〜76〜墨の呪い
惟光が離れるとすぐに、隅に待機していた怨霊が近づいてくる。
にたりと笑って手を伸ばし、触れようとしている。体を動かせないし集中も出来そうにない。
それでも夕顔の事を思い出すと、怒りでこいつをなんとかしてやろうって気になる。
拳を握りしめて、師匠との修行を思い出しながら、意識を研ぎ澄ましていった。
袖から出た細長い指が、俺の顔に届く。
「夕顔を返せ」
睨みつけながら言った俺は、その腕を弾くイメージを解放した。
「っ!」
息を呑むような気配と、弾かれる怨霊の腕。それと同時に、その手から何かが弾けて部屋中に散った。
「これは、文字?」
ひらかなや漢字が部屋に散ってぐるぐる回っている。その中の一つ”泣”の文字がこちらに飛んできた。
とっさに、それを手で掴むと、それが合図になったのか、他の文字が俺の体を取り囲む。
手に握った”泣”に意識を向け、それをぎゅっと握り込むようにした。
映像で見た、師匠が蛇のような怨霊を握りつぶしたみたいに。
「うわっ!」
ボトボトと音を立てて文字が落ちてくる。それは衣に、床に落ちて黒い汚れに変わった。
「墨?」
皮膚についた墨は、吸い込まれるようにして消え、その直後吐き気と眩暈に襲われた。
呪われたんだと気がついた時にはすでに遅く、ぬるっとした墨の中で倒れて意識を失った。
そこから俺は倒れたまま、数日を寝たきりで過ごした。
黒ずんでいた衣もいつの間にか白に変わっており、体にも汚れのようなものは見当たらない。
惟光が拭いてくれたのかも。
そして怨霊は撃退したようで、あれから一度も姿を見ていない。代わりに呪いはダイレクトに影響しているみたいだ。
結界の中に戻る体力がなく、惟光が用意した寝床であれこれ看病されながらうなされる日々である。
頭中将やら、同僚やらが訪ねて来たのだが、声を出す元気もなく、惟光がうまく説明しているようだった。
父帝が心配しているようで、頭中将なんかは勅使も兼ねているのだと惟光は言う。だからと言って、どうしようもないけど。
左大臣も毎日のように来ているようだが、相手できる状態じゃない。
何日寝込んでいるのか、今が昼なのか夜なのか、それすらも判然としない中、喉の渇きを覚えて口を開く。
「惟……光……」
その名を呼ぶ自分の声が弱々しくて笑いそうだった。
「あの方は、今出かけておられます」
聞いたことのある声。
「誰……だ……」
薄く目を開けると、薄墨色の布が見えた。
相変わらず重い目蓋を、なんとかこじ開けて顔を見ると、右近がそこに座っていた。喪服のような色彩に身を包んでいる。
「右近……?どうしてここに……」
「姫様を失って、どうして良いのか途方に暮れていたわたしを、あの方がここに連れてきてくださったのです」
あの方って、惟光だよな?
「ここでお仕えできるよう、源氏様にお願いしてくださるとのことでしたが……」
ちらりとこちらを見る右近。
俺が数日寝込んでいたから、惟光も言い出せなかったのだろう。
姫様を失って……か。
右近も死んでしまいそうな顔色だけど、大丈夫なのかな。
「どこでも……」
声が掠れるが、言っておかなければと絞り出す。
「好きな、部屋を使って、いい……」
頷いて何かを言いかけた右近は、泣くのを堪えるように口元を押さえる。
右近もまだ立ち直っていないのだろう。
仕える人がいなくなってしまったその事実が、悲しくて辛くて涙に直結している。
つまり、夕顔は小君のように補填されなかったって事なんだろう。
俺にとっても、その事実は重く苦しい。
小君は外に出てどうなったんだっけ。何かに変化していたような気がする。
一緒に外に出た西の姫は師匠がなんとかしたような……
「あの方がおっしゃるには、源氏様は姫様との宿縁に……」
右近が何か言っていたが、すでに俺の耳にはその声が届いていない。
小君はどんな存在だった?
西の姫は?
そうだ。
師匠が呟いていたのは、付喪神。そして怨霊。
小君が付喪神で、西の姫は怨霊だ。
付喪神がなんたるかの知識はないが、怖い存在ではなかった。
それに苦しんでもいなかった。ただ、形状が変わっただけだ。
少年から雀という、かなり大きな変化だが……
西の姫は外に出て苦しんでいたが、それは若月さんの結界のせいだろう。
座学から得た知識だが、間違いないだろう。
だから存在が保持できない訳じゃない。
小君も人の形ではなくなったが、存在が消えた訳じゃない。
でも夕顔は……
俺の手からこぼれ落ちて、動かなくなった。
存在を留めているとは言えない。
またしても脳裏には、崩れ落ちる夕顔の体が映し出される。
俺は軽く頭を振って映像を消す。
師匠の言葉が再び蘇る。
『しっかりしろ。お前の目的を思い出せ。遅くなれば、お前の大切な先輩も……ああなる』
先輩は人間だ。
そうか。
それなら、夕顔もちゃんと人間だったんだ。
助け出すべき人だったけど、外に出れば死が待っていたなんて。
知っていたら残して来た?
俺が先輩を助けて、この絵がなくなったら、中に囚われている人はどうなるんだろう?
強制的に吐き出される?
それとも、一緒に消滅するんだろうか。
どちらにしても、存在が消えるのではないのか?
いや、これは自分を正当化するための発想かもしれない。
ふと、何かを懸命に説明している右近に意識が向かう。
「右近は」
俺がぽつりと言ったので、右近の口が止まる。
「いつからここに?」
しばし固まった右近は、ややして困惑気味に答える。
「ですから、姫様がお亡くなりになったあの日からでございます」
外での記憶がないのか、それとも作られた存在なのか、今の俺には判断できない。
くらりと目が回る。横になっているのに、目って回るんだな。
右近が説明を再開した。
帝が心配している。
勅使が来ている。
この屋敷の女房達が俺を心配して右往左往している。
夕顔の法要は俺の指示のもと惟光が采配している。
その他にも訥々と話す様子は、右近もまたショックから立ち直っていないのだと思わせる。
互いに夕顔の事を語り合えたら、少しは救われるだろうか。
俺はそんな事を考えながら、再び目を閉じた。喉がひりつくように痛かったが、言葉を発する事もできずに眠りに入った。
「……ま、若様」
惟光の声で目が覚める。
「少しだけ、来客の対応できますか?」
それに答えようと口を開くが、乾いた空気だけが喉を通る。
ひゅーと鳴った喉の音を聞きつけたのか、惟光が駆け寄ってきて、水を飲ませようと俺の体を起こした。
器に入った水を飲ませつつ惟光は言う。
「帝の勅使を兼ねて、頭中将がお越しです。もう何度も、何日も。それで本日は、一目でも若様を見ないと帰らないと仰せで」
言葉を出せるほどの元気はなかったが、顔をみないと帰らないと言うのなら仕方がない。きっと風邪のような感染するものでもないだろうから、近寄っても大丈夫か……。
困り顔の惟光を見て、重い頭を上下させる。
「それではご用意いたします。若様は無理せず眠っていてください」
無言で頷いて再び横になる。吐き出した息すらも熱くて、目は変わらず回っていた。
惟光に心の中で感謝しつつ、体を横たえる。




