第015話
同時刻‥‥‥同じく高等部体育館にある体操部の練習場では準備運動で柔軟をする高梨瑠璃の姿があった。
ここ最近の彼女は急な身長の伸びや第二次性徴のせいで身体的にも精神的にもバランス感覚に崩れが出てきて,難度の高い技で精彩を欠くようになっていた。
小柄な選手が多い体操の世界で高梨瑠璃も例に漏れず中学3年生で140センチにも届かなかった。
最近ではサプリなどを使って身長を年間で20センチも伸ばしたりするのも可能だが,高梨瑠璃の場合はサプリを使っていないにも関わらず150センチを超えてきてバストサイズも大きくなり,大人の女性らしさが滲み出るようになってきた。
しかも成長は留まらず,まだまだ伸びている。
海外では女子でも170センチを超える選手もいるので問題はないが,それでも成長痛である膝の骨端症によって高梨瑠璃の得意とする床運動で着地における衝撃に耐えきれず着地姿勢を崩すようになっていた。
だが,体幹はしっかりしているので怪我には結びついていない。
彼女の体幹は斎藤由里の両親が運営する剣道道場で鍛えられたものだ。
聖ウェヌス女学院初等部を受験する前からなので他の6人よりも付き合いが長い。
高梨瑠璃は初等部に入学してから剣道から体操にその活躍の場を移していた。
どうやっても剣道の英才教育受ける齋藤由里に勝てる気がしなかった上に彼女と爭いたくなかったのもあり,丁度彼女自身がテレビで見たロンドン国際競技大会の選抜戦での体操競技に目を奪われたのも遠因だった。
無論,道場での稽古を辞めた訳ではないが高学年頃から徐々に姿を見せなくなり,中学に上がると剣道から完全に足を洗った次第だ。
体操競技は1964年の東京国際競技大会以降この50年間で競技における演技難度はAからCまでの3段階から男子はIまでの9段階,女子に至ってはJの10段階まで進化を果たした。
さらに技の難度と組み合わせで評価される演技評価点のDスコア,技の雄大さと美しさに着地の静止で評価される実施と出来栄えの評価点のEスコアの合計で競われ,選手によってどちらかに重点に置き演技構成を決めるようになっている。
高梨瑠璃は後者に重きを置いている。
特に近年は映像技術のデジタル化やレベルアップで解像度が上がりフレームレートの最適化で技の技術分析が容易となり,床運動の宙返りなどのアクロバット系の運動やターン,開脚ジャンプなどのダンス系の運動を詳細の解析できる。
だからこそ,次の大会に向けて新技の練習もしたいところだが何も出来ないもどかしさには辛いものがある。
そのため,今は筋肉を増やして少しでもその衝撃を和らげられないかと四苦八苦しているところであった。
今日も高梨瑠璃はその痛みを感じつつも地道に練習に励んでいた。
(今日は日本に来て一番楽しかったな‥‥‥もしかしたら,生まれてこの方一番だったかもしれない)
樋口ソフィアは今までの彼女とは違い非常に浮かれていた。
登校時には齋藤由里に話し掛けられ,始業式前の教室移動の際には本庄真珠と水原光莉と談笑できたのが大きな要因だった。
本庄真珠たちに「一緒に帰ろう」とまでは言えず,だからと言って諦め切れない気持ちからホームルームが終わり2人の部活動が済むのを待って,高等部の校舎内をふらふらと徘徊して,誰も居なくなった教室に戻り気もそぞろで落ち着かない。
本当ならウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂に行ってお祈りをしてきてもいいのだが,彼女たちの部活動がいつ終わるのかも知らないため,彼女たちの行動の見える場所に居たかったというのが正直な気持ちだった。
普段から持ち歩いているK18GFの聖母マリア像とゴールドクロスのネックレスを取り出して,お祈りしようとしたがポケットから出て来たのはメダルの破片だった。
(これはいったい,いつの間に‥‥‥私,こんなメダル持っていないし‥‥‥)
今はメダルよりも本庄真珠と水原光莉,齋藤由里の3人の動向だ。
眼下にあるグラウンドでは本庄真珠の所属する陸上部の部員たちがトラックで走り込みをする姿が見えており,その向こうにある室内プールでは水原光莉の所属する水泳部が練習をしているのが朧気ながら眺めることができた。
樋口ソフィアは早く2人の練習が終わらないかとそわそわとしており,窓際からグラウンドと室内プールの2か所を確認できる席で立っては座り,座っては立ちを繰り返している。
(何だろう? 今までこんな気持ち味わったことがない。友だちが居るってこんなにもうきうきするものなのかな?)
初めて味わう心地良さ‥‥‥目の敵にしてきたとも云える長尾智恵は毎日こんな気持ちでいたのか?
その羨ましさに嫉妬をしていた樋口ソフィアは妙な優越感を覚えた。
何せ長尾智恵からいつも一緒に居た2人を引き離したのだから‥‥‥
そんな高揚感もあり,「ヤッター!」と大きな声で叫んでみたいという抑えきれない衝動に駆られていた。
ホームルームが終わって1時間が経ち,既に長尾智恵は玄関ホールの下駄箱の前に来ていた。
もちろん,加地美鳥,安田晶良と待ち合わせのためである。
あわよくば齋藤由里を掴まえられればという気持ちもある。
「智恵! ごめんね」
「美鳥,大丈夫だよ」
「待たせちゃったよね。私が圧しちゃったもんだから」
「別に気にしなくていいよ,晶良」
「じゃあ,行こう」
加地美鳥が促して3人並んで玄関ホールから外へと出て行く。
高等部の敷地を抜けて,遊歩道に出ると安田晶良が口火を切った。
「講堂へ移動する時なんだけどね,真珠と光莉がソフィアと楽しそうにお喋りしていたんだよ。あまりに今まで考えられない光景だったからびっくりしちゃった」
「私の並んでいたところにその声が聞こえてきたから驚いたよ。でもソフィアちゃんと仲良くするのは別に悪い事じゃないからそれはそれでいいと思うんだ」
長尾智恵にもその声はかすかに聞こえていたから何を話しているのかは気になっていたが,2人も詳しい内容までは聞こえなかったようだ。
「確かに。それに私は登校の時の由里の態度が気になって‥‥‥」
「美鳥,今朝何かあったの?」
「そうか晶良は知らなかったんだよね。由里がね,智恵を置き去りにしてソフィアと登校してたんだよね」
安田晶良はさらに驚いたのか思わず手に持っていた鞄を落としてしまった。
しゃがみ込み鞄を拾いながら長尾智恵の顔を見上げるようにして切り出す。
「えっ? いくら何でもそれはないんじゃないの? どうなの,智恵」
「それもそうなんだけど,ソフィアちゃんがね。「これからいいことがある」と言ってたんだよね。それが私はずっと気になっていて‥‥‥」
「いいこと‥‥‥って?」
「私にもよく分からない。でもその時の意味深な顔が妙に気になるんだよね」
そんな長尾智恵たちの様子を遊歩道の菩提樹の後ろから顔を出してじっと見つめる人影があった。
「あともう少しで‥‥‥次はあの娘にしよう‥‥‥」
そう呟くとその人影はスーッと菩提樹の陰へと吸い込まれて消えた。
聖ウェヌス女学院の正門前には交差点があり,横断歩道を渡った向こうの右手側には聖ウェヌス女学院前停留所がある。
このバス停からは近くの2つの駅まで学バスと呼ばれる一般の路線バスより運賃を値引きされた路線が運行されている。
この路線バスを使って通学する生徒も多数いる。
御多分に洩れず,長尾智恵をはじめ幼馴染たちも樋口ソフィアもこの路線バスを使って通学している。
正門前まで出てきた長尾智恵,加地美鳥,安田晶良の3人は交差点の横断歩道で信号が青になるのを待つ。
長尾智恵はふとバス停で待っている乗客の中の姿を見て驚愕した。
そこには樋口ソフィア,本庄真珠,水原光莉の3人が一緒にいたからだ。
樋口ソフィアは長尾智恵の視線に感じ取ったのかあからさまに嘲笑した。
「えっ,バス停にいるの真珠と光莉だよね。一緒に居るのは‥‥‥ソフィア?」
加地美鳥もその光景に気が付き,驚きのあまり思わず口に出してしまっていた。
直ぐにでも追い掛けたい気持ちに駆られる長尾智恵たちだったが,既に停留所にはバスが到着しており,信号が変わるのを待つと明らかに間に合わないのは確実だった。
ここは大人しく見送るしかない。
「でも,私ずっと玄関ホールに居たけどあの3人が通ったのは見なかった‥‥‥いつ外へ出たんだろう?」
校舎の玄関ホールに居れば,部活動や委員会にも入っていない樋口ソフィアは先に敷地外に出ている可能性もあり見掛けないにしても,部活動をしていた本庄真珠と水原光莉は玄関ホールを通らなければ高等部の敷地外に出ることは出来ない。
待ち合わせの前まで長尾智恵は少なくともグラウンドで練習していた陸上部の部員たちが居たのを確認している。
あまり意識していなかったためその中に本庄真珠が居たのか居なかったのかまでははっきり覚えていないのだが。
加地美鳥と安田晶良は声を上げて呼び掛けたが,周囲の音にかき消されているのか声は届いていないようで本庄真珠と水原光莉は無反応のまま路線バスに乗り込んでしまった。
「真珠と光莉が乗ったのっていつも乗るバスじゃないよね?」
「確かにそうだね。あれだと帰るのに遠回りになるはずだよ」
「3人でどこかに寄り道するのかな?」
長尾智恵,加地美鳥,安田晶良は先ほどまで仲良くするのは別に構わないという気持ちだったが,あまりの不自然さに心にモヤモヤしたものがあって,気まずい雰囲気に3人とも路線バスに乗り込んでも何を話していいのか分からずに口を噤んでしまった。
樋口ソフィアは至福の刻を過ごし満足から微笑みを湛えている。
既に本庄真珠や水原光莉とは別れて帰宅の途に就いていた。
校舎の玄関先で彼女たちと合流してバスに乗車すると一番後ろの席に樋口ソフィアを真ん中にして3人で座り,最寄り駅までの約10分間会話を楽しんだ。
バスから下車して解散すると思っていたが,2人から近くにある彼女たち行き付けのスイーツが美味しい喫茶店に誘われた。
帰宅しても独りで断わる理由もないので一緒に行き,喫茶店でも約1時間美味しい紅茶とケーキに会話を堪能し樋口ソフィアは2人の知らない過去と一面を訊いた。
(ああ,本当に幸せなひと時だった‥‥‥)
ふと周囲を見ると乗客たちの視線を感じた。
緩み切った彼女の表情にジト目が浴びせられていたのだ。
恥ずかしさのあまり顔を伏せて瞼を閉じた。
目を瞑ると本庄真珠たちとの光景が瞼の裏に浮かび,「えへへへ‥‥‥」と半開きになった口から音が洩れるが,彼女自身は笑い声が出ているなど知る由もなかった。
周囲の乗客からは「気持ち悪い娘」という囁きもあり嘲笑や侮蔑の視線が向けられるが,自分の殻に引き籠る樋口ソフィアは耳目を閉じているので気づかない。
彼女は電車の揺れの心地良さと外界と遮断されたい気持ちからそのまま深い眠りへとその心身を堕とした。
ガタン,ゴトン,ガタン,ゴトン‥‥‥キーッ‥‥‥
ブレーキが掛かり電車が停車する際の揺れで樋口ソフィアは目を開けて顔を上げた。
「えっ?」
彼女は瞳に映る景色を見て呆然としてしまった。
黒板と教壇,椅子を引っ繰り返して載せた学校机の数々。
そこは聖ウェヌス女学院の高等部1年A組の教室だった。
(私,確かに真珠と光莉の2人と一緒にバスに乗って駅まで行ったはずだし‥‥‥楽しいひと時を過ごし別れて電車に乗っていたはず‥‥‥)
お腹に触れて2人と一緒にケーキを食べて紅茶を飲んだ感覚が残っている。
満腹と空腹の間だ。
こういう時は本庄真珠か水原光莉に電話して確認するのが一番だが,樋口ソフィアは有頂天になっていて彼女たちと連絡先交換すらしていない自分に後悔した。
(明日になったら連絡先を訊こう‥‥‥)
それにしても電車に乗車していたはずなのに教室で机に突っ伏して寝ている状況だったのかが掴めない。
(それより早く帰らないと)
外はもう夕暮れから逢魔が時になり,空は茜色の夕焼けから夜の帳が下りて昏くなっている。
本当なら地元駅のスーパーで買い物もしていかなければいけない。
明日の朝食のパンが切れていたのを思い出し,樋口ソフィアは鞄を手に取ると急いで教室を飛び出した。
『もう少しシンクロ率を上げないといけないな』
教室のカーテンの隙間から樋口ソフィアを見遣る影が呟いた。
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