第二章 幽霊城 13
顔を踏まれた感触と、子猫の鳴き声で目を覚ましたアレックスは、唸ってから額に手をやった。
覗き込んでくる子猫の双眸が、暗がりの中でも微かな光を宿している。「なんだ、餌の時間じゃないぞ」と、寝ぼけた声で言いながら、アレックスは両手で子猫をどかして体を起こす。
爪を立てて暴れるものだから、「痛たっ」と真っ白な子猫から手を離す。またしても、部屋に忍び込んで眠っていたらしい。子猫は何か訴えるように鳴き続けていた。
ようやく外から人声がすることに気付いて、子猫を抱えながらベッドから抜け出す。
なんだ――?
カーテンを少し開いてベランダに通じるガラス戸の外を覗いている。まだ外は暗い。風が吹き荒れているようだった。その中で揺れているのはいくつもの灯りだ。目を懲らしてみれば、玄関ポーチに人が集まっている。みな、村の住人だろう。
「何かあったのか……?」
アレックスは眉根を寄せると、寝間着の上にコートを羽織って部屋を出る。置いていかれると思ったのか、子猫が鳴きながら必死についてきた。「ここにいろ」と言い聞かせても、聞き入れてはくれなさそうだ。溜息をついて片腕に抱える。
階段を下りると、執事のジェファーソンと、メイドのメアリーも、寝間着のまま集まっている。扉の外で村人と話をしているのは、どうやらミランダのようだった。アレックスが階段を下りていくと、ジェファーソンが「エルハルド子爵様」と、一礼する。
「なにがあったんだ? 何を騒いでいる?」
アレックスは眉間に皺を寄せて尋ねた。「それが……」と、怯えたように口を開いたのはメアリーだ。
けれど、言葉が続かないようだ。握り締めた手が微かに震えていた。それを見て、アレックスはジェファーソンを見る。
「……村でまた襲われた者が出たのです」
完結に、ジェファーソンが説明してくれる。
「そんなまさか……人が襲われるのは、新月の晩と決まっているんじゃなかったのか?」
新月にはまだ日があるはずだ。それにこの前、村人が襲われてからそれほど経っていない。
「こんなこと、今までなかったんです……立て続けに起こるなんて!」
メアリーは両手を握ったまま、ギュッと目を瞑っていた。
「とにかく、お嬢さま。すぐに来てくだせぇ……」
そう村の人が、表でミランダに話しているのが聞こえた。
「わかりました。すぐに支度をします。皆さんは先に行っていてください」
ミランダはホールに戻ってくると、アレックスを見てハッとしたような表情を見せる。
「ごめんなさい。アレックス様……お騒がせしてしまいました」
「そんなことはいい。それより、被害者が出たのか……?」
驚いて尋ねると、彼女は青い顔をしながらコクッと頷く。ジェファーソンが、「メアリー、すぐにお嬢様の支度を」と落ち着いた口調で指示を出した。メアリーはは「は、はいっ!」と頷いて、長い寝間着の裾を持ち上げるようにしながら階段を駆け上がっていった。着替えを用意するためだろう。
「私はこれから、出かけて確かめてきます……アレックス様は、お気になさらずお休みになっていてください」
「バカを言うな。私も行くに決まっているだろう」
咄嗟にミランダの細い手首をつかむ。彼女は困惑したように、アレックスを見た。
「で、ですが……また、ご迷惑を」
「いまさら、他人行儀はよしてくれ。一度関わったんだ。最後まで首を突っ込ませてもらうからな。それに、私も状況がどうなっているのか知りたいんだ」
ミランダの手はずいぶんと冷えていた。その手を離すと、彼女は逡巡してから頷く。
「わかりました……お願いします」
「どうせ……気になってどうせ眠れないだろうからな」
アレックスは呟くように答えて、ジェファーソンに馬車の手配を頼む。一度部屋に戻ると、シャツとズボンに着替え、上着を羽織る。タイはつけなかった。そんなことに気を配っているような時間もない。コートを羽織ると、今度こそ子猫に留守番しているように言いつけて部屋に閉じ込める。扉を引っ掻く音が聞こえたが、「大人しくしていてくれ」と言い残して離れた。
エントランスホールに戻ると、ミランダがメアリーと一緒に階段を下りてくる。一緒に外に出ると、ジェファーソンが手配してくれた馬車が待っていた。手綱を握っているのは村の男だ。「アレックス様、どうかお嬢さまをよろしくお願いいたします」と、ジェファーソンが声をかけてきた。「ああ、わかっているさ」と返事をして、馬車に乗り込んだ。ミランダに手を貸して彼女を馬車の中に引っ張り上げる。
扉を閉めると、鞭を打つ音がして馬車が走り出した。
向かいの椅子に腰を下ろしたミランダは、青い顔のまま黙っている。アレックスは身を乗り出すようにして、彼女の頬に手を伸ばした。ビクッとして顔を上げた彼女の瞳が、不安げに揺らいでいる。
「アレックス様……すみません……」
「謝ることじゃないさ。だが……大丈夫か? 君こそ、屋敷で休んでいたほうがよかったんじゃないか?」
アレックスが訪ねると、ミランダは首を左右に振る。
「私が行かなければ……これも領主の役目ですから」
領主の役目――か。
その役目とは、被害にあったものの胸に杭を打ち込むこと。そのために、彼女は呼ばれる。領主以外の者がやれば、効果がないと思われているのか。どちらにしても、くだらぬ迷信だ。
「……今までにも、新月の晩以外にも人が襲われたことはあるのか?」
頬に触れる前に手を引っ込め、膝の上に戻してから尋ねる。ミランダは「ありません」と、小さな声で答えた。
「そのようなこと……私が知る限り、一度もなかったのです。今までは必ず、新月の晩でしたから。皆も警戒していなかったのだと思います」
「襲われたのは?」
「……村の子どものようです。私も知っている子なのです。とてもいい子でした……身寄りがなくて、教会で司祭様が面倒をみていらしたんです」
ミランダは「どうしてこんな……」と、両手で顔を覆っている。よっぽど、ショックが大きかったのだろう。今までは、新月の晩に襲われるというルールがあった。だが、そのルールが破られたとなれば、いつ、どんな時に、誰が襲われるのかまったく予測できないということだ。人は今後、新月の晩だけではなく、毎日のように警戒していなければならない。それがどれほど大きな不安になるのかは想像できる。
馬車が到着したのは、先日葬儀が行われた教会だった。庭に村の者たちが集まって騒いでいる。灯りがいくつも揺れていて、動揺したような声が聞こえていた。
馬車を降りると、「ミランダ!」とロイ・バーンズが駆け寄ってくる。アレックスが一緒にいるのを見ると、「また、お前か」と顔を顰めていた。それはこっちの台詞だと、アレックスも眉間に皺を寄せる。
「とにかく、こっちだ……今、遺体を下ろしてる……」
ロイはさりげなくミランダの肩に手を回して促す。アレックスは「待て」と、ロイの手をつかんだ。
「なんだよ。関係ないお坊ちゃんは、馬車の中にすっこんでころ!」
「遺体を下ろすとは、どういう意味だ?」
「お前に説明してやる義理はねぇよ」
アレックスの手を振り払ったロイは、困惑しているミランダを引っ張っていく。
ミランダは「ごめんなさい、アレックス様。そこにいてください」と、振り返って言った。だからといって、大人しく待っているわけにもいかない。それでは、何のために一緒に来たのかわからないではないか。アレックスは舌打ちして、後を追いかけた。
教会の庭に足を踏み入れると、村人たちが振り返る。「お嬢さま、こっちです!」と、男の一人が帽子を振って呼んだ。樫の木の周りに、大勢の人が集まっている。その太い幹から垂れているのは、縄のようだった。
(首を吊られていたのか……?)
アレックスが近付こうとすると、大柄な男に「おいっ!」と襟をつかまれる。
「てめぇ、よそ者だろうが!」
「だったら、なんだ?」
アレックスは平然と聞き返したが、集まった村の人たちの視線に気付いて口を閉ざす。誰もが、まるで敵でも見るような目をしてアレックスを睨んでいた。怯えたように後退りする女性もいる。
「なんだ……まさか、よそ者だというわけで、私を犯人扱いするつもりじゃないだろうな。言っておくが、私がやってきたのは数日前だ。何年も前から起こっていることまで、私のせいにされても困る」
アレックスは周りを見回して答えた。
「ああ、そうだな。だが、今日みたいに新月の晩以外で人が襲われるなんてことは、今まで起きなかった」
前に進み出てきて、アレックスを突き飛ばしたのはロイだ。
「そうだ。今までは新月の晩だけだったんだ! これは、よそ者が関わっているせいだ!!」
大柄な男が大声を上げる。「そうだ、よそ者が来たから怒りを買ったのさ!」と、老婆が杖を振り上げて叫ぶ。「よそ者がやってこなきゃ、起きなかった!!」、「お前がいると、また被害者が増えるんだよ!」と、村人たちが憎悪を向けるようにして口々に言い出す。
「ま、待ってください。アレックス様のせいではありませんっ!」
アレックスの前に立ったミランダが、微かに震えている声で訴える。
「お嬢さまは騙されてるんだ!」
「そうだ。そいつは災いをもたらす……あいつが来てからもう二人も死んでいるんだぞ!!」
声を荒らげる人たちは、聞く耳など持たない。鍬を握り締めている者もいた。
「お願いです。落ち着いてください。このようなことになって皆さんが不安になるのもわかります。ですが、誰かに責任を押しつけてよいものでもないでしょう! そのようなことして、何の解決になるのですか?」
アレックスは溜息を吐いて、自分を庇おうとするミランダの肩を叩いた。
「まったく、愚かしい連中だな……」
うんざりして言うと、「何だと!?」と大柄な男が気色ばむ。
「俺たちを見下しやがって……貴族のお坊ちゃんが!!」
「妄信に捕らわれてまともな判断もできない者は見下されて当然だろう? 吸血鬼が人を木に吊すのか? そんな前例があったのか? 聞いたことは? もしそうだったとしても、何のためにそんなことをする」
アレックスはミランダを後ろに下がらせて、一歩に前に出る。村人数人は、「確かにな」と小声で顔を見合わせていた。「騙されんじゃねぇ! こいつがやってきてから事件が起きたのは確かなんだ」と、ロイが全員を見回して声を大きくする。
「私がこの村にくる以前にも、新月の晩に襲われる者はいたんだろう。私がいても、いなくても起こる事件なのに、なぜ犯人だと安直に断定する」
「お前が犯人じゃなくても、お前がいたせいで起こったことだ!」
ロイに肩を押されたアレックスは、冷笑を浮かべた。「ロイ、やめて。アレックス様は関係ないもの!」と、ミランダがロイとアレックスを引き離そうとする。
「ミランダ、お前はなんだってこいつを庇うんだ! 二人も被害者が出てるってのに」
「これは、私の領地の問題ですもの!」
ミランダがはっきり答えると、ロイは意表を突かれたように黙っていた。ミランダはアレックスのほうを向くと、「領民の無礼をお許しください、エルハルド子爵」と膝をかがめて礼を取る。その態度に、村人も困惑したように黙っていた。だが、不満や不安が消えたわけではない。刺々しい視線はアレックスに向けられたままだ。
まったく、面倒な――。
閉鎖的な集落では、顔見知りよりも、顔の知らないよそ者を排斥しようとする。
災いも不運も、よそ者が持ち込むものだと信じている者すらもいる。
恐怖に駆られた村人たちが、その原因を自分に押しつけようとする心情は理解する。
だが、それでは何の解決にもならない。
自分が村を去ったところで、被害者は増え続ける。そのたびに、この愚かな者たちは領主であるミランダに責任を押しつけようとするだろう。明確な理由があるほうが、安心できるから。
「いいさ。それより、もう少しまともな判断ができる警察を呼ぶほうがいいだろうな。こいつでは話にならない」
アレックスはロイを一瞥する。彼は噛みつきそうな顔をして睨んでいたが、それ以上言い争うのは無駄だと思ったのだろう。足の向きを変え、遺体を取り囲む人々を押し退けていた。
「ごめんなさい、少し教会の外で待っていてください」
ミランダがアレックスの袖を摘まんで、小声で言う。確かに、これ以上――村人を刺激しないほうがいいだろう。「わかった」と返事をした。それから、暗い顔で俯いているミランダを見る。
「……大丈夫なのか?」
きっとまた、あの遺体の胸に杭を打ち込まなければならないのだろう。それがどれほど、彼女の心に傷を残すのか――。
ミランダは顔を上げて頷くと、アレックスの袖を離した。
アレックスは深く息を吐いて、教会の出入り口に向かう。
「エルハルド子爵様」
声をかけられて振り返ると、教会の司祭だった。四十過ぎの男だろうか。黒い祭服を着た司祭は、帽子を脱いで一礼した。
「……なにか?」
「このたびは、申し訳ありません。みな、気が立っているのです」
「そのようですね……このような不幸があったのですから。仕方ないことでしょう。それより、お悔やみを……あなたが面倒を見ておられた子どもが被害に遭ったと聞きました」
司祭の顔には疲労と苦悩の色が濃く浮かんでいた。そのせいで、年齢よりもずっと老けて見える。
「ええ……このようなことになるとは思いもしませんでした。教会の中で起こるなんて……」
「すみませんが、よければ状況を教えていただけませんか?」
「夜中に、悲鳴が聞こえたのです……あの子の声だとすぐにわかりました。部屋にいないので外を探すと、あの木に括り付けられていたのです。すぐに下ろしたのですが、もう……息絶えた後でした」
つまりは、この司祭が第一発見者というわけだ。
「……どうして、吸血鬼の仕業だと? ただの猟奇的な殺人犯かもしれないでしょう」
「ええ……私もそう思ったのです。残忍な行いをする者はなにも……人ならざる者だけとは限りませんから。私はすぐに、バークレイ巡査を呼びに行かせました。ああ、行ったのはシスターです。私はその場に残っていました。医師を連れてやってきた巡査が、首に噛み痕を見つけたのです。死因は出血死だと」
「首を絞められたからではないのですか? 噛み傷だけで、それほど多量の血が失われるものでしょうか……」
アレックスは訝しむように尋ねてから、木の幹から垂れ下がったままの縄に目をやる。
「いえ、首を絞められてはいませんでした。縛られていたのは腕と手でしたから」
ミランダとロイは、村人たちと一緒に遺体を礼拝堂に運び込んでいる。司祭もこれから立ち合うのだろう。「それでは」と、一礼して礼拝堂に向かう。庭から人がいなくなるのを待って、アレックスは楡の木に歩み寄る。地面を見ると、確かに大量の血痕が残っていた。それはまだ乾いていない。
(遺体を調べる必要がありそうだな……)
おそらく、今回もまともな検死は行われないだろうから。
楡の木の周りをまわって、何か他に手がかりになるようなものがないか確かめる。残っているのは、あの幹からぶら下がっている縄だけだ。アレックスは見上げてから軽くジャンプして木の枝につかまる。太いからそう簡単には折れはしないだろう。よじ登って、縄が括られている枝に移る。硬く結ばれている縄を解いて見ると、血がついていた。つまりは、殺してから縛り上げたというわけだ。
「吸血鬼だろうが、人間だろうが……悪趣味なヤツには変わりない」
アレックスは呟いて、幹から飛び下りる。
だが、これではっきりとわかった気がする。犯人は吸血鬼なんかじゃない。
人間だ。吸血鬼なら、こんな回りくどい工作なんてするはずがないからだ。
誰かが、わざと目立つように遺体を括り付けた。その意味は警告だろうか。だが、誰に対する?
領主であるミランダか、それともよそ者である自分か、領民に対してか。
空を見上げると、厚い雲が流れて月が姿を見せる。
ミランダが礼拝堂から出てきたのは、一時間ほど経ってからだった。
ふらつきそうになっている彼女を、咄嗟に支える。
「今日のところは、帰ろう」
そう声をかけると、彼女は頷いていた。




