックス様!」と、ミランダが傘を開いて駆け寄ってくる。
「雨に濡れてしまいますよ?」
そう言いながら、ミランダはアレックスに傘を差し掛けた。傘を叩く雨音を聞きながら、「ああ……」と返事をする。ミランダは地面に行儀良く座っている白い子猫に視線をやり、すぐにその子猫が見つめているものに気付いたようだ。
アレックスが傘を受けとると、彼女はしゃがんで土から覗くその足に手を伸ばす。そっと触れると、痛ましげに目を伏せていた。アレックスは彼女が濡れないように傘を傾けて、黙って見つめる。
「…………やっぱり、この子は連れて帰るべきじゃありませんでしたね……あのまま、アレックス様に預けていれば、きっとこんな風に死なずにすんだのに……」
そう言って、彼女は言葉を詰まらせる。
アレックスは身をかがめると、片手で座り込んだまま動かない子猫を片腕に抱く。
隣でしゃがんでいるミランダは、声を殺して静かに泣いていた。
「神でもないのに、人の生き死にをどうにかできると思う方が烏滸がましい。私の友人の医師なら、そう言うだろうな。猫でもそれは同じだろう……それが、運命だったんだ。そう、思うしかないさ……」
「でも…………こんなひどい目に遭わせてしまいました…………私のせいです…………きっと、痛かったと思います……苦しかったと思います……」
ミランダは項垂れて、「ごめんなさい……ごめんなさい……」と小さな声で謝る。
雨と一緒に、地面にできた水たまりに滴が落ちる。
「君がうちの庭で見つけなければ、二匹とも命を落としていた。たとえわずかな時間だったとしても、君の屋敷で温かな時間を過ごせたことは、この猫にとって救いだったはずだ……」
アレックスは片腕に抱えた白い子猫を、ミランダの手に渡す。
彼女は戸惑うように視線を上げた。子猫は小さく鳴いただけで、大人しい。
「いつまでも、君の猫を預かっているわけにはいかないからな……」
死んだ子猫のかわりとはいかないだろうが、せめて生き残ったこの白い子猫は幸せになってほしかった。ミランダは白い子猫をギュッと抱いて立ち上がる。アレックスも、傘を持ち直して立ち上がった。
土に埋もれている子猫は、雨が止んだ後でどこかにちゃんと埋葬し直してやる必要があるだろう。ここでは、鳥や獣に見付かってしまいそうだ。
「屋敷に戻ろう……君が濡れると、またメアリーにお小言を言われそうだ」
アレックスが足の向きを変えようとすると、シャツを引っ張られる。
「アレックス様……この子は、やっぱり……アレックス様に預かっていてほしいのです」
「だが……」
躊躇うアレックスを、ミランダは濡れた瞳で見つめる。
「私……ではやっぱり……また死なせてしまいそうで……怖いのです……私は……」
呪われいるから――。
その言葉を飲み込むように、彼女は震える唇を閉じていた。
「どうか、お願いします……」
子猫の泥で汚れている濡れた毛を自分の頬に押しつけながら、彼女は懇願するように頼む。
迷うように雨雲の広がる空に目をやり、フッ吐息を吐いた。
「わかった……だが、この子猫は君の猫であることには変わりない。だから……時々は、君も会いに来てやってくれ」
そう言うと、彼女はゆっくりと顔を上げ少しばかりホッとした様子で微笑んだ。
「ありがとうございます、アレックス様」
「そうなると……やっぱり、名前をつけないとな……」
「それじゃあ……ロキはどうでしょうか?」
「よりにもよって、イタズラ好きの神様の名前をつけるのか」
余計に手に負えないいたずらっ子になりそうだと、アレックスは子猫の鼻をツンッとつつく。ミランダの腕に抱かれた白い子猫は、クシュンとくしゃみをしていた。
「そうですね。戻ったら、温かいお風呂にいれてあげないと」
「きっと嫌がって、屋敷中、泥だらけのまま走り回るぞ」
「ジェファーソンが眉を潜めそうです」
「ああ、そうだな。掃除は手伝うことにしよう」
少しばかり元気が出たのか、ミランダは濡れた頬を拭って笑っていた。
アレックスがクラウスと共に王都に戻ることになったのは、事情聴取を終えて、すべてが片付いた翌日のことだ。アレックスとしてはもう少し、彼女の屋敷に滞在していてもよかったのだが、クラウスは医院を閉めたままにはしておけない。それに、屋敷の周囲をうろついている新聞記者に見付かるのも都合が悪い。事件が公表されてからというもの、彼女の領地は世間の注目を集めてしまっている。アレックスが屋敷に長期滞在しており、事件に関与していることが知れ渡るのは、彼女の名誉のためにも避けたいことだ。
王都の公爵邸に戻った後、事件の顛末を朝刊の記事で知った。ロイ・バーンズが犯行に及んだ動機は、『事件を解決し、昇進して王都に栄転したかったから』というものだったらしい。なんとも、拍子抜けするような理由だが、そのために吸血鬼の犯行を装って殺人を繰り返していたのだ。その罪を領主であるミランダになすりつけて始末し、自分の手柄にしようとは呆れたものではある。
彼がミランダに渡した飴には、やはりクラウスが言っていたように幻覚作用のある薬草の成分が含まれていた。その副作用として、強烈な眠けに襲われるらしい。ホーリー伯爵領では、馴染みのある薬草だったようだ。鎮静剤の薬材としても使われているという。
さらに、彼が殺した村の娘は、ロイと密かに関係を持っていたようだ。恋人からの逢い引きの誘いがあれば、親の目を盗んで家を抜け出すことくらいするだろう。相手が巡査であれば、娘は疑いもしない。
本当に出世のためだったのか、あるいは先祖代々受け継がれてきた使命のためだったのか、それとも別の理由があったのか、本人以外知る由もないことだ。ただ、事件は解決した。それで十分な気がした。少なくとも、彼女はもう――因習に縛られることはない。
朝食のテーブルで朝刊に目を通していたアレックスは、それを置いて紅茶のカップを取る。
「オリバー、今度うちでパーティーが催されるのはいつだった?」
顔を上げて、後ろに控えていた侍従に尋ねた。
「来月ですね」
(来月……それなら、少しは状況も落ち着くか)
紅茶をゆっくり飲み終えてから、カップを置いて席を立つ。
「後で手紙を届けておいてくれ。招待状を添えてな」
「承知いたしました」
「…………誰にとは聞かないのか?」
「聞いてほしいのですか?」
オリバーは軽く眉を上げて聞き返す。
「いや、いい……」
アレックスは軽く手を上げて、食堂を後にした。
部屋に戻って書斎机に向かうと、ペンを取る。
少し考えてからペンを走らせていると、ソファーでくつろいでいた白猫のロキがトコトコとやってきて、膝の上に飛び乗った。その上、かまってほしそうに鳴きながら、机によじ登ろうとする。
「あっ、こら。またインク壺をひっくり返したいのか? 白猫のくせに、真っ黒になるぞ」
いくら注意しても、このイタズラ好きの猫は邪魔をするのをやめようとはしない。
仕方なく、ロキの体を片腕に抱えながら、手紙の続きを書く。
『親愛なるミランダへ――』
そんな文面を読み返して、「いや、親愛というほどではないな」と独り言をもらす。クシャッと手紙を丸めてゴミ箱に放り込んだ。新しい便せんを取ると、『ミランダへ――』とシンプルに書き出す。だが腕から逃れたロキが机に飛び乗り、伸びをするついでにインク壺を蹴っ飛ばしたものだから、テーブルの上が真っ黒になる。
アレックスは額に手をやり、盛大に溜息を吐いた。
「やっぱりお前は、ミランダの屋敷においてくるべきだった……」
今度、王都に彼女がやってきたら、この小さな悪魔を絶対に連れて帰らせよう。
そう心に決めて立ち上がり、「オリバー!」と従者を呼ぶ。
奥の部屋から出てきたオリバーは、アレックスの袖まで黒いインクで塗れているのを見て、「またですか」と眉根を寄せていた。
「ああ、まただ。こいつをどこかに閉じ込めておく方法を考えてくれ。大至急だ」
「無理ですね。それに、猫は自由気儘に歩き回るものです」
アレックスは「まったく……」と、うんざりして腰に手をやる。
ロキは一仕事したとばかりに欠伸をもらすと、インクまみれのまま机から飛び下りる。そのまま絨毯に足跡を残しながら、トコトコとどこかに去って行った。
その姿を呆れてみていたアレックスは、ハッとして思わず叫ぶ。
「オリバー止めろ! あいつはあのまま、私のベッドに上がるつもりだーっ!!」




