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第013話

今日も千坂紅音はピアノの前に座り,一心不乱に十指を鍵盤の上で踊らせる。

その動きは夏休み中の練習とは違い,機械のように精密ながら滑らかかつ繊細であり,その中に大胆さもあった。

ピアノ室から流れてくるスピーカーを通した演奏に,練習をしていた他の音楽部部員たちや前室に居る顧問の真田美咲さえもまるで時の止まってしまったかのようにその素晴らしく圧倒される旋律に目を閉じ耳を傾け意識を集中している。

ベートーヴェンのピアノソナタ第23番【熱情】。

第一楽章から第三楽章までの約23分に及ぶ演奏を彼女はまるで疲れを見せずに完璧に弾き切ると目を閉じて天を仰ぎ大きく息を吐いたが,空かさず椅子から立ち上がってスカートの裾を軽く摘んでカーテシーを決める。

パチ,パチ‥‥‥パチ,パチ‥‥‥パチ,パチ,パチ,パチ!

音楽部の部室を一瞬の静寂が支配したが,誰からともなく疎らな拍手が起きて,音楽部部員たち全員がスタンディングオべ―ションのような雰囲気になり大きな拍手がうねりとなる。

千坂紅音に拍手の音は聞こえなかったが,視線を向ければ室外の喧噪は実感できた。

部屋を出ると取り囲まれ最大限の賛辞に浴びて恥ずかしそうに真っ赤に頬を染め,そのまま動けなくなってしまった。

「凄くよかったよ!」

「うん,うん,思わず聞き入ってしまって何もできなかったよ」

「ありがとう!」

音楽部部員たちは千坂紅音の周りに集まってきて,感想を述べるが本当なら言葉に表せないというのが事実だろう。

それでも何とか言葉に表したいといったところか。

「千坂さん,ここまで演奏できればコンクール本選も大丈夫そうね。やったじゃない!」

「ありがとうございます!」

「でも油断はしちゃダメよ」

「はい!」

真田美咲は今日の練習で千坂紅音が完璧な演奏を出来たのを嬉しく思い素直に褒めながらも自身が学生時代に練習での成功で有頂天になり本番で失敗した経験を踏まえて注意するのを忘れなかった。

真田美咲はコンクール本選の演奏に目途が立ったのを馬場佐波に報告するため,部室を出て学長室に向かった。


同時刻‥‥‥高等部体育館にある剣道場では秋の学生剣道大会に向けて一心不乱 に剣を振るう剣道部部員たちの姿があり,その中には千坂紅音の幼馴染の齋藤由里の姿もあった。

聖ウェヌス女学院初等部に入学するよりも早く物心が着いた時には腕の中に入る可愛いヌイグルミより,自分の背丈よりも長い母親の竹刀袋を抱き枕のようにして抱いて眠るほどだったのは両親から受けた影響が大きい。

彼女の両親は同じ道場に通いながら剣を通じて愛を深めたし,母親は齊藤由里を妊娠して安定期に入ると竹刀を振って基礎練習だけは欠かさなかった。

齊藤由里が乳児の頃は母親の竹刀袋に抱き締めると母親が付近に居なくても泣き止み安心し切った表情で寝入るくらいで,物に掴まらなくても立ち上がれるようになると歩くよりも先に足捌きを見様見真似で覚えたくらいだった。

彼女には兄妹が居るが剣道は遣っていない。

兄はサッカー選手で,妹は聖ウェヌス女学院中等部に通うバレエダンサーだ。

だから両親も齊藤由里には剣道の指導に力が入る。

ただ兄妹とも両親から抜きん出た体幹を受け継いでおり,現在でこそ科学的に体幹は分析されているが,それを両親も彼女を含め兄妹も直感的に鍛えてきた。

兄妹は優秀な成績を残しているので無理に剣道を遣らせはしないし,齊藤由里が剣の道に進んでくれたからこそ,自分たちは自由に好きなスポーツが出来ると感謝をしている。

それはともかく,小児にとっては厳しい稽古を目に涙を溜めながらも心は折れることなく,毎日毎日積み重ね13歳で初段を取得して,現在は二段に昇段している程に努力を積み重ねてきた。

一眼二足三胆四力が重要と云われる剣道において,二段昇段後に交通事故で負った足の怪我の影響で二足の基となる足捌きが悪くなり,それが齋藤由里の三胆の基となる度胸と決断力に富む剣捌きにも影響が出てしまっていた。

普段の生活では影響がないくらいに完治している。

でも精神的には傷が癒えていなかった。

「まだまだ,人生は長いんだから無理することはないわ‥‥‥」

剣道部顧問の高坂愛海や両親からは暫く練習を休むように促されていた。

「宮本武蔵の言葉に『千日の稽古を鍛とし,万日の稽古を練とす』とあります。刀鍛冶が鋼を毎日毎日休みなく鍛錬をする様子から来ていると‥‥‥」

剣道は基本的に他のスポーツや競技と比較すると選手寿命は長いが,日々の鍛練を欠かす訳にはいかない。

周囲からは焦ることなく地道に稽古を積んでいって欲しいと言われるが,最年少昇段を目指していた齋藤由里にとってそれは遠回りの何物でもない。

ましてや彼女の幼馴染たちは各スポーツの分野において一線級の選手が揃っており,選手寿命が長いのは理解しているが,幼馴染たちに遅れを取りたくない気持ちが焦りを生む遠因となっているし,彼女には剣道しかないと思い込んでいるので表立って誰かに相談出来るわけもなく実は一人その悩みを内に抱えていた。

(16歳になったら三段の昇段審査を受けて合格しないと‥‥‥)

今は何を言っても聞かない齋藤由里なので,周囲の目のある所で稽古するのを条件に認めざるを得なかった。

兎にも角にも今は面を着けない基礎稽古である素振りと足捌きに励んで昇段審査を通るという目標に一途に取り組むのだった。


樋口ソフィアは今日もまたウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂にお祈りに来ていた。

いや,「今日も」という表現はおかしいのかもしれない。

4回目となる繰り返される始業式の日。

いつまで経っても来るべき始業式の翌日を迎えられないでいる。

「今の状況が明晰夢の中だとすればその切っ掛けは『4日前』の始業式前日としか思えない。

ここでお祈りをした時に聞いた謎の声。

その正体は今を以って分からない。

もしかすると睡眠中の彼女自身の無意識の産物という可能性もある。

ともかくあの日から謎の声を聴いていない。

(何時になったら時間が動き出すの? 単純に考えると長尾さんの幼馴染たち‥‥‥本庄さん,水原さん,千坂さんが一人ずつ私に話し掛けてきているからあと4人‥‥‥あと4日は始業式の日を繰り返すのかな? それに私が休んでしまうと彼女たちに会えないから日にちが進むこともない?)

今日は祭壇の前に跪き目を瞑りながらお祈りをするのではなく,会衆席と呼ばれる背のついた長いベンチ式の信者席に座り,誰もいないこの場だからこそ落ち着いて思考を張り巡らせている。

(あれっ? でも,2日目の水原さんが話し掛けてきた時は本庄さんとは絡んでいない‥‥‥そして今日,千坂さんが話し掛けてきた来た時は本庄さんはおろか水原さんとも絡んでいない?! これって,その都度1人ずつしか話し掛けられないということなの? それとも私の意識が一人ひとりにしか向けられなくて対応できていないとか?)

樋口ソフィアにとって確かに高校に入る前は父親の転勤で国内のみならず海外も転々としており,友だちをまともに作ったこともないし,今までに付き合いのあった顔見知りでも今連絡が取れる人の数は片手の指で数えられる程度しかいない。

(逆に私にその気があれば,今までに話し掛けてきた人と総て絡むことも可能なのかな? もしかしたら試してみる価値はあるかも‥‥‥それでダメになってもそれは元に戻るだけだし‥‥‥それにどうせ明日も始業式だろう‥‥‥それなら考えられる色々な方法を試してみるのもありかな‥‥‥)

樋口ソフィアにとっての4日前‥‥‥始業式の前日までとは違い,考え方が前向きになっているのだが,彼女自身はそんなポジティブな思考しているのにはまるで気づいていない。


(結局,何も分からなかった‥‥‥)

加地美鳥は最寄り駅から路線バスに乗車して帰宅の途に就いている。

バス停で下車して自宅の見える位置まで歩いて来ると何やら玄関の前が不穏な空気に包まれていた。

「いい加減,帰ってくれ!」とか「警察を呼ぶぞ!」という男性の怒鳴り声が耳に入り,玄関前の道路には近所の住人たちが遠巻きになってその様子を眺めている。

加地美鳥を発見した彼女の家の裏の小母さんが駆け寄ってきて,「お父さんと芸能事務所のマネージャーを名乗る人が揉めているわ」と教えてくれた。

その言葉に誰が来ているのか分かった彼女はこのまま玄関から家に入ると反って揉め事が大きくなると思い,小母さんに「裏の木戸から帰りたい」とお願いした。

加地美鳥は迂回して裏の家から木戸を通りお勝手口から自宅に入った。

玄関口では扉の隙間から心配そうに外の様子を窺う母親の後ろ姿があったが,このまま声を掛けると驚いて自分が帰宅したのが知られると思い,リビングに居た祖母に頼んで母親を呼んで来て貰った。

リビングで待つ加地美鳥を見て母親は安堵の表情を浮かべた。

「お帰りなさい。少し遅かったから大丈夫か,心配したわ」

「ただいま。裏の小母さんが状況を教えてくれて木戸の方から戻ったの」

「そう。それならよかったわ」

「また,あの人が来たの?」

「ううん。今日は違う人よ。私も見るのが初めての人だからインターホンで対応していたんだけど,丁度お父さんが帰って来て玄関前で揉めてるのよ」

加地美鳥は正直玄関先で揉めて近所に知られる恥ずかしさがあったが,その裏返しとして父親が自分を大事にしてくれているのを実感していた。

暫くすると父親が家の中に入って来た。

「まったく‥‥‥近所迷惑になるだろうが‥‥‥」と独り言をブツブツと大声で発しながらリビングに入って来た。

「おお,美鳥。帰って来ていたんだな。お帰り」

「ただいま,お父さん。裏の小母さんに助けて頂いたわ」

加地美鳥が家に入ったのを確認した小母さんは最寄りの交番に向かい警察官を呼んでくれた。

「そうか。後で御礼しておかないといけないな」

「それで今日は何を揉めていたの?」

「ああ,その件は夕食の後で話すとしよう。せっかっくの母さんの美味しい御飯が拙くなりかねんからな」

「美鳥,直ぐに御飯にするからね」

「分かりました。では着替えてきます」

夕食を済ませると御茶を飲みながら家族会議が始まった。

「とにかく傲慢なマネージャーだったよ」

父親の話では「加地美鳥の身柄を差し出せ!」「芸能界で売ってやるんだから有難いと思え!」という上から見下すような態度で,「うち以外からデビューしたら仕事できなくして潰す」とまで強弁したらしい。

実際,辞めたタレントに仕事を出さないように圧力を掛けたり,今まで使用してた芸名を使用禁止にするなどは当たり前だと言われている。

中には管轄の警察と繋がっていて軽い罪なら握り潰しているなんて噂まである程だ。

「それでな,美鳥。暫くはこの家から通学しない方がいいと思う」

「私も賛成。家や学校に居る分にはあの事務所も手を出してこないとは思うけど,登下校時に何かあったら大変だもの」

「それって,私に寮生活させるということ?」

「ええ,そうよ。入寮条件には『自宅より通学できないやんごとなき理由があれば認める』とあるもの。それに以前,中等部の学長さんに相談したら高等部より上の学生であれば寮に空きがあれば大丈夫と聞いているから」

「母さん,これからアポイントを取って問題なければ直ぐにでも手続して貰おう」

母親は席から立ち上がると電話を手に取った。


『今回はどうであったか?』

『イエス,マイロード。加地美鳥にシンクロできない原因は彼女が着用しているエメラルドのネックレス以外にもあるようです』

『何,ネックレスだけではないと?』

『はい。彼女の家には特殊な結界が張られたようで我々の侵入そのものを拒絶するようになっているかと』

『儂らの侵入を拒む強力な結界があの小屋みたいな家に施されている?』

『はい。玄関だけでなく窓をはじめ,家全体を結界で覆っているようで隙が見当たりません』

『それは屋根や地下からでも無理ということか?』

『水道管やガス管,電線に電話線などありとあらゆる家の中に繋がる媒体からの侵入も試行錯誤してみましたが‥‥‥可能性があるのではなく不可能だと思われます』

『結界を破壊するのは可能なのか?』

『不可能ではありませんが,半径10キロ程度を吹き飛ばして焦土と化す威力が必要です』

『小型の戦術核レベルの攻撃ではないか。それでは加地美鳥すらも消滅させてしまうな。結界を消せても意味がないな』

『はい。本末転倒になるかと‥‥‥』

『うーむ。この状況がいつまで続くのか分からぬからな。暫く様子を見るしかないか‥‥‥』

『イエス,マイロード』

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