〜9〜雨夜のコイバナと怨霊
「上流層の家が落ちぶれた場合は、どうですか?」
「おお、確かに」
「逆に出世した場合とか」
「ありますね」
そうなるとトップとボトムは想像つくけど、中間層って難しいよな。
悩んで頭を捻りたいが、ふと惟光を思い出した。
貴人らしくと注意されそうな気がして、ぐっと堪える。
頭を捻ったとて、答えが出てくるわけでもないが……
そんな事を一人考えていると、複数の足音が聞こえてきた。
ひょいと顔を覗かせた二人を、俺は知らなかった。
「おぉん、ものいみにぃい……」
うわ、知らないと思うと、何言ってるか分からない。
いや、これはきっと俺の先入観。理解できるはず。
集中して聴きながら、必死に意味を理解しようと努力した。フリーズしているように見えるかもしれないが、これは集中の構えだ。
「こもらあぁ……」
うう、頑張れ俺。
「むぅとて、まぁいれぇえりぃ」
う〜んと?
んん〜。
おぉ!
もしかして、一緒にお籠りしよって事かな?
物忌ってみんな暇なんだな。
「おお、左馬頭 に 藤式部丞ではないか」
頭中将がタイミング良く言ってくれたおかげで、役職は分かった。
女房の話にはなかったが、とりあえずこの場はなんとかなりそうだ。
で、どっちがどっちだ?
シトシトと降る雨をBGMに立つ二人に、頭中将が上中下の分け方談義を説明している。
この2人に意見を求めようというのか。
ふと、片方に目が止まる。
後で知ることになるのだが、目が止まったのは左馬頭だった。
なぜ注目したのかと言うと、その肩に異形の姿が見えたから。
黒いブツブツしたヘドロのような、粘性の物体に見える。
警戒してその物体を見ていると、スッと亀裂が薄く入った。
亀裂はプルプルと小刻みに震え、やがて二つに分かれ、その下からは目が現れる。
な、なんだあれ!
そう思った瞬間、現れた目と視線がぶつかる。
ヒイィいい!こっち見るな〜!
頭中将が先ほどの議論を二人に投げかけているが、変なモノと目が合っている俺は聞いている余裕がなかった。
その目は毛細血管が色濃く浮き始め、瞳孔が開いてきたように見える。
目を逸らしたら行けないような気がして、冷や汗をかきながら瞬きもせず頑張った。
数秒が経過して、目の渇きに目蓋が痙攣を始める。
せめて黒い物体の視線から、体を動かして外れてみようと、足に力を入れたが動くことができなかった。
いや、足だけじゃない。手も、首も動かせない。
それなのに、瞬きだけはできそうだった。
いっそ、そこも固めてくれよ!
げ、限界……!
目を一瞬だけ閉じてすぐに開く。
高速瞬きをした!
つもりである。
しっかり開いたはずの視界は、真っ暗闇だった。
一瞬の間に起きた暗転。
演奏会の時のような薄明かりもなく、自分の手足さえも見えない、完全な暗闇。
ふと、清水寺の体内巡りを思い出した。
あの時は右手に手摺があり、左は誰かの手を握っていた。
あれ?誰の手だっけ?
清水寺っていつ行ったんだ?
確かあの時は手すりを頼りに歩いたものだ。しかし、今は手に触れるものが何もない。
恐る恐る手を伸ばしてみるが、何も触れてこない。
今度は四方を確認しようと、体を捻った。
ふと、遠くに仄かな明かりを見つける。
このまま立ち止まっていても何かの進展があるとも思えず、そちらへ向かってみる事にした。
遠い明かりの 中心、そこに徐々に見えてきた、人のようなものに注目して歩く。
座っている……いや、蹲っている?
似たような人影を、見たことがあるような気がした。
近寄って行くと、後ろ姿だと分かる。
ふっと、何かの記憶と重なった。
なんだろう、誰かが言っていた。アスファルトに座り込む、着物の……う〜ん、思い出せない。
さらに近くなってくると、波打つように長い艶やかな黒髪が目に入ってきた。
まるで、百人一首の姫の札を模したような姿だ。
顔を袖で覆っており、表情が分からない。
なんだろうと警戒しつつ近づくと、その姫のような人が泣いていることに気がつく。
「いや、わたしを許して。助けて……ここから、出して……」
この暗闇に囚われている人だろうか。
「あの……」
声をかけると、肩をビクつかせて黙る女性。
袖から目だけを覗かせて、恐る恐ると言った様子で俺を見た。
「大丈夫ですか」
怖がらせないよう、少し微笑んで声をかけた。
かすかに息を呑む音が聞こえた。
「あ、あなたは……もしや、光君」
布のせいでくぐもった声がそう聞いてきた。
知り合いだろうか。
「そう、呼ばれる事もありますね」
とりあえず頷いて答えると、女は慌てたように立ち上がる。
「お、お助けください」
女性は俺に駆け寄って抱きついてきた。
俺の鎖骨に髪が触れて、少しくすぐったい。
それと同時に、ブワッと広がる甘い香り。
クラリとするほど、濃厚な匂いだった。
「ここは、どこですか。お助けしたいのは山々ですが、脱出方法は俺、いやわたしにも……」
分からない、と言えず、すとんと膝をついた。
な、なんだこれ。
足から力が抜けたようだ。
「大丈夫ですか?」
助けるために近づいた女性に、支えられている自分が少し情けなかった。
「大丈夫、です。あなたは?」
「はい、光君が来てくださったおかげで」
そう言って微笑んだ女性の顔を、初めて正面から見た。
目鼻立ちのしっかりした美人だ。微笑んでいるのに、まるで作り物のような印象を持った。
甘い匂いは、この女性から?
「光君、わたしをお助けください」
「もちろん、で……す。しかし、どうやって助ければ……よ、い、のか……」
言葉を発するための筋力すらも、抜けていくような感覚。
女性は魅力的に微笑むと、着物の襟を少し開いた。
「ここに、悪いモノがおりまする」
胸の谷間がしっかり見えて、ドキッとした。
「あ、の……」
口を開くのも怠いほど体が重たいのに、心臓は驚くほど活発に脈打っている。
女性は俺の手を掴むと、自分の首に持っていった。
「な、んだ……?…………」
喉元に当てられた手は、女性の導きにより少しづつ下へ向かう。
胸の膨らみを感じ始め、重く動かない体とは裏腹に、心は大騒ぎを続けている。
「……」
口を開いて何か言葉を発しようとしたが女性の、しっと言う声と共に、唇に指が添えられる。
今や俺の手は、女性の胸をがっつり覆っている。
これはイカン。いや、遺憾!
早く退けねば!
いや、でも柔らかくて気持ちいいな……
……体、動かせないし。
そんな心の葛藤を知ってか知らずか、女性は俺に覆いかぶさって押し倒してきた。
顔が近づいてくる。
こ、このまま行けば、キスしてしまいそうな距離!
その思考が完結するよりも早く、俺の唇は奪われていた。
唇も柔らかいなぁ。
手も唇も幸せだ、ああ……このまま目が覚めなくてもいい。
唇から感触が離れ、女の顔が俺の頬に移動する。感触は頬から耳を舐めて、徐々に下降し首筋にかかろうとしていた。
その時。
「きゃあぁあぁぁぁ!」
バチンと何かが弾けるような音の直後、激しい悲鳴。
首に電撃が走るような痛みと、鼓膜を震わせる轟音。
胸の辺りにドンっと何かがぶつかるような衝撃。
突如視界から消えた女を探して前後左右を見た。
女は左前の少し離れたところにいた。
袖で顔を覆い悶絶した女から、半透明の黒いモヤが滲み出ている。
なんだと思い、黒いモノを注意深く見ていると、徐々にハッキリしてきた。そして、それが自分に伸びている事に気がついてしまった。
腕のような形状をしており、俺の胸を掴んでいる。しかも、指が体の中に半分埋まっていた。
「やば……!」
焦って思わず黒い腕を掴んだ。
「お?」
掴める事に気がつき、自分から引き離すべく引っ張ると、ずるりと抜けるような感触と共に離れた。
「か……は……!……うっ……」
傷はないのに痛みだけが全身を駆け巡る。
掴んだ手はピクピクと動いており、その先の女の形をしていたものは、すでに人ではなかった。
黒いヘドロのような塊に、幾つもの目が表れており、全ての目が俺を見て蠢いている。
「ひいぃい!キモすぎる」
そのキモい一部を掴んだ俺は、それをどうして良いのか解らず、かといって離すこともできないでいた。
前に腹を抉られるような感覚の時、投げたのはこんなやつだったのかもしれない。
今回も投げるか?
『怨霊は祓うのよ』
冬香さんの声。
だから、祓うってどうやるんですかー!