〜77〜世評
うつらうつらしながら、惟光が準備するのを見ていた。
御簾が下され、几帳が立ち、水は下げられて周りが整えられていく。
気がつくと看病されている鬱々とした空間から、貴人が客人と対面する空間へと変わっていた。
今にも眠りに入りそうになる俺の横で、惟光が待機する。
しばらくすると頭中将が御簾の向こうに現れた。
「お加減はどうですか」
心配そうな声音に返事しようと口をひらく。
「……立……ち……」
立ったままいないで、こちらに来て座ったらどうかと言いたかった。
声が掠れて出ないのを、惟光が半分立ち上がりながら手で制す。
「立ったままこちらへどうぞ」
俺の言葉を引き取った惟光がそう言って御簾から出ていくと、頭中将に近寄ってボソボソ説明を始めた。他の者に聞こえないようにだろう。
いや、惟光、逆だよとは思ったが、声に出して訂正する元気もない。
どのみち動けないし、まあいいかと託した。礼儀とかそんなものがあったのかもしれないし、俺の意図を汲み間違えたのかもしれない。
疫病対策とか呪い対策とか、そんなのがあるのかも。
仕方なく耳だけを傾けて、惟光がどう言い繕ってくれているのを聞く。
乳母の家に立ち寄った俺が、思わぬ人の死に触れて内裏に上がれないと、説明しているように聞こえた。
頭中将がこちらをチラチラ見ているのは分かったが、愛想笑いをする元気がない。
体調が悪いってことだけは信憑性があっていいかもしれないが、どこまで納得してくれただろうか。
「……それによる穢れもさることながら、今朝からしわぶき病みでしょうか……」
しわぶき病みって、風邪のことだっけ……
こちらを見た顔が訝しげに歪む。
「かなり重篤に見えるのだが……本当に大丈夫なのか?」
頭中将、心配してくれてる?
「はい、左大臣様も色々ご用意くださってますので、加持祈祷などは抜かりなく……」
それ以降はポソポソとしか聞こえてこない。
乳母の出家と看病に行った先で穢れに触れたと言っているような……?
自分の母親を理由に、上手く話を作ってくれているんだろう。
そうか、尼君の容態はどうだろうか。
今の俺みたいに寝たきりなんだろうな。
元気になったら、お見舞い行かないと……な…………
沈みゆく意識の中……いや、これは夢の中かな。
惟光の実家が見えている。尼君の事を考えながら眠ったからかな。
ぴっちり閉められた門扉を見上げてしばし止まる。
どうしようと思っていると上昇する視界。次の瞬間には、門をふわりと飛び越えて庭に降り立っていた。
蔀戸は上げられていたので、庇に降り立ち尼君を探す。
「ふうぅ……」
苦しそうな息が聞こえてきて、それを頼りに視線を動かした。
ふわふわと探していると、几帳が見えた。
その奥に横たわる人。尼君だ。
俺は近寄ってその顔を覗き込んだ。苦しそうな声がしていたのに、今は眠っているようだ。
寝息だったのかな?
尼君の周りを少し彷徨いたが、起きる気配はない。
ふと、夕顔の家が気になった。
あの小君のように別の夕顔がいたりするんだろうか。
このまま隣にも行けるだろうか。
そう思うと視界が勝手に動き出す。
庭に出て、垣根を飛び越えて隣に移動した。
ほんの数分しか経っていないと思っていたが、世界は深い黄昏色で覆われていた。
濃厚なオレンジが黒い影を作っている中、自分の影を見つけることもできないまま、屋敷に上がり込んだ。中を漂いながら人の気配を探る。
「姫様はあれからどちらへ行かれたのでしょう」
「ええ、右近まで連絡もなく、しばらく姿を見せませんわね」
心配そうな会話が聞こえてきて、そちらに意識を向けた。
「あの日以来見かけませんわ。あの垣間見た男君……たいそう美しいお方でしたので、妖ではないのかと噂している者もおりますわ」
妖?
もしかして俺の事かな。
「そうですわね。かの源氏の君では、なんて言う者もおりますけど、それよりは妖の方が可能性が高いと思いますわ」
いや、ちょっと待て。妖の方が可能性高いってそんな事ある?
「妖ですか?源氏様なら良かったのに」
「そのような高貴なお方が、こんなボロ屋に通うなんてあると思いますか?右近の元に通っていた、あの惟光殿のご友人ではないかしら」
「それでしたら、どこか遠い地方の受領の息子とかでしょうか」
「あり得ますわね。あ、そうだわ。頭中将の事を知って、都には居るのが怖くなったのではなくて?」
「そうかもしれませんわね。でしたら、今頃領地にも着いておられる頃かしら。右近が一緒なら、便りくらい寄越すでしょうね」
凄く話が膨らんでいるが、死んだと知るより、そう思っている方が幸せかもしれないな。
「そうそう、惟光殿といえば」
その場から離れようとした俺は、惟光の名前が出た事で意識が会話に戻る。
「誰かが右近の事で問い詰めておりましたわね。でも今日はいないのかと驚いておりましたわ。その日は別の恋人の元へ向かったようですし」
「あの方も好きものですわね」
惟光さん、やり手なんですね。何人に手を出していたんだろう。
「本日あたり、また来られるのでしょうか」
「そうかもしれませんわね」
……現在進行形なんだな。
不自然にならないように、しばらくは通おうと思っているのかもしれない。
夕顔の身代わりがここに現れた形跡がないので、これ以上留まっていても何も情報は得られないと思った。
だから、だろうか。
視界が動き始める。
ふわりとした視界は大通りへ出て北上を始める。
北上の途中で、いくつかの屋敷を横切った。
陽が完全に落ちたせいで視界が暗い。明かりに引かれて彷徨っているうちに、誰かの屋敷であることに気がつくといった感じだ。
主人らしき人物がいなかったので、誰の家かは分からなかったが、女が2人、俺の話をしていた。
「源氏の君、心配ですわね」
「類稀な美しさを持つお人なのだとか」
「そのようですわね。こちらの屋敷には、通っていただくような姫がいなくて残念ですわ。拝見する機会すらありませんもの」
「本当に」
ほうっと同時に息を吐き出す2人。1人がスッと身を寄せてこそっと言う。
「でも、そのように美しい方は、早くに天に召されてしまうのでしょう?」
「この世の美しさではないのですから、元の世界にお戻りになるのでしょうね」
庇に出て話し込んでいる女達は、俺が長生きできないと話しているのか。
おいおいと思いながらその場を離れた。
別の屋敷では、男達が俺の事を話していた。3人で酒でも飲んでいるのか、明かりを囲んで座っている。
瑠璃紺の狩衣の男は灯りから遠く顔は不明だ。次に薄く白っぽい水色の狩衣で髭面の男は、ほんのり顔を染めて酔っているように見える。そして濃い水色の狩衣の男は、煌々と明かりに照らされていて顔がよく見える。若い男だった。
髭面の男と交互に見たが似ていない。親子ではないのか。
「宮中でお見かけした事もありますが、本当に美しいお姿でした」
瑠璃紺の男の方からだ。声から察するにまだ若い。
「ほう、わしも1度でいいから拝見したいものです」
髭面の男が白濁した酒を煽る。
「戻って来られるでしょうか。もう長くないと聞いております」
白っぽい狩衣の男が言う。
「最近、この話題で持ちきりですね。帝もたいそう心配なさっておられるようで」
「そりゃあ、危篤と聞けばな」
「帝も対策されているようですね」
父の帝は凄く心配しているだろうな。
「祓えや加持祈祷、祭礼なども可能な限り行なっていますが……」
顔の見えない瑠璃紺がそこで言葉を切った。
「安堂寺に依頼はないのか?」
髭面がそう言って瑠璃紺を見る。
え、今……安堂寺って言った?
「特にはありませんね、もちろん、個人的にも」
「そうですか。何かあったら物部も協力いたします」
水色の若い男がそう言って瑠璃紺を見る。
「おいおい、蜂須賀も忘れんでくれよ。図書寮より、公に協力できるだろうし」
髭面が笑いながら言う。しかしふと真顔になると、瑠璃紺に向かって問う。
「呪いの可能性はないのか?」
「ある」
強い言葉に、全員の視線が瑠璃紺に向いた。もちろん、俺も。
「内裏から時々呪いの気配が漂ってくる。中の住人に縁がないので、入って調べる事はできないのですが」
声の主が気になって、さらに近寄った。灯りから遠いその顔を覗き込もうとしたその瞬間。
瑠璃紺の男が太刀を手に取り立ち上がる。
「どうしたのですか」
若い方の男が言い、髭面の男は酔いのせいで動きが鈍いが、太刀を手繰り寄せている。
俺は慌てて後方へ下がる。視線の先が、俺だと思ったからだ。
あれで切られたらどうなるのか?
これが夢だとしても、まずい気がした。
御簾の隙間から屋敷を出ると、必死に遠ざかるよう意識すると、ぐんと視界が動く。
いくつか高い塀を飛び越えて、無我夢中で前に進んだ。




