第二章 幽霊城 17
ぼんやりと墓石の前に佇んでいたアレックスは、ふと顔を上げて辺りを見回す。闇に包まれた真夜中の墓地だった。風が強く吹き、添えられた花束の花弁が散る。
その墓石に刻まれているのは、リネット・コートルードの名前だ。
彼女の墓の前に、なぜ自分はいるのだろう――。
王都に戻り、検死報告書と飴玉の件をクラウスに任せて診療所で別れた。帰りに立ち寄った図書館で本を数冊借り、屋敷に帰ったのは確かだ。その後は父母と夕食を共にして、書斎のソファーで借りた本に目を通していたところまでは覚えている。寝ぼけて屋敷を抜け出し、彼女の墓までフラフラとやってきたなんて考え難い。となれば、これは夢か?
アレックスは妙にリアルな夢だなと、眉根を寄せる。
鐘の音が聞こえた気がした。
『……ス……アレックス……アレク……」
呼ぶ声が聞こえて振り返る。後ろの立っていたのは――生前と変わらない姿のリネットだった。
驚いて声が出せず、目を見開く。
無意識に足を後ろに引いていた。近付いてきたリネットが、腕を伸ばしてふわっと抱きつく。体が硬直して動かず、息を止めた。
感触もない。背中に回した手は、すり抜けてしまう。幽霊――。
そんな言葉が頭を過ったが、馬鹿げているとすぐに頭を振った。違う、これは夢だ。
そう思うと、急に冷静になり、体の硬直が解ける。
「リネット……君は……どうしていた?」
つい、懐かしくて問いかける。声をかけると消えてしまうのかと思ったけれど、彼女の幻影は消えない。腕の中で、笑っているような気がした。
『早く行ってあげないと……あなたはいつも、間に合わないから』
体を離したリネットが、アレックスを見上げて囁く。
「どういう……意味? リネット……間に合わないってなんのこと……」
言いおえる前に、リネットは後ろに下がる。「待って、リネット!」と、焦って手を伸ばしたけれどつかめはしなかった。空を切った手に、呆然とする。
リネットの唇が動く。愛しているわと、聞こえた気がした。
もう一度彼女の名前を呼んだ瞬間、ハッと目が覚める。お腹の上で丸まっていた猫が頭を起こして、ミャーと鳴く。灯りが灯る部屋の中で、暖炉の薪が静かに燃えている。時計を見れば深夜を回ったところだった。読みかけの本はソファーと体の間に挟まったままだ。その本をつかんで起き上がる。額に手をやると、汗で濡れていた。
「間に合わない……ってなんだ?」
リネット、夢に出てくるならもう少し詳しく教えてくれよと溜息を吐いた。
そういえば、着替えていなかったことを思い出して、袖のエメラルドのカフスボタンに手をやった。
考えられるのは、ミランダのことくらいだ。気になっているから、あんな夢を見たのか。あるいは、本当に警告なのか。胸騒ぎがするが、今からホーリー伯爵領に向かうわけにもいかない。明日の始発の汽車に乗り、向かう以外にないだろう。
部屋の扉がノックされて、返事をすると従者のオリバーが入ってきた。その手に持っているのは、寝間着だ。
「こんな時間まで起きていたのか……」
「他に仕事が残っていたので。うなされていましたね」
「……夢を見ただけだ。それより明日の朝、出かける。馬車を用意しておいてくれ」
「承知いたしました……また、ホーリー伯爵領に?」
何か言いたげに見つめてくるオリバーに、「まあ、そんなところだ」と曖昧に答えておいた。
「畏まりました。着替えは多めに詰めておきましょう」
澄まして答えるオリバーに、思わず苦い顔になる。
「泊まりだとは言っていないぞ」
「すぐにお戻りになられるのですか?」
「いや……わからないな……」
何事もなければすぐに戻るつもりだが、安全は確かめておきたい。これは、そう――ただの、友の身を案じているだけだ。今まで、友人が心配で駆けつけたことなんて、一度もなかったことだが。
アレックスは咳払いして、「今度は子猫を閉じ込めておいてくれよ」と話をはぐらかす。
膝の上の子猫に目をやったオリバーは、軽く眉を上げる。それ以上は余計なことは言わず、「承知いたしました」と一礼した。アレックスの着替えを手伝うと、オリバーは「失礼します」と部屋を出て行く。
溜息を吐いて、寝室に足を向けた。
何もなければいい――。
だが、おそらくそうはいかないだろう。そんな不吉な予感が胸を圧迫する。
翌朝の始発の汽車で、アレックスは伯爵領に向かう。コンパートの荷物棚に鞄を置こうとしたが、ふと嫌な予感がして座席に置く。開いてみると、案の定――白い子猫が折りたたまれたシャツの下で丸まっていた。アレックスをキラキラした目で見上げて鳴くと、鞄から出てくる。
「オリバーめ……ちゃんと閉じ込めておけと言ったのに!」
アレックスは額を押さえてぼやいた。『閉じ込めておきましたよ、鞄の中に』と、あの従者がニヤッと笑っている顔が浮かんでくる。鞄を閉じると、子猫を抱えて座席に腰を下ろす。また、子猫の追加料金を払わなければならないだろう。
「お前のご主人様は、無事だろうな……」
アレックスが声をかけると、子猫はチラッと視線を向けたまま無視して毛繕いを始める。気ままなやつだと、溜息をついて窓の外に目をやった。
間に合わない――。
リネットの時のことが頭から離れなかった。
街の終着駅で降り、馬車を頼んでホーリー伯爵領に向かう頃には雨になっていた。
薄暗い林の中を抜けて屋敷の門の前で降りると、御者はすぐに馬車を返して林を引き返していく。
鞄を提げ、子猫を上着のポケットに入れて、屋敷の玄関に足を向けた。
濡れながらノックをすると、勢いよく扉が開く。飛び出してきたのは、屋敷のメイドのメアリーだ。
青い顔をした彼女は、アレックスを見るなり言葉を詰まらせる。
「何かあったのか?」
眉根を寄せて尋ねると、今にも泣きそうな顔をしてアレックスの服をつかんでくる。
「お嬢さまが……お嬢さまが……いなくなってしまったんですっ!!」
それを聞いて、アレックスは絶句する。堪えきれずに泣きだした彼女を押し退けてホールに入ると、奥の部屋からジェファーソンが出てくる。一緒にいるのは、ロイ・バーンズ巡査だった。
「お前……なんだって、またやってきやがったんだ!」
ロイは苛立った顔をしてやってくると、いきなり胸ぐらをつかんできた。
「お前のせいで……ミランダをさらったのはお前じゃないだろうな!? 答えろ!!」
「私は今し方到着したばかりだ。ミランダがいなくなったのはいつのことなんだ?」
アレックスは頭に血の上っているロイでは話にならないと、ジェファーソンに尋ねた。
「私がお嬢さまを起こしに行った時には、部屋にいらっしゃらなかったのです!」
そう答えたのはメアリーだ。彼女はワッと顔を両手で覆って泣き出す。
「屋敷の中をメアリーと手分けして捜したのですがどこにもおられません。ですから、バーンズ様に知らせに行かせたのです」
メアリーの肩に手を添えながら、ジェファーソンが冷静な声で答えた。動揺はしているだろうが、態度には出さない。さすがに年季の入っている執事だ。
「…………吸血鬼に襲われたんじゃないだろうな」
アレックスから手を離したロイが、険しい顔で呟く。その言葉にショックを受けたのか、メアリーは両手で口元を押さえていた。今にも倒れそうなほど、ひどい顔色になっている。
「バカげたことを言うなよ。この前も襲われたばかりだろう」
「お前がやってきたからじゃないのか!? あの時もお前がいた……やっぱり、よそ者がこの領地を荒らしにきたからっ!」
「仮にも治安を守る警察官だろ。迷信に惑わされて、感情で人を疑うのはよせ。くだらない」
ロイに冷たい一瞥を向ける。
「何だと!?」
「バーンズ様、すぐに領民に知らせを」
ジェファーソンが間に割り込むように口を開いた。ロイはチッと舌打ちすると、「逃げるなよ。てめぇの化けの皮は俺が剥いでやる!」と吐き捨てて外に出て行く。
「……屋敷の外に出た可能性があると思うか?」
扉が閉まるのを待ってから、アレックスはジェファーソンに尋ねる。
「夜は玄関扉を施錠しております。ですが……窓から出られたのであればわかりませんが、その痕跡は見当たりませんでした」
「……物音も聞いていないんだよな?」
顎に手をやってきくと、メアリーは「私がもっとちゃんと気をつけていれば……っ!」と声を詰まらせる。
「……もういい、泣くな。夜中で、こんなに屋敷も広いんだ。寝ていたら気付かないのも無理はないだろう。ミランダの部屋に案内してくれ。それと、これを頼む」
アレックスはジェファーソンに鞄を預けると、メアリーに案内してもらって階段を上がっていく。
「アレックス様が……起こしになるとは思いませんでした。もう、この屋敷には来られないだろうとお嬢さまがお話していたので」
涙を拭いながら、メアリーがどこか少しホッとしたように言う。
「ミランダが?」
「ええ……きっと怒らせてしまったからと、それはもう落ち込んで……あっ、こ、これはお嬢さまには秘密にしておいてくださいっ!」
メアリーは慌てたように言って首を竦める。
「昨日の様子は?」
「えっと、離れの塔から見つけた日記を読んでおられました」
「日記?」
「はい。アレックス様がお屋敷を離れた後、お嬢さまは離れを一人でお調べになっていたのです。あの……ことを……」
言いにくそうに声を小さくする彼女をチラッと見て、「エドナか」と呟いた。
メアリーはコクッと頷く。
そうか。彼女は彼女で、調べようとしていたのだ。
だとしたら、それを知った者が彼女の口を封じるためにさらったのではないか。
そんな予感が、頭を過る。もしそうなら――。
その先の考えを、無意識に振り払っていた。
メアリーは細い廊下を進むと、部屋の前で足を止めて扉を開いた。ここがミランダの部屋だろう。
彼女の私室に入るのは、多少気が咎めたが今は躊躇している時でもない。
中に入ると、古いが趣味のいいインテリアで飾られていた。思いのほか、かわいい内装だ。寝台には手製と思われるパッチワークのクッションと、大きなぬいぐるみが置いてある。歩み寄ってそのぬいぐるみに手を伸ばした。
「あっ、それは……お嬢さまが小さい頃から大切にされているぬいぐるみなのです!」
呪われた令嬢だの、不吉を招くだと言われているが、ただの普通の女の子だ。
フッと笑みを浮かべて、ぬいぐるみに触れた手を引っ込める。
人が入った痕跡はない。窓も施錠されている。雨が降っていたのなら、外から侵入すれば泥の跡くらいは残るだろう。だが、窓縁は濡れてもいなかった。
「昨日、雨が降り出したのはいつからだ?」
「夕食の後からだったと思います……急に雨の音がしていましたから」
メアリーがおずおずと答えた。
「アレックス様、お嬢さま……大丈夫ですよね!?」
心配そうに訊いてくる彼女を振り返る。すぐに大丈夫だと答えられず、メアリーの顔にも不安の色が過る。
「……大丈夫だと、祈るしかないだろうな。それより、捜す方が先だ」
部屋を確かめていたアレックスは、テーブルの上の菓子器に目をやった。蓋付きの陶器の器だ。その蓋を開いてみると、飴玉が入っている。眉根を寄せたアレックスは、「この飴は?」とメアリーに尋ねた。
「ああ、それは……お嬢さまがお好きな飴なんです。街でないと売られていないので、たまに頼んで買ってきてもらうんです」
誰に――とは訊かなくても分かる気がした。
アレックスはハンカチを取り出すと、その飴を移す。そんなアレックスの行動を見て、メアリーが「その飴がどうかしたんですか?」と尋ねる。「後で調べる。万が一ということもある」と、話をはぐらかして、包んだ飴を彼女に渡した。
「なくなっているものは?」
「あ、ありませんっ! お嬢さまがおられなくなった後、念入りに調べましたから」
「……猫はどこにいるんだ?」
「えっ、お嬢さまの猫……ですか?」
「ああ、こいつの兄弟だ」
アレックスはポケットから出ようとしている白い子猫を出して、彼女に見せる。この子猫の兄弟の、白と黒の模様の子猫がいる。それはミランダにいつもくっついていたはずだ。だが、部屋には見当たらない。
「そういえば……どこに行ったのか。厨房かもしれません。捜してきますっ!!」
メアリーはすぐに足の向きを変えて部屋を出て行く。
どこにいるんだ――。
アレックスは静かな部屋を見回した。
寝台のシーツに手を触れてみたけれど、温もりはとっくに消えている。
下を覗いてみたアレックスは、何かが落ちていることに気付いて身をかがめ、手を伸ばした。
つかんで引っ張り出すと、ミランダのルームシューズの片方だった。もう片方は失われている。
「シンデレラでもあるまいし……」
呟いて、軽くシューズを払う。
だが、片方がないということは、彼女はやはり部屋から連れ出されたと考えるべきではないのか。
あの飴に催眠効果のあるものが入っているのだとしたら、それも容易いはずだ。
「ミランダが読んでいた日記」
寝台の横のチェストの上に、日記が置いてある。それを手に取って開いてみると、数ページが切り取られている。破り目を手でなぞり、思案する。
これを破ったのは――ミランダだろうか。それとも、別の誰かだろうか。
何が書かれていたんだと、前後のページを読んでみる。だが、手がかりになるようなことは一つも書かれていない。
雷鳴が聞こえて、アレックスは顔を上げた。
日記を上着のポケットに押し込むと、白猫を抱えたまま部屋を出る。「子爵様!」とメアリーが、駆け寄ってきた。息を切らしているところを見ると、厨房や他の場所を捜していたのだろう。
「猫は?」
「それが……ジェファーソンさんと一緒に捜しているんですけど、どこにもいないんです。もしかしたら、お嬢さまと一緒なのかも」
「ミランダは猫と一緒に寝ていたんだよな?」
「いつもはそうです。昨日もお部屋でお世話をしていましたから……」
「……こいつを預かっておいてくれ。それと、屋敷の窓や扉に施錠しろ。誰も入れるな。知り合いでもだ」
青ざめているメアリーに白猫を預けると、急ぎ足で歩き出す。「子爵様!」と、メアリーが追いかけてきた。
「お嬢さまは……っ」
「まだ屋敷の中にいるかもしれない」
「私も行きますっ!!」
メアリーがバッと手を上げる。アレックスは溜息を吐いて、立ち止まった。
「君はジェファーソンといてくれ。それと一つ、用事を頼む」
アレックスがメアリーに耳打ちすると、彼女は真剣な表情で頷いた。
「わ、わかりました……っ!」
「頼んだ。ミランダは……助けるから心配するな」
肩を叩いてから、アレックスは通路を進む。迷うように佇んでいたメアリーもすぐに引き返したようだ。




