第一章 猫と呪われた令嬢 1
談話室で時間を潰してから大広間に戻ると、最後のワルツが終わったところだった。客人たちも帰り支度を始めている。ふと、視線を窓の方に移すと、そこに佇んでいたホーリー嬢の姿がなかった。もう帰ったのだろうかと、何気なく窓に足を向ける。別に彼女に興味があるわけではないが、そこで何を見ていたのかは気になった。
何が見えていたのだろうと――。
さっきより風が強くなったのか、テラスに雨が吹き込んで滴が窓を洗うように流れていた。
窓に手をついて目を懲らしてみたが、やっぱり、何も見えはしない。つまらなさを覚えて窓から離れようとした時、庭で小さな灯りが揺れていたような気がした。この大雨の中で誰が庭に出るというのか。もう一度見れば、やはり気のせいでもなく灯りが見える。それは、嵐のような風の中で頼りなく揺れていた。
まさか――。
ガラスの扉を開いてテラスに出ると、瞬く間に全身が濡れる。手摺に手をついて灯りを捜すと、庭の先へと遠ざかっていこうとしていた。カンテラを翳しているのは、長い髪の令嬢だ。
(ホーリー嬢……なにをしているんだ。こんな雨の中……っ!)
庭に出る彼女を、使用人は止めなかったのだろうか。こんな雨の中、人の邸宅の庭を散歩するなんて正気とも思えない。風邪でもひかれて倒れられたり、庭で迷われたりしても、面倒なことになるだろう。苛立ちをお覚え、「まったく、世話がやけるお嬢さんだな」と吐き捨てる。
テラスから大広間に戻ると、「アレックス、どうしたんだ。テラスで密会でもしてたのか?」とからかうように言いながらウィリアムがやってくる。酒に酔っているらしく鼻の頭が赤くなっていてしゃっくりまで漏らしている。
「そんなわけあるか。お前も醜態をさらす前に馬車を呼べ。帰れなくなっても知らないぞ」
彼を押し退けて忠告すると、アレックスは挨拶をしようとする客人たちを避けて大広間を出ていった。
この雨では傘も役に立たないだろう。玄関ポーチで客人の見送りをしていた侍従からカンテラを借りて庭に出る。横殴りの雨のせいで上着もズボンの裾も瞬く間に濡れて重くなっていた。空に稲光が走り、落雷の音が響く。辺りを見回して、見失った灯りを捜す。公爵邸の庭はかなり広い。暗い上に、この雨だ。視界も悪いのに、慣れない者が庭で迷えば朝まで戻れない可能性だってある。
「薔薇園の方か……?」
厄介だなと舌打ちして、駆け出す。ようやく灯りが見え、「ホーリー嬢!」と大きな声で呼びかけた。
ビクッとしたように振り向いた彼女は、怯えたように二、三歩、後退りする。
薔薇園の入り口のアーチが灯りの中にぼんやり見える。無事だったことにホッとしたが、一方で雨の中、夜の庭に出るなんて危なっかしい行動に出た彼女に対して苛立ちも感じていた。だから、彼女を逃すまいとつかんだ手にも無意識に力が入り、「何をしているんだ!」と問い詰める口調もきつくなる。
案の定、灰色のドレスも雨で体に張り付き、髪からも滴が垂れている。青白い顔で、唇の色も悪くなっていた。寒いのか小さく震えているのがわかる。ホーリー嬢こと、ミランダ・ホーリーは驚いたように目を見開いていた。瞳も髪と同じ闇の色――。その瞳に魅入られるように数秒見つめ合っていたアレックスは、雷鳴で我に返り深く息を吐き出した。腕をつかむ手の力もほんの少し緩める。
「この雨です。屋敷に戻りましょう……庭にご興味があるのでしたら、いずれまた晴れた日に案内いたしますから。それとも、何か無くし物でもしたのですか?」
アレックスが冷静な声で尋ねると、ミランダは困ったように俯いて小さく首を振る。唇を強く結んで、返事をしようとしない。
「それでは、何をしているんです? 大広間でも、庭を見ていましたよね?」
そう尋ねると、彼女がゆっくりと顔を上げてアレックスを見る。その黒い瞳に、アレックスの姿がしっかりと映っていた。大粒の雨粒が空から落ちてくる。本当に人形のようだ――。
ミランダを無意識に見つめていたアレックスは、彼女の頬に手を伸ばす。手の甲で肌に触れると、冷え切っている。それはそうだろう。季節は秋。雨に濡れたまま夜の外を歩いていれば、寒いに決まっている。温めようと、つい両手で彼女の頬を包む。そのアレックスの手の温かさに困惑したように、ミランダは顔を背けようとした。
「こんなに濡れているじゃないか……」
アレックスが呆れて呟くと、ミランダは申し訳なさそうに視線を下げる。その睫にも滴が溜まっていた。灰色のドレスの裾も靴も泥が染みこんで茶色くなっていた。舞踏会を楽しむためにやってきた貴族のご令嬢の恰好ではないだろう。
「……猫が……」
ようやく口を開いたミランダは、困ったようにアレックスを見上げる。
「猫……?」
聞き返すと、彼女はコクッと頷いて薔薇園の方を指差した。
「あっちに猫が……」
「猫を探しにきたんですか? こんな雨の中?」
それに大広間は二階だ。そこから闇に閉ざされた庭にいる猫が見えるものだろうか。不審な顔をして、庭に視線を移す。刈り込まれた垣根は雨に濡れ、庭木が大きく揺れる。カンテラの灯りも消えそうなほど頼りない。見えるのはわずかな周囲だけだ。
なのに、ミランダは足の向きを変えると、スカートを持ち上げて走り出した。迷いもなく薔薇園の中に入っていく彼女を、アレックスは慌てて追いかける。本当に猫なんているのだろうか。いたとしても、わざわ雨の中、追いかける必要はない。野良猫が庭に迷い込むのはよくあることで、彼らは気ままに歩き回り、雨が降れば濡れない場所を自分で探して隠れているものだ。
なんだって、こんなことをしているんだ。そう思わなくもないが、一度は関わってしまった以上、放っておくわけにもいかなかった。彼女は公爵家が招いた客人の一人だ。「待ってくれ!」と、呼び止めながら上着を脱ぐ。彼女に追いつくと、その上着を頭に被せってやった。厚手の生地だから、まだ中までは雨が浸透していない。傘の代わりくらいにはなるだろう。
ミランダはようやく立ち止まってアレックスを見上げ、上着を風に飛ばされないようにつかんでいた。
「それで……猫がどこにいるんだ?」
つい面倒になって敬語をやめる。ミランダは薔薇園の中をキョロキョロと見回していた。秋咲きの薔薇の葉も、ほとんどが枯れ落ちている。頭を垂れた花が雨に打たれ、花びらを散らしていた。彼女は「あっ」と呟いて、また駆け出す。雨の中、猫を探して追いかけっこに付き合わされるとは。アレックスは彼女なんかと関わったことを若干後悔しながら、ゆっくり歩き出す。薔薇園は囲まれている。見失うこともない。
落ち葉だらけになった噴水は、淀んだ水がたまっている。その中央には女神の石像が置かれていた。
ミランダは泥だらけになるのも気にせず薔薇の茂みのそばにしゃがんで、ジッと動かない。アレックスは息を吐いてカンテラの灯りを提げながら彼女に歩み寄った。上着を脱いだせいで、薄いシャツが濡れて肌に張りついていた。
「いたのか……?」
尋ねてミランダの後から覗き込む。灯りに照らされるのは、落ち葉の中で横たわっている猫だ。本当にいたのかと驚いたが、その猫はピクリとも動かない。口の周りに血が付着していた。もう、死んでいるのは触れて確かめてみなくてもわかる。
この猫を捜していたっていうのか?
彼女がこの公爵邸にやってきたのは、初めてのはずだ。この猫のことを知っているはずがない。
アレックスはウィリアムの話を思い出す。
呪われたホーリー家――薄気味悪い噂が付きまとう一族には違いない。
ミランダは動かない猫をジッと見つめていた。悲しんでいるのかと思ったが、その瞳に浮かんでいるのは困ったような色だった。あの大広間の窓のそばから、この囲いのある薔薇園の中が見えるはずもない。
眉根を寄せて、彼女の横顔を見る。
どうして、ここに猫が死んでいることがわかったんだろう。
ミランダは、「そうね……仕方ないわね……」と独り言を漏らす。濡れている地面に膝をつくと、枝と枝の隙間をのぞき込むようにしながら手を伸ばしていた。アレックスはびっくりして、「汚れるぞ」と彼女の腕を取る。だが、彼女はかまわず片方の肘をついて、グイッと隙間に腕を差し込んでいた。よく耳を澄ますと、風や雨の音に紛れて微かな鳴き声がする。
腕を戻した彼女の手は、まだ産まれて間もないような子猫をつかんでいた。震えながら息も絶え絶えにか細い鳴き声を漏らしている。アレックスは「子猫……っ」と、驚いて呟いた。
ミランダは頭にかぶっていた上着を取ると、子猫をそっと包む。
「持っていてください」
子猫を包んだ上着を渡されて、「おいっ」と焦った声を上げた。危うく落とし掛けた上着を、しっかりと腕に抱える。彼女はもう一度隙間をのぞき込むようにしながら腕を伸ばす。しばらく探ってから、泥だらけになった腕を戻す。その手には、もう一匹の子猫をつかんでいた。けれど、こちらの方はくったりとして動かない。薔薇の棘に擦れたのか、猫をつかむ彼女の手に血が滲んでいる。
両手で包んだ子猫を、ミランダはアレックスの方に差し出してくる。だから、急いで子猫を包んでいた上着を広げて、もう一匹も受け取った。
「もういないのか……?」
「……あと一匹いたんです……けど……間に合わなかった……もっと早く来ればよかった」
彼女は血と泥で汚れた手で、濡れている自分の頬を拭おうとする。子猫を包んだ上着を片腕に抱えたまま、アレックスは咄嗟に彼女のその手をつかんだ。ビクッとしている彼女に、溜息をついてハンカチを差し出す。
「戻るぞ」
彼女の手を取り、引っ張りながら歩き出す。こんなところを人に見られでもしたら、何を噂されるかわかったものではない。正面玄関ではなく、使用人用の裏口から入るしかない。
ミランダはアレックスが子猫を抱えているからか、無言でついてくる。時折振り返って母猫だったと思われる死んだ猫のことを気にしているのがわかった。
裏口から屋敷に入ると、使用人たちがびっくりしたように立ち止まってこっちを見ていた。女中の一人を呼び止め、お湯とタオル、それに薬箱を持ってきてくれるように頼む。「あの……どちらにお持ちしましょう?」と、困惑気味にきかれて、「客間……いや、やっぱり私の部屋に運んでくれ」と言い直した。
客間にはまだ客が残っているかもしれない。それに、人目のつく廊下を通りたくはなかった。そうなれば、自分の部屋しかない。
ミランダは滴を垂らしたまま、無言で後をついてくる。廊下に残る泥の跡に、使用人たちは顔をしかめていた。それも仕方ないだろう。ただでさえ、これから舞踏会の片付けをしなければならないのだ。それなのに、余計な仕事を増やされたくはない。
彼女の手を引っ張りながら、使用人用の廊下を通り、螺旋になった狭い階段を上がる。使用人たちの寝室がある廊下を通り抜けると扉があった。そこから先は公爵家の私室が並ぶ廊下だ。客人たちは入ってこない。
豪華な装飾で飾られている大理石の床の廊下を進み、自分の部屋まで辿り着くと、扉を開いて中に入る。「ここで待っていてくれ」と、言い残して廊下に出ると、ちょうど女中がお湯の盥とタオルを持ってやってきた。
「すまないが、中にいるご令嬢の世話を頼む。必要なら風呂と着替えを。ひどく冷えているようだから」
女中は余計なことはきかず、「承知いたしました」とお辞儀をして部屋の中に入っていった。
扉が閉まるのを待って、厄介事を招いてしまったなと頭を掻く。腕に抱えた上着の中では、鳴き声が聞こえてくる。子猫の世話なんて、生まれて一度もしたことがない。預かったのはいいが、どうすればいいのかもわからない。ただ、このままでは、二匹とも助からないかもしれない。
「アレックス様!」
使用人から話を聞いたのか、従者のオリバーが走ってくる。幼い頃から一緒に育った仲で、アレックスより二歳年上だ。その顔を見ると安堵して、「助かった」と声が漏れた。
「いったい、何があったのです? 外に出られていたのですか!?」
「迷子の令嬢を連れ戻しただけだ。ところで、オリバー。猫を飼ったことはあるか?」
アレックスが訪ねると、オリバーは「猫、ですか?」とひどく妙な顔をする。どうやら、その顔からすると彼にも経験はないようだ。「庭にいたんだ」と、上着でくるまれた二匹の子猫を見せる。
「獣医を呼ぶべきか?」
「こんな夜にですか? あまりいい顔をされないでしょう」
「だろうな……だとしたら、どうするべきか、猫に詳しい者を探し出してきいてきてくれ。せっかく助けたものを死なせるのも忍びないだろう?」
「そうですね……承知いたしました。先に濡れた体を乾かしたほうがいいでしょう」
「ああ、頼むよ」
オリバーと他の使用人に任せようと、上着ごと子猫を託す。
「いえ、猫もですが……アレックス様のことです」
「私は後でいい。それと、庭師に明日、薔薇園で猫が死んでいるから、埋葬してやってくれと伝えておいてくれ」
すぐにでも濡れた泥まみれの夜会服を脱いで風呂に入りたいところだが、部屋の中にはミランダがいる。女中がバタバタしながらお湯を部屋に運び込んでいるところを見ると、風呂の用意をしているのだろう。他の部屋の風呂を使うしかないなと、濡れた髪をかきあげながら歩き出す。オリバーは「はぁ」と、曖昧に返事をしてから、他の使用人を呼び止めてすぐに指示をしていた。




