第012話
2020年9月X日X曜日‥‥‥
新しい朝が来た‥‥‥今日こそ絶望の朝でなければいい‥‥‥
ぐぅぅぅ‥‥‥
チュン,チュン,チュン‥‥‥
何か分からない音とベランダの柵に留まりお互いを啄ばむ雀の囀りと窓のレースのカーテン越しにベッドに差し込む朝日の眩しさに樋口ソフィアは目を覚ました。
(もう‥‥‥朝‥‥‥いつの間にか寝てしまっていたんだ‥‥‥)
枕元の時計を確認すると表示は5時30分で,ここまではこの4日間と変わらない。
(今日もまた始業式なのかな?)
嫌気というより抗えない絶望感に苛まれる。
起き上がろうという気持ちはあるが,気怠さから体を動かしたくない。
「今日も休んじゃおうかな‥‥‥」
彼女の中では“も”だが,以外のその他大勢の人にとっては“も”ではないのは分かっている。
10分くらいベッドの上でゴロゴロしていたが,意を決して起き上がり支度を始める。
ぐぅぅぅ‥‥‥
(別に誰かに聞かれたわけじゃないけど‥‥‥)
空腹で鳴ったお腹の音に目を覚ましたと気づき,その恥ずかしさで頬を薄っすら赤く染めていた。
「そういえば,昨日の夜から何も食べていなかったっけ。よしっ!」
やはり朝食は和洋関係なくしっかりと食べて,気持ちも身体も充実させないと1日が始まらない気がして仕方ない。
パチンを頬を叩くくらいに気合を入れて,部屋から出るとキッチンに向かった。
「ふん,ふん,ふふん‥‥‥」
空元気でもいい,テンションを上げて,キッチンで朝食の支度をする。
気分転換に今日はテレビも点けている。
画面から流れてきた映像と音声の日付は9月1日だった。
それでも北条祈里は開き直って,あまり考え込まないことにした。
テーブルの用意も終わり椅子に座ってテレビを消そうとした時,番組はちょうどコマーシャルが明け,今日の特集というコーナーが始まった。
普段なら食事の際の習慣でテレビを消してしまうところだったが,キャスターのその言葉にスイッチを押そうとした親指が止まった。
『今日の特集は明晰夢です』
睡眠中に見る夢のうち,自分自身で夢であると自覚をしながら見ている夢のことで,明晰夢の経験者はしばしば,夢の状況を自分の思い通りに変化させられると云われるらしい。
『‥‥‥脳内において思考・意識・長期記憶などに関わる前頭葉などが,海馬などと連携して,覚醒時に入力された情報を整理する前段階において,前頭葉が半覚醒状態のために起こると考えられ,明晰夢の内容は見ている本人がある程度コントロールしたり,悪夢を自分の望む内容,厳密に言えば無意識的な夢と意識的な想像の中間的な状態に変えたり,思い描いた通りのことを実現可能な範囲内で覚醒時に体験したりすることが可能である‥‥‥』
テレビの中でキャスターの解説が続く。
ソフィアは食べるのを忘れて,パンを左手で掴んだまま,眼は画面に見入り,耳は音声に傾けている。
テレビに映る時刻は15分経っているだろうか‥‥‥番組の特集が終了してまたCMが流れ始めた。
(まさか‥‥‥明晰夢‥‥‥もし今の状況が夢の中の出来事だとしたら,私はずっと眠っている状態になるのかな?)
「だとしたら,どれだけの時間を眠り続けていることになるの?」
樋口ソフィアは自分の発した声で我に返り,左手に持っていたパンを皿の上に落としてしまった。
下手すれば何年も眠り続ける眠り姫のような状況に置かれたと思い描いたら怖くなってきた。
眠りから覚めたら彼女の知る人が存在しない世界はまるで童話の浦島太郎の世界と一緒だ。
仮に数年だとしても眠り続けたことで筋力が落ちて起き上がれなくなりリハビリの必要な身体になっている可能性が高い。
(もし,眠っていないんだったら少なくとも私以外に誰かがこのデジャヴを理解しているのかな? さっきまでのテレビを見る限りでは騒ぎになっている様子もないし)
これが樋口ソフィアの明晰夢でなければデジャヴが起きているのは確実だけど,デジャヴだと理解しているのは全世界で彼女だけなのか‥‥‥こんな事態が本当に起きていて理解している人間が居れば,ネットでの炎上やテレビで騒ぎになっていてもおかしくないはずだ。
「あっ,急がなきゃ!」
早く食べて出発しないといつものバスに間に合わなくなってしまう。
片付けは帰ってからにして,テレビを消し,さっさと食べる方に集中する。
使った食器をシンクに放り込んで水を張り,玄関に向かう。
(よし,まだ間に合うわね)
スマートフォンで乗りたいバスの動きをロケーションサービスで確認してみたらどうも運行は少し遅れているようだった。
路線バスに乗車して,当然のように空いている座席に腰を下ろす。
(やっぱり明晰夢を見ているのかな? でも番組を見るまでは「私が夢であると自覚して見ている」なんて自覚はなかったし)
そう思いながらスマートフォンでインターネットを検索してみる。
今は路線バスの中でもフリーWi-Fiが使えるから結構利用している。
(明晰夢‥‥‥これが唯一のキーワードなのだから)
画面には明晰夢を見る方法が幾重にも羅列される中,「明晰夢でタイムリープ」という表現に視線が釘付けになった。
無性に気に掛かる言葉だ。
(もしかすると,これなのかな?)
内容はこうだ。
毎日目覚めた時に明晰夢の内容を日記などのように内容を綴っておく。
明晰夢は自覚の出来る鮮明なものなので,通常の睡眠時に見る夢と違い記憶として留めやすい。
そこで夢の記憶を日記に残しておくことで後日記録を思い出す訓練にもなる。
自分が「こうしたい」と考える未来を意識して夢を見ることで,自分の望む未来の並行世界を探し出して,その世界を現実に引っ張り込むこいうものだった。
『次は,聖ウェヌス女学院正門前‥‥‥』
路線バスの車内アナウンスが次の停留所で降りなければならないことを知らせてくれる。
ピンポーン!
降車ボタンを押して,スマートフォンを仕舞い,降りる準備をした。
「おはよう!」
「おはようございます!」
「はい,おはよう」
久しぶりに顔を合わす友だちや正門前に立つ先生と挨拶を交わしながらわいわいと賑やかに女子生徒たちが女学院内に入り,遊歩道をそれぞれの校舎へ向かって歩いて行く。
「ねぇねぇ,夏休みどうだったのよ?」
「これ,写メ見て,これが新しい彼氏! 夏祭りでナンパされたんだけどぉ‥‥‥大会に出られるほどテニスが上手でぇ,スマートで身長も高いしぃ‥‥‥それから,それから‥‥‥」
「いいなぁ,私は花火大会の時に二股掛けてた彼氏に振られちゃったし‥‥‥」
「ほら,そこの3人は学校の入口でそんな会話はしないように!」
女子生徒たちが一昔前の初心で夏休み明けには何処でもありそうなお約束の,他愛もない会話を交わしていて,嬉しそうに自慢げに話す子もいれば,どよーんと沈みダンマリを決めて涙ぐむ子もいる‥‥‥そばで生徒指導の先生に会話を聞かれてツッコミを喰らっている。
「やはり,また同じ光景‥‥‥ということはこの後,智恵が声を掛けてきて,さらに‥‥‥さらに誰だろう?そういえば違うよね‥‥‥最初は本庄さん,そして水原さん‥‥‥」
確かに背中を叩いて声を掛けて来る同級生が違うのを察知した。
「ソフィアちゃん,おはよう!」
「おはよう‥‥‥」
樋口ソフィアの背後から声を掛けてきたのは長尾智恵だった。
ソフィアはいつも通りの気の抜けた挨拶を交わす。ここまでは同じだ。
「んっ? どうかしたの?」
「いや,なんでも‥‥‥」
長尾智恵は樋口ソフィアの怪訝そうな態度を心配して訊いてくる。
樋口ソフィアは相変わらずの素っ気ない態度で突っ返した瞬間,背中をポンと叩かれた。
「おはよう! ソフィア!」
「さぁ,早く教室に行こう!」
明るい元気な声を掛けてきたのは千坂紅音だった。
千坂紅音は長尾智恵を無視して,樋口ソフィアの左腕を取ると半ば強引に引っ張りながら連れ立って歩いて行く。
その力は普通の女子高生とは思えないほどのものだった。
「紅音,どうしたんだろう‥‥‥?」
長尾智恵はその光景を見ながら,いつもと違う雰囲気に何が起きたのか分からず呆然と立ち尽くしてしまった。
「おはよう,智恵。どうしたの?」
「あ,いや大丈夫だよ。心配させてごめんね」
「あれ? 前に居るの紅音じゃない? その隣にいるのは‥‥‥えっ,ソフィアちゃん?」
長尾智恵の後ろから声を掛けてきたのは加地美鳥だった。
茫然自失となっている長尾智恵を心配して加地美鳥は両手で肩を掴んで揺すってくる。
長尾智恵は我に返り返事をしたが,今度は加地美鳥があり得ない光景に驚愕している。
「あの2人どうしちゃったの?」
「さぁ,私にもさっぱり‥‥‥」
2人の会話を割くように校舎から予鈴のチャイムが鳴る。
「紅音とは帰りに話しをすればいいかな‥‥‥」
でも気になり教室に入ると長尾智恵は千坂紅音に話し掛けようとしたが,間髪入れず担任の山県朋未が現れて教室移動をクラスの生徒全員に促した。
仕方がないので委員長の長尾智恵がクラスメイトを廊下に並ばせてウェヌス・ウィクトリクス講堂に向かうように指示をする。
気持ちを切り替えて始業式に向かった。
長尾智恵はその光景を見ながら,いつもと違う雰囲気に何が起きたのか分からず呆然と立ち尽くしてしまった。
長尾智恵は千坂紅音を気にするあまり,本庄真珠と水原光莉の姿がないのに気づいていなかった。
ウェヌス・ウィクトリクス講堂での始業式が終わって,生徒たちは各自の教室に戻り,ホームルームが始まった。
1年A組では担任の山県朋未が席替えや新学期のカリキュラムの説明など諸々の伝達を淡々と進めていく。
樋口ソフィアは今朝の千坂紅音の態度もそうだが,自分にだけ始業式の日が3日も続くという今の状況に山県朋未の話に身が入らない。
(何で今朝の紅音はあんな態度だったんだろう‥‥‥私,何かしたっけ?)
長尾智恵も千坂紅音の態度が気になってはいたが,クラス委員という立場と真面目さから山県朋未の話には集中するようにしていた。
そんな対照的な2人に千坂紅音は至極普通に話に耳を傾けている。
(どうしちゃったんだろう?)
そんな3人の姿を見ている加地美鳥は気になって仕方がない。
ホームルームが終わり,長尾智恵は千坂紅音と話をしようと席をみたが,そこには既に千坂紅音の姿はなかった。
「紅音,もう部活動に行っちゃったのかな? 仕方ないから明日ちゃんと話をしよう」
そう考えて長尾智恵は教室を出た。
そんな長尾智恵の様子を教室の扉から顔を出してじっと見つめる人影があった。
「そうだな‥‥‥次はあの娘にするか‥‥‥」
そう呟くとその人影はスーッと教室の闇へと吸い込まれて消えた。
加地美鳥は演劇部顧問の飯富清華に「今日はお休みします」と伝えて聖ウェヌス女学院大学附属の図書館に調べものをしに来ていた。
朝の千坂紅音の態度もそうだが,連絡もなく本庄真珠と水原光莉が無断欠席しているのに長尾智恵がまるで無関心で,担任の山県朋美も気にしていない状況に違和感を持っていた。
彼女は演劇の傍らで中学生から役の心理を考察するのに心理学の本を片っ端から読み漁っていた。
図書館で調べたからと言って何か分かるとも思えないが,現在の置かれている状況に違和感を強く覚え,少しでも解消したかった。
(何か,デジャヴというのか‥‥‥似たような経験を繰り返しているような不思議な感覚‥‥‥真珠と光莉が居ないのも,紅音の態度がおかしいのももしかしたら関連があるのかも?)
キャレルに本を山積みにして時間の許す限り読み耽った。
「いいね」「評価」「レビュー」も受け付けています。
よかったら,評価やブックマークをして頂けるとありがたいです。
宜しくお願いします。