〜79〜久しぶりの出勤
「ハァ〜」
うまかった〜。
湯浴みを済ませ、麦茶と水分の多い果物を息継ぎも忘れて食べた。
美味しいと感じるほど回復したってことだな。
「俺、何日くらい寝込んでいたんだ?」
「大体20日ほどですね」
「え、そんなに?」
「はい。初七日も終わってしまいましたが、途中呪いにもあてられて、それどころではなかったのです。一時は本当に危なかったのですよ」
「呪い……」
文字が降ってきた、あれか。
半分くらい夢だと思っていたが、本当に呪われていたらしい。
3日くらいだと思っていたが、その呪いのせいで昼夜不明になって苦しんだのか。
「目を覚さない日もあって、本当に心配しました」
惟光の顔を見ると、ちょっと涙ぐんでいるようにも見えた。
「心配かけて悪かった」
「いえ、とんでもない……」
慌てて背を向ける惟光は、各所へ連絡をすると言って素早く立ち上がり出ていった。
顔を見られたくなかったのかもしれない。
1人になった俺は、改めて体の調子に目を向けてみた。
心の痛みはまだあるが、体はほとんど回復した気がする。腹に手を当てて瞳を閉じる。
外に引かれるような感覚はまだない。
「師匠、冬香さん……」
記憶もかなりありそうだ。
「俺の探し人は?」
先輩。
何の先輩でどんな顔かは、まだ分からないようだ。
だけど、早く合流しないといけないって事だけは分かった。
遅くなればそれだけ生存確率が下がるという事だ。
「若様」
惟光の声がして顔を上げる。
「少しよろしいでしょうか」
もちろんだと頷いて示す。
「明日には死の穢れも明けますが、体調はいかがでしょうか?」
「うん、大丈夫だと思う。帝も心配しているだろうし、少しくらいしんどくても参内するよ」
その言葉は惟光を喜ばせるだろうと思った。しかし眉根を寄せてこちらを見ている。
「何か、まずい?」
「……」
何か迷っているのか、惟光は正座をした足の上に置いた手を、ぎゅっと握りしめた。
「いずれ内裏に向かわねばならない事は分かっているのです。ですが……」
「何か、問題があるのか?」
神妙な面持ちの顔が頷く。
「若様を狙った呪いについてなのですが」
あの文字と墨のやつか。
「まず、引き剥がすのが大変でした。それでも3日くらいでなんとか引き剥がしたのですが、その呪いを消す事はできず、逃してしまいました」
……呪いって、逃げたりするんだな。
「完全に撃退できないとなると、再度襲ってくる可能性もありますから、雑色に命じて追わせました。と言っても、命じた者の内、呪いを視認できたものは少なく、追跡に手間取りました。ですから、確実とは言えないのですが、その呪いの帰結先が……」
ごくりと息を飲み込む惟光に。俺は息を止めて答えを待った。
「内裏の方角でした。仔細までは不明ですが、内裏にいる誰かが、若様を呪っているのだと思われます。若様を呪った人物がいる場所へなど、送り出したくはありません」
惟光は眉間に皺を寄せたままそう言ったが、俺は正直、なんだ、そんな事かと思った。
「大丈夫だよ惟光。呪われたの初めてじゃないし」
呪い入り唐菓子を、もらった事があると言った方がよいのだろうか。
しかしすぐにその考えを改める。
弘徽殿の女御様かなと思ったが、さっき見たあの美しい人もまた怪しいと気がついたからだ。
あれが夢ではなく、俺が生霊みたいな形で内裏を彷徨っていたとしたらどうだろう。
いや、そもそも引き寄せられていたのだとしたら?
最後のあの人。やっと来たって言ってなかったか?
「初めてじゃないって、若様!」
俺の思考を遮るように、青ざめた惟光の顔がぐっと近寄る。
「何度か襲われているのですか? どうして今まで黙っておられたのです」
「い、いや……どうしてって言われても」
普通のことなんだと思っていたから、なんて、とても言えない。多少はみんな経験している事じゃないの?
「内裏がそんな危ないところだったなんて。帝のお膝元ですのに」
惟光はそう言うと立ち上がった。
「呪い避けなど、あの覆面以外にもご用意いたします」
そう言い残して、惟光は明日へむけての準備に入った。
翌日。
「いや、えっと」
俺は朝から見知らぬ女房に号泣されていた。
お粥を持ってきてくれたから、ありがとうと言って一口食べた直後、女房が息を呑むような音を出したから顔を見ると、みるみる涙が溢れてきた。
驚いていると、そのまま床に突っ伏しての号泣。意味がわからずお粥を手に持ったままおろおろしていた。
「若君、ご回復されてようございました。このまま儚くなってしまうのではないかと、みんな心配していたのでございます」
あ、そういうことか。
「新参の右近も暗い衣ばかり羽織っておりますし、何かの暗示のようで……あぁ、本当に、本当によかった」
そう言って再び号泣する。
かなり心配かけたのだと反省し、お粥を置いて女房に近寄る。その肩にそっと手を置くと、あやす様にポンポンと叩いた。
しかしそれが裏目に出た様で、俺を見上げた女房は顔を真っ赤にして気を失った。
慌てて惟光を呼び、対処してもらって理由を聞くと、ただの興奮との回答。
俺の病気が回復したら、そんなに興奮するもんなのか?
よくは分からないが、病気の発作とかじゃないみたいでよかった。
夜の出発までに無事を確認できたらいいな……
「内裏へは左大臣様が送ってくださるとのことです」
「え?」
まだ見ぬ妻の、父。
この義父は少し言葉が聞き取りづらくて苦手だ。
惟光が言うには、娘の元にもっと通って欲しくて、あれこれ世話してくれるとの事だが、左大臣邸に行ってもその娘は俺の前に姿を現さない。存在を感じた事もないほどの徹底ぶり。
本当にいるのかな、その娘。
「あれこれ説教されるでしょうけど、頑張って耐えてください」
「説教って、何言われるんだろう?」
「物忌明けですので、やっておかなければならない儀式のような事など、あれこれ教えてくださるでしょう。お札など細々したものは、ご用意くださっていると思いますよ」
ありがたいけど、聞き取れるかな。
惟光が言った通り、牛車に乗り込んでから、左大臣の説教? レクチャー? がずっと続いている。しかしあまり聞き取れない上に、まだ本調子じゃない俺は、車の揺れに早くも気持ちが悪くなっていた。
引き返したかったが帝の心配を思うと、早く顔を見せてあげたいと思うのと同時に、他に調べたい事もあった。
だから、この揺れには耐えねば……
「大丈夫ですか」
左大臣の声が聞こえて、ふと顔を上げる。
いつの間にかぐったりして目を閉じていたようだ。
口を開くと吐きそうだったので、袖を口に当てて頷いた。
そのおかげか、左大臣もその後はあまり口を開かず、半分寝た状態で内裏に辿り着いた。
内裏に辿り着いた俺は、誰かに支えられながら自室に戻った。おそらく牛車からしばらくは左大臣、その後は淑景舎で世話をしてくれる女房が支えてくれたんだと思う。
用意された寝床に倒れるようにして寝転んだ。
眠気よりも気持ち悪さが優って眠れない。
だからと言って、対策できる事が何もない。こうやって横になってじっとしているのが最善だろう。
気持ちが悪いが、考える事はできる。
熱に浮かされていた時は思考も何もなかったが、車酔いはまだましだ。
時々気が削がれるが、なんとか考える事はできる。
「どこから調べるかな……」
そう、俺は調べたい事があるんだ。
俺に変わって活動している奴がいる。
夕顔の寝所に忍び込んだ誰か。
もし俺が寝込んでいる間に誰かが代わりに出勤していたら、その存在を確認する事ができるかもしれない。
よし、明日は色んなところに顔を出して確認してみよう。




