〜78〜幽体離脱
しばらくして気がつくと、いつの間にか内裏の風景が現れていた。
ほっと安堵して見渡す。
麗景殿辺りだろうか。
静まり返って辺りは暗い。すっかり陽は落ちて、蔀戸も閉まっている。
辺りを見回してみるが、遠くの方は暗くて見えない。
仕方がないので、近場の明かりに目を向ける。
御簾は下されているが、灯りのおかげで様子が分かる。
几帳も立てているが、女房らしき人影が2つ。扇をかざしながら、コソコソ話している。
近寄って聞こうと思っていると、ぐんと視線が近寄った。しかし格子を越えていくことはできない。まるで実体があるような不思議な現象だが、それならさっきの太刀からは逃げて正解だ。
物に遮られるのなら、切られてもおかしくない。
1人ゾッとしていると、女の話し声。
「三の姫様、本当に大丈夫でしょうか」
「ええ、女御様も心配なさってて……」
女御とは麗景殿の女御様の事だろうか。父帝の話を思い出しながら、空想上の優しそうな女性を思い描く。可愛がってくれる親戚のおばさん、みたいな感じ。
その女御様が心配する三の姫って誰?
「お髪をおろして、出家なさるのかと思いましたわ」
「え! 出家なさるような事でもございましたか?」
「ほら、男君ですよ。お渡りがないとかで」
「あぁ……今はそれどころじゃないから」
「いえいえ、もっと前からの事らしいですわ」
「そう。でも、あの方じゃあ……ねぇ?」
「独占など、とてもできませんわよね」
忍び笑う2人。ややして、1人から溜息が聞こえた。
「たった1度でも誉ですわ。何かの間違いでも良いから、わたくしも襲ってくださらないかしら」
「ね、どんな感じなのかしら、あの方のあの時って」
誰の、どんな時の話だろう。
「きっと凄いのよ」
「あぁ、体験してみたいものですわ。夢見心地であったと聞きましたわ。これは私の友人の言葉なのです。つまりは女房でもお手つきの可能性はあるのですわ。もっとも、彼女の虚偽の可能性もありますが」
「まあ!」
2人の距離がぐっと近づく。
「夢見心地とは、どのような……詳しくお聞きになって?」
「それが頬を染めるばかりで、あまり詳しくは教えてくれませんの」
「あら、それは残念ですわね」
「でも今度こそ、聞き出してみせますわ」
ふふふと笑い合った2人。
その1人がふと笑い声を止めた。
「それでは三の姫様はやはりお噂通り、妖に?」
「ええ、拐かされたとしか思えませんわ」
その会話に、ふと帝の言葉を思い出す。
あれは麗景殿での事を聞いた時だ。
確かに妖がどうとか言っていたが、どうもしなかったと帝には報告されていたはず。
心配させないために、虚偽の報告をしたのだろうか。
妖って事は、怨霊が出た可能性が高いってことだよな?
あの近距離で怪異があったのは嫌だな。二条邸のように結界があるわけじゃない。
チラリと自室の方に目を向ける。
暗闇が広がるばかりで何も見えないが、行ってみようか。
そう思って歩き始める。いや、ふわふわ移動している?
見下ろしても相変わらず足なんか見えないし。
俺、今、どういう状態?
考えながら進んでいると、右上の方に灯りが見えた。
麗景殿を北上しているのだと思っていた俺は、見覚えのない雰囲気に進むのを止める。
見覚えがないと言っても、外観が大きく違うわけじゃない。蔀戸や廊下は同じデザインだし、夜だから分かりにくいのかもしれないが、いつも見ている柱の傷や、擦っても落ちないと言われているちょっとした汚れなど、見覚えのある目印がここにはないのだ。
一度、弘徽殿に迷い込んでから、気をつけていたのに、いつもと違う視界にうっかり知らない渡殿を進んでいたらしい。
えっと、俺は今北上しているのか?
それとも南下しているのか?
やばい、どこにいるのかも分からないぞ?
いや、そもそも、状況も分からない。
そう思い、改めて自分を見下ろしてみる。
足はないし、手も見えない。
まさか、生霊状態?
妖って、俺の事だったりして。
夜な夜な彷徨ってる、とか?
ふわふわ漂ってる霧にでもなった気分だ。
うーんと唸りながら視界は前へと進み、やがては人の声に気がついて動きを止めた。
「ですから、その様なことはおやめくださいと何度も申しました」
男の声だ。
どこかで聞いた事があるような……
話し方の抑揚としては帝に近い。
あ、そうだ。兄の東宮かもしれない。
「ふん」
それに答えたのは不機嫌な鼻息だけだった。
女性かな?
格子の方を見ても、影も何も見えない。
「明らかに様子がおかしかったのです。私にはない力があの方にはあって、何かを見て驚いておりました。でもそれを声に出さず、こちらを責めることもせずにいてくださったのです」
「それがなんだと言うのです」
「帝の子を呪うのは、凶悪な犯罪ですよ。女御様が指示して行わせたとなれば、大事になりかねません。わたしの立場も含めてです」
それに対しての返答はない。どのような表情をしているのか不明だが、その後は東宮の深い溜息だけが聞こえた。
どうしようと思っていると視界が前に動き出す。自分の意思で留まる事ができないようだ。
ふと視界が開け、見覚えのある場所に出てきた。
滝口だ。
とすると、さっき俺がいたのは弘徽殿だ。
東宮が自分の母親を諌めてくれていたのか。
……やっぱり、あの菓子は危険なものだった。
怨霊かと思ったが、今の会話から察するに呪いだったのかな。
こわっ。
俺はぶつぶつ考えながら歩いているような、そんな視線のまま進んでいる。
足こそ見えないが、視界は歩いているように上下している。
弘徽殿に戻って会話の続きを聞いてやろうと思ったのに、いつの間にか考えに没頭していた。
そんな中、ふと人の気配に視線を上げる。
「ふふ……やっと来たわね」
目の前に女性がいる。でも見たことがない人だ。
着ているものからすると、高貴なお姫様だ。
六条のあの人と似たような豪華な衣を身に纏っている。
そんなに詳しくないが、俺だってシーン別に色んな衣を身に纏ってきた。仕事の時に着る衣、普段着として着ている衣、惟光が用意してくれるお忍び用の衣などだ。肌触りが違うから、素材が違うのだろう。
光沢があって、模様が複雑なものが、豪華な衣装といえる。
素材名などは分からないが、絹とかだろうか。
いや、そんな分析はどうでもいいか。
自分でも見えない俺を、この人はしっかり認識しているような気がする。
さっきの安堂寺や蜂須賀の人達と違って、はっきりと俺を認識している。
「しかもそんな無防備な姿で……ふふふ」
ゆっくりと袖がこちらに伸びてくる。
本能が危険だと叫ぶ。
「あら」
急激に距離をとった。どうやって離れたのかは不明だが、半蔀にぶつかって後退が止まる。
こちらに伸ばしかけた袖を口元に持って行き、怪しく微笑むその人は美しかった。
早く、自分の体に戻らなければ。
そんな思いに支配され、焦りが心を占める。
だからだろうか、半蔀を跨ぐように視界が動き、外に転げ出た。
そこからは、今までの動きとは比較にならないほどのスピードで視界が遠ざかる。
引き戻されるような感覚に身を任せていると、視界は高速で流れて殆ど線だ。
師匠の修行の成果か、こんなに早い視界でも酔いそうにない。
それでも引かれて、腹に負荷がかかっている感じはちょっと危険かも。続けば酔うな。
「うっ……」
唐突に目が開いた。
「はっ!」
ガバッと起き上がる。
嫌な汗をびっしりかいていた。
「誰だったんだ」
俺の探し人ではない。アレは怖いものだ。
「内裏、だよな」
弘徽殿に近い場所に住んでいる妃……。
「……知らない、人」
小さく言ったつもりだったが、その声を拾う人物。
「若様? 目が覚めたのですね」
惟光の声が几帳の背後から聞こえる。
ちょうど良かった。俺の記憶がないのか、そもそも知らないのか教えて欲しいと言いかけて止まる。
いや、待てよ。
今のこれをどう説明したらいいんだ?
まだ頭が上手く動いていないからか、何をどう聞けば自然なのか思いつかない。
「お加減いかがですか?」
ひょこっと顔を出しながら言う心配そうな惟光の顔を見ながら、また今度、機会があったら聞いてみようと考え直す。
「うん……少しマシかな」
そう言いながら、自分の体調に気を向けた。
倦怠感や熱かった体も、随分とマシになっている。
「汗を凄くかいたから、お湯で体を流したい」
「すぐにご用意いたします。食欲はどうですか?」
腹に手を当てて考える。空腹は感じない。ただ、喉は乾いている。
「水が欲しい」
惟光は頷いて立ち上がった。




