第011話
音楽部のピアノの置かれた防音室に入り,千坂紅音は1回だけ大きく深呼吸をした。
ピアノの前まで進み椅子に腰を下ろすと鍵盤の蓋を上げる。
「準備はいいかしら?」
前室のマイクから声を掛けてきたのは音楽部顧問の真田美咲で,山県朋美と同じ聖ウェヌス女学院の卒業生で先輩に当たる。
千坂紅音は真田美咲の方に向き小さく頷いて鍵盤に手を置いた。
今日,演奏するのは高等部に上がってから練習しているベートーベン作曲ピアノソナタ第23番【熱情】。
(何か今日なら完璧に弾けそうな気がする‥‥‥)
約23分に及ぶ演奏が終わり,椅子から立ち上がると前室に戻って来た。
真田美咲は録音していた演奏を千坂紅音と聴き直す。
「ここは‥‥‥ほら,もう少し強く弾かないと曲調に合わないわね」
一時停止しては巻き戻し何度か聴いては有名な音楽家の演奏と比較をする。
(今日はもっと上手く弾けていると思ったのに‥‥‥ちょっと情けないな‥‥‥)
結局,蓋を開けてみればいつもと同じ場所で躓き指摘を受けた。
同じ場所で失敗するのならと夏休み中に集中的に練習してきたのに改善の兆しすら見られない。
「ねえ,千坂さん。バガテル第25番を弾いてみてくれない?」
「25番と言うと【エリーゼのために】ですか」
「ええ,そうよ。【エリーゼのために】も分散和音・連打音をはじめトリル・オクターブ・トレモロ・三連符・半音階など様々な演奏テクニックが盛り込まれているわ」
「はい。それは重々承知しております」
「勿論,貴女は初等部入学前からピアノを習っていて低学年の時に弾き熟していたのも知っているわよ。だからこそ,今一度聴いてみたいの」
「分かりました。先生がそこまで言うなら‥‥‥」
ピアノの部屋に戻って椅子に座って改めて鍵盤に指を構え深呼吸して演奏を始めた。
【エリーゼのために】はピアノを習い始めて3年くらいの中級者向け練習曲としても有名だが,メロディーの一部にオクターブの広さがあり小学校高学年から中学生の手の大きさがないと綺麗に弾き熟せないと言われる難しい曲でもある。
その曲を初等部低学年で綺麗に弾き熟した千坂紅音は手が大きかった訳ではなく,彼女の感性と技術が高かった証明だった。
「問題があるとは思えないわね」
前室に戻ると真田美咲の第一声だった。
千坂紅音も問題なく演奏できた自信があった。
「だとすれば,貴女の気負いが原因ではないかしら?」
「気負い‥‥‥ですか‥‥‥」
「ええ。スポーツマンのイップスと同じようなものね。動作に支障を来して突如自分の思い通りに動けなくなる症状‥‥‥局所性ジストニアと言って不随意で持続的な筋肉収縮を音楽家の手指に引き起こすのよ」
「私が‥‥‥イップス‥‥‥でも弾けるのは弾けるんですよ?」
「弾けなくなると云うよりも,鍵盤から指を持ち上げたり,手を移動したりするのに時間が掛かりリズムが不正確になるの。それが原因で特に小指や薬指が屈曲して指を早く動かせなくなったりもするの‥‥‥録音するだけでなく演奏している鍵盤を撮影してみましょうか」
「撮影ですか?」
「そう。遣れることは遣ってみましょう」
カメラの用意が難しかったので一先ずスマートフォンで【熱情】の第一楽章と【エリーゼのために】の2曲を指先がよく見えるように拡大して二度撮影してみた。
「やはり,ほら‥‥‥ここ。ここで指の動きが悪くなっています‥‥‥それにもしかすると‥‥‥」
真田美咲は土屋真理に連絡を取る。
「CTやMRIの精密検査を受けてみないと詳しいことは分からないけど‥‥‥」
土屋真理は問診と触診を終え,前置きをした上でジストニアという病気について説明を始めた。
「遺伝性だと発症年齢は幼児から30歳代までの成年で殆どの場合,小児期が多いわ。親御さんにもお話を訊かないといけないけど,千坂さんは遺伝性の可能性は低いと思うの。千坂さんは毎日のようにピアノのレッスンをしているようだからジストニアであれば現時点での私の診断は局所性だと思う。ただ映像と触診では筋肉の硬直とまでは確認できない。総合病院で頭部の精密検査して大脳基底核の状況を見るのがベストだわ」
「それで,何が分かるの?」
「もし大脳基底核の被核に肥大が見えるようであれば,ボツリヌス療法で一時的に緩和させるか,それでも効果がないようなら外科手術が必要になるわ。勿論,他にも理学療法もあるけど,後は専門の先生に判断して貰って」
千坂紅音はそこまでの深刻な事態に為っているとは思わず,血の気が引いて顔色が悪くなっていた。
「千坂さん,不安になるのは分かります。先ずは御両親と相談して下さい。治療によっては保護者の同意が必要になりますから」
「は,はい。分かりました」
「あと要因の1つに正確な運動の反復があるので暫くピアノを含めて楽器の演奏はしないでね。」
演奏できないのが彼女にとっては一番のストレスだった。
帰宅した長尾智恵は制服を着替えると本庄真珠のスマートフォンに電話してみる。
トゥルルル,トゥルルル,トゥルルル‥‥‥
空しく発信音が耳に響くが,電話に応答する気配は感じない。
「真珠,全然出ない。どうしたんだろう?」
一旦電話を切って,水原光莉,千坂紅音のスマートフォンにも続けて電話してみたが,結果は本庄真珠の時と一緒だった。
「今まで電話に出ないなんてなかったのに‥‥‥心配だな」
長尾智恵は3人の自宅にも電話をしてみた。
数回の発信音の後,留守番電話に繋がるだけであった。
仕方がないので,メッセージを聞いたら連絡欲しいと伝言だけ残しておいた。
「家の人も誰も出ないなんて‥‥‥」
トゥルルル,トゥルルル,トゥルルル‥‥‥
「もしもし,智恵?」
スマートフォンに電話してきたのは加地美鳥だった。
「ねぇ,真珠たちと連絡取れた?」
「ううん,全然出ないし…‥向こうからも返信はないよ」
「私もさっき掛けてみたんだけど繋がらなかったよ‥‥‥」
加地美鳥の話だと安田晶良,齋藤由里,高梨瑠璃と4人で部活動後に落ち合ってみんなで電話を掛けたようだ。
長尾智恵だけ先に帰ったから何かあったらと心配して連絡して来てくれたらしい。
それから就寝する寸前まで幾度となく長尾智恵は本庄真珠に電話を掛けてメールを送り返信を待とうと考えていた。
加地美鳥,安田晶良,齋藤由里,高梨瑠璃の4人は本庄真珠と水原光莉に連絡をしていた。
23時55分にグループチャットに書き込みがあったが,それは長尾智恵たち5人がそれぞれ連絡が着かなかったという報告だけで,本庄真珠たちは既読にならかった。
(あれ,そう言えば紅音も既読にならない?)
西暦2020年9月1日火曜日23時59分‥‥‥を迎えていた。
長尾智恵はグループチャットの書き込みを見て心配から未だに眠れず,千坂紅音もに電話を掛けている。
トゥルルル,トゥルルル,トゥルルル‥‥‥
耳には何十回と発信音が響くだけで応答はない。
そこに突如として発信音にガリガリッとノイズのようなものが混じった。
長尾智恵はスマートフォンを耳から離し慌てて画面を見る。
画面には電話の発信中を示すアイコンと,上の方には時刻のデジタル表示,Wi-Fiとモバイルネットワークの表示,充電残量の表示が並んでいるだけだった。
てっきり千坂紅音のスマートフォンに繋がり,受信状態の悪さからノイズが聞こえたと思ったのだけど,その予想は外れていた。
時計の針が0時を回ったのを確認した彼女は連絡するのを諦めて発信を切り,スマートフォンを充電器にセットしてベッドに寝転んだ。
(それにしても‥‥‥真珠も,光莉も,紅音も,スマホに出ないばかりか,自宅の固定電話に掛けても応答がないなんて‥‥‥幾ら何でもおかし過ぎる‥‥‥)
自宅の電話が鳴るということは火事に遭ったなどではないはずだ。
もし,万が一にも押し込み強盗や誘拐であれば,頻繁なスマートフォンの着信音やマナーモードの振動音を嫌がり,電源を切ってもおかしくない。
(だとしたら,スマホを所持させずに攫われたということ? しかも家族全員?)
普通に考えたら家族で出掛けて帰宅が遅くなっているというのが一般的だろうが,今日は9月1日で火曜日だ。
明日は学校や会社も休みではない。
長尾智恵の頭の中では想像をしたくない絶望的な事件ではないかと思い浮かべてしまう。
時折,報道番組でもニュースや過去の出来事として取り上げられる凄惨な一家惨殺事件。
もしかしたら真珠や光莉,紅音の家がその犠牲者になった‥‥‥と考えただけで虫唾が走り,咽喉の奥が焼けるように熱くなり胃液が食道を上がってきているのが分かる。
このままだと嘔吐しかねない。
そう感じた長尾智恵は慌てて起き上がると洗面所に向かった。
既に夕食を摂ってから5時間が経過しており,夕食後は間食もしていなかったので吐瀉物の中には食べたものは含まれておらず,胆汁が漏出した黄土色の胃酸の酸っぱい臭いが更なる吐き気を催してしまう。
30分は洗面台の前でしゃがみ込んで縁の部分に顎を預けていた。
吐き気も漸く収まり,下顎の痛みを感じて立ち上がる。
正面の鏡に映る自分自身の顔をふと眺めて「酷い顔ね」と呟いていた。
自分の顔だというのに自分の顔ではないような他人事の感想‥‥‥
それほど彼女が自身の表情だとは思えなかったのだ。
乾いた胃酸の所為で唇はカピカピになっており,同じように口角と頤唇溝から垂れた胃酸が周辺の肌の色を変色させていた。
胃酸が食道から口腔へと上がる症状は逆流性食道炎を起すものとされていて,過度なストレスが原因とされる。
長尾智恵の身にはほぼ半日ほどの間でストレスが溜まったのか,目の下には隈まで出来ていた。
踵を返してよろけながらも洗面所から出て,何とか部屋に戻りベッドに腰掛けるとほぼ同時に扉をノックされた。
「お母さんよ。智恵,何かあったの? 大丈夫?」
「‥‥‥もう,大丈夫。少し気持ち悪くなっただけ。直ぐに寝るから」
「そう? 気を付けてよ。何かあったらお母さんに言いなさい。おやすみ」
「おやすみなさい」
母親は扉を開けることはせず,長尾智恵の言葉と口調を信じて寝室に引き上げた。
(多分,お母様にはバレバレだろうな‥‥‥)
もう深夜の時間帯だ。
ここで問答してもそれは生産的でも建設的でもない。
母親も理解しているから長尾智恵の言葉を信じた振りをしてくれたと思っていた。
(もう,いい加減寝よう)
長尾智恵はウェットティッシュを取り,口の周りを綺麗に拭って,ポイとごみ箱に捨てた。
ベッドに横になると掛け布団を頭の上まで被り瞼を閉じる。
未だに3人の安否が心配で直ぐに寝付けそうにもない。
そんなモヤモヤした気持ちで1時間以上を息苦しさを感じながら布団の中で過ごしていたが,いつの間にか寝息を立てていた。
『千坂紅音はどうなった?』
『イエス,マイロード。無事にシンクロに成功しました』
『ほう,それは重畳だな。ただ,思いの外強めにシンクロしてしまったのか,肉体に変調を来しております』
『そうか。それは拙いな』
『申し訳ございません。医師に掛かり精密検査が必要とか言っておりましたので,時間が巻き戻った場合にどのような影響が出るのか‥‥‥』
『うむ。それは問題ないと思うが‥‥‥』
『何か,ご懸念でもおありでしょうか?』
『いや,大丈夫だだろう』
このままでは自身の失態を追及されかねないと思い誤魔化す。
『それで加地美鳥の方はどうなのですか?』
『あれは少しばかり時間が掛かりそうだ』
『そうですか‥‥‥』
『それよりもお主は千坂紅音の方に集中するように』
『イエス,マイロード』
配下は辞去した。
(うむぅ‥‥‥まったくあ奴は直ぐに誤魔化そうとするな。それに何か歯車にズレが出始めているようだな)
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