プロローグ 呪われた令嬢
大広間に集まる舞踏会の客人たちは、華やかなドレスと夜会服に身を包み、楽団の演奏に合わせて踊り、談笑をしながら夜が更けるのを楽しんでいる。けれど、外は大雨でテラスに通じる大きなガラス戸は滴で濡れていた。雷鳴が時々聞こえ、ガラス戸がチカッと光る。
王都クローデンの高級住宅街のメインストリートに免じた一等地に、このバークレイ公爵邸があった。王家とも縁戚関係にあり、貴族の序列の筆頭。今日の舞踏会に招かれた客たちも、名門貴族やかなりの有力家の人たちばかりだ。その面々を見て客人たちも、「さすがに公爵家の舞踏会は違いますな。王家でもこれほどの威勢は誇れないでしょう」と褒めそやしていた。
今日の主役は誰から見ても公爵家の跡取りで、二十五歳を迎えたアレックス・バークレイこと、エルハルド子爵だった。白銀に近い髪の色と、サファイアのような瞳の色をした長身の美青年で、大学を卒業し父えある公爵と共に広大な所領を管理している。どこにいても目立つ華やかな風貌は、この大広間にいる淑女たちの視線を釘付けにしていた。扇で口元を隠しながら、「本当に素敵ですこと」、「ダンスの申し込みをしていただけないかしら?」と心を高鳴らせながら彼を見つめている。
ただ、近付く女性がいないのは、彼がマリア王女殿下の婚約者候補だと言われているからだ。マリア王女はアレックスの二歳下で、親類同士でもある。彼女の母である王妃は、公爵家の出だ。だが、結婚には何ら影響はない。正式に婚約者発表されたわけではないが、みんなそれを暗黙の事実のように考えていた。だから、王女を出し抜いて、彼に近付くことは王家の不興を買うことでもある。公爵と公爵夫人も、息子に近付く女性は慎重になっているだろう。そんな中で、誰がダンスの申し込みができるというのか。ただ、遠巻きに彼と踊る想像を膨らませて、溜息を吐くに留めていた。
そんな状況が、当の本人にはいささか面倒で、煩わしくもあった。
シャンパンのグラスを傾けながら、「動物園のシロクマにでもなった気分だ」と皮肉っぽく呟く。もちろん、表情は笑みを絶やさないままだ。公の場で不機嫌を露わにするほど、礼儀知らずには育てられていない。その分、口はどうしても毒舌になる。
「ご機嫌斜めだな。せっかくの主役が、置物みたいに突っ立てるだけか? 誰か誘ってこいよ」
気楽な口調で言うのは、学友で親友でもあるウィリアム・コートルードだ。男爵家の次男で軍人でもある彼は軍服に身を包みながら、気楽にこの舞踏会を楽しんでいた。体格もよく、彫りの深い顔立ちで、南方の基地に配属になっているだけあり、しっかり日焼けしている。
ただ。その日焼けは厳しい訓練の賜ではなく、海でしっかりバカンスを楽しんできたからだろう。南方の基地は海沿いにあり、海水浴客が多く訪れるリゾート地でもある。貴族の子弟で軍人になった者には人気の配属先だ。危険もなく、敵の砲弾が飛んでくることを心配する必要も今のところない。隣国との情勢は極めて安定している。
「冗談じゃない。そういうお前こそ、私に付き合って酒を飲んでないで、令嬢の相手でもしてくればいい。見られているぞ」
アレックスはチラッと離れたところに集まっている令嬢たちに目を向ける。彼女たちが俄に色めき立った。話しかけられることを期待されているのだろうが、優雅に会釈しただけで背を向ける。
ウィリアムはニヤッと笑って、肩に肘をかけてきた。
「なに言ってやがる。俺が見られているんじゃなくてお前だろ。俺みたいなしがたない男爵家の財産もない次男なんか眼中になしだ。まあ、だけど……お前と一緒にいるおかげで、注目されているのは確かだ。こういうチャンスを有効に生かさないとな。なぁ、アレックス。一緒に誘いに行こうぜ。俺一人だと、白けられて逃げられちまう」
「お断りだ。行きたければ、一人で行ってこい」
アレックは肩にのっかる彼の肘をスッと避けて、背中を強めに叩いてやった。ウィリアムは、「チェッ、付き合いが悪いな。お前の家のダンスパーティーだろう。盛り上げるのに一役かわないと公爵にお説教をくらうぞ」
「こうして、逃げ出さずに立っているだろ?」
そうでなければ、早々にエスケープしていたところだ。この広場で動物園のシロクマよろしく大人しくしているのは、一応公爵家子息たる自分の義務を忘れていないからだ。侍従が配るシャンパンのグラスを、空になったグラスと取り替えてふと視線を移す。
この華やかな大広間で、一人、どこか場違いな雰囲気を漂わせて突っ立っている令嬢がいた。彼女は窓のそばで、稲光が走る夜空をただ見つめている。歳は十七、八といったところだ。異彩を放っているのは、彼女が髪を結いもしておらず、ひどく地味な古くさい灰色のドレスを着ていたからだ。艶のある黒髪が目に入らなければ、高齢な未亡人かと思っただろう。首も手足もしっかり覆われていて、他の令嬢たちのように胸元が大きく開いてもいない。
記憶力はいいほうだが、自分が知る限り、今までどの家のパーティーでも見かけたことはない令嬢だ。アレックスが見ていることに気付くと、ウィリアムも「ホーリー家の令嬢を見てるのか? 彼女がパーティーに出席しているなんて珍しいな……まして、こんな華やかな場に」と珍しそうに彼女を見る。
アレックスは「ホーリー家?」と、眉根を寄せて聞き返した。
「ああ、ミランダ・ホーリー令嬢だよ。家は伯爵家だけど、色々いわく付きの一族さ……呪われたホーリー家だっけ?」
そういえば、そんな名前をどこかで聞いた覚えがあるなと、グラスを口に運びながら思い出す。家柄はかなり古かったはずだ。所領があるのは、荒涼とした北部の地だ。
「なぜ、呪われているんだ?」
「薄気味の悪い一族だからだろ。代々、一族の者は短命で、それもろくな死に方をしていない。今のホーリー伯爵も、行方不明で死んでいるのか、生きているのかもわからないらしい。伯爵夫人は十年前に屋敷の塔から飛び降りたそうだ。だから、今一族で生き残っているのはあの娘だけだ」
母親の自殺が父親の失踪と関わっているのかどうかはわからないが、確かに穏やかな話ではない。
「失踪の理由は?」
「わかるわけがない」
月日も経っているのなら話題にも上らない。「不幸な娘だな……」と、つい同情気味に呟いた。
揺らしたグラスの中で、シャンパンの泡が弾ける。あの古くさいドレスも、金銭苦によるものなのか。普通なら未婚の女性には付き添いがつくものだが、そばには誰もいない。誰も近付こうとしなかった。
「親族もいないのか?」
「さあ。母親の親族ならいるかもしれないが、不幸な死に方をしたんだ。関わりたくないと思っているんじゃないか? 不吉だからな」
ウィリアムはひょいっと肩をすくめ、「やけに気にするじゃないか。ああいうのがお好みかな?」と冷やかすように訊いてきた。
「くだらないことを言うなよ」
「けど、あの辛気くさい恰好はともかく、なかなかの美人だぞ」
「なら、お前が誘ってくればいいだろう」
「俺はもう少し健康そうで快活な女性が好みなんだよ。しかし……なんだって、公爵家のパーティーにやってきたんだ?」
「結婚相手を探しているんだろう。ここにいる未婚の者は全員そうじゃないか。お前と私も含めて」
「俺は確かにそうだが、お前はもう探す必要もないだろう?」
マリア王女のことを言っているらしい。アレックスはうんざりした顔で前髪をかきあげただけで否定も肯定もしなかった。その件で、口うるさく言われているのは否定しようがない。
「だが、気の毒に……あの娘を誘おうなんて相手はいないだろうな。呪われたくはない」
ウィリアムは手をヒラヒラと振って離れていく。どうやら、ダンスに誘う相手を見つけたらしい。
品よく笑い合っている令嬢たちの方に歩いていき、礼儀正しく挨拶して話しかけていた。ワルツもちょうど終わり、フロアで踊っていた人たちが入れ替わる。
相変わらず、ホーリー嬢は窓際に佇み暗闇に閉ざされている外を見つめている。その表情は人形のように変わらない。
あんな娘と結婚することになったら、一生、つまらないだろう。呪われているなんていわく付きなら、なおさら敬遠されるに決まっている。公爵家が招待状を送ったのは、一応伯爵家が古い貴族の家柄だからだろう。伯爵家の爵位目当てで言い寄る相手はいるかもしれないが、父親が行方不明で、見つかる見込みもないとなれば、それも期待できそうにない。
「まあ、なんであの子がここに……」
「いやだ、汚らわしい……」
「あのみっともないドレスでよく出てこられるわね……言い笑い者よ」
そんな囁き声が聞こえて振り返ると、令嬢たちが話をしていた。アレックスと目が合うと、パッと恥じらいを見せて会話をやめる。
せっかく、舞踏会に招待されているのだから、少しは馴染む努力をすればいいものを。それとも、誰とも関わりたくないのか。だったら、なぜわざわざこの場に出てきたのか。義務を果たすために、誰かに言われてイヤイヤ参加したのだろうか。
「人のことを、とやかく言えた義理でもないな……」
グラスの縁に唇をつけ、自嘲をごまかす。主催側でありながら、誰かと踊る気もなく突っ立って見世物になっているのだから。アレックスはこの場にいるのが気詰まりで扉へと向かった。
(だけど、いったい……なにを見ていたんだ……?)
窓の外はテラスと庭園だ。こう荒れた天気では、月も拝めはしないだろう。暗闇に降る雨と稲光が見えるくらいだ。薄気味の悪い娘と言われている理由が少しばかりわかる気がした。