〜75〜夕顔のいない世界
冬香さんが離れ、取り込みが始まったようだ。
目の前には砂の山。
あれは……夕顔だった残骸だ。
名をなんと言ったか。
「江塚……夏津江」
夕顔みたいな名前じゃなかったな。
おれが光だから、なんとなく似たような名前じゃないかって、勝手に思ってた。
ぼんやりしていた俺の耳元で、師匠の声。
「しっかりしろ。お前の目的を思い出せ。遅くなれば、お前の大切な先輩も……ああなる」
先輩が、砂の山になる。
それはショックだろうな……
嫌だと思うのに、感情が動かない。
頭も体も、なんだか上手く動かせないんだ。
目を閉じると、頬を何かが伝う。
自分が粒子になって吸い込まれていく感覚に身を任せた。
頬の何かも一緒に粒子になって吸い込まれているような気がする。
師匠、今度は成功、するの、かな……
***
歪みが消えた空間。
祈るように手を組み合わせた冬香の目の前で、再び歪みが出現した。
その直後、ばんと弾かれた礼は、壁にバウンドして床に叩きつけられる。
「くそっ、無理か」
何がなんでも、光しか入れないようだ。
「大丈夫?」
今にも泣き出しそうな顔をした冬香が、近寄ってきて礼の前でしゃがむ。
「冬香が傷つかなくてもいい」
「……」
その頬に手を伸ばし、泣きそうな目を見つめる。
「……」
何も言わない冬香の頬から手を離すと、そのまま後頭部に腕を回して抱き寄せる。
「大丈夫だ。あいつなら、大丈夫。明日も無事に戻ってくるよ」
「うん……」
両腕に閉じ込めると、深呼吸して冬香の匂いを吸い込んだ。深呼吸を数回繰り返した礼は、その体制のまま口を開く。
「外からできる事、今日は違う方向から検討しよう」
「そうね……」
礼の腕から離れた冬香が、力無く立ち上がって砂の前に移動し屈む。今にも消えそうな砂を手に取り、壁の絵を見た。
***
「……」
見覚えのある四方の布。
頭部に手を当て、結われた髪で物語の世界に戻ってきたと分かった。
体を起こしてぼんやりと考える。
夕顔だった人は俺に本当の名を告げて、消えた。
またしても色んな事を忘れているだろうに、夕顔の最後だけは鮮明に覚えている。
あの笑顔も、朝陽に煌めく瞳も、最後に告げた、その名さえも。
どうして忘れさせてくれなかったのだろう。
「師匠、入れなかったのか」
俺はそう呟くと、首に手を当てた。
師匠の事も覚えている。冬香さんとその呪いの事も。
今までのような薄く霧がかかったような記憶じゃない。
なぜ、と頭の中で何度も繰り返し思うのに、それ以上考える事ができなかった。
「……あれからどれくらい経ってるんだろ」
感情が凍りついているような気がする。
「惟光は無事かな」
ここから出て、確認しないと。
「右近は、落ち込んでるんだろうな」
涙さえ溢れない俺は、冷たいんだろうか。
「……」
死ぬ瞬間の恐怖を語っていた夕顔はようやく外に出て……そして一瞬で消えてしまった。
たった数分の喜びと引きかえに。
「俺が助けるって言ったのに」
怖いだろうに、過去の光源氏に何を言われたのか、無理に笑っていたのを思い出す。
「頑張って笑っちゃってさ」
はは、と乾いた笑いが口から溢れる。
「狐云々は誰とした会話なんだろう」
俺のフリをして、夕顔に呪いを仕込んだやつがいる。
「呪いがなければ生きられた?」
これ以上考えたくない。
この先の思考は危険だ。自分の間違いと向き合う事になるんじゃないか。
「俺が外に連れていかなければ」
向き合いたくないのに。
「この世界にいればずっと生きられたかもしれない」
きっと、そうだ。
「また、五条の屋敷に戻って……」
そんな淡い期待と共に思い出すのは小君だ。
「別人が現れている?」
この後、夕顔の別人に会うことになるのだろうか。
「ない、だろうな」
立てた膝に顔を埋める。
このまま泣けそうだ……
『しっかりしろ。お前の目的を思い出せ。遅くなれば、お前の大切な先輩も……ああなる』
はっと顔を上げた。今回、戻ったあの数分を鮮明に覚えている。
「師匠……」
考えろ。
今後のために、考えるんだ。
まず、中から一緒に連れ出せるのは間違いない。
だが外から助っ人を招き入れる事はできないようだ。
「いや、そもそも一緒に入ったら、同じ場所に現れるのか?」
俺はあの結界に戻れても、師匠だけ遠くに飛ばされてる可能性はないか?
これは時間が経ってみないと分からない。淡い期待を抱きたいところだが、これはないと思っておこう。
今回のように期待して、裏切られたら……
そこで思考が止まった。
どさっと寝床に倒れ込む。
腕で目を覆い、大きな息を吐き出した。
夕顔の体が崩れた原因はなんだったんだろう。
それを考えないといけないのに、体が崩れ落ちるあの瞬間が、脳裏で何度も繰り返される。
「夕顔はいつからここに囚われていたんだ?」
師匠の言葉から、時間が無限にない事は分かる。それならどれくらいの期間大丈夫なんだろう。
「あんなに……砂みたいになるって……」
また、脳裏に崩れ落ちる夕顔の体。
「呪い?」
輝く瞳を思い出す。
「くっ……」
頭を振って映像を追い出そうとした。ついでに顔に載せていた腕を伸ばして、大の字になって目を開けた。
「時間か?」
夕顔の握った手だけが、最後に残っていた。それが崩れ落ちるあの感触。
また、大きく左右に首を振って映像を追い出す。
「体を重ねたから、より深く呪われた、とか」
俺のふりをして、夕顔を呪ったのは誰だ。
あの日、両腕に飛び込んできた、嬉しそうな表情を思い出した。
…………ダメだ。
俺は立ち上がってさらに首を振る。それでも消えない夕顔の輝いていた瞳。
「何か飲んで気持ちを切り替えよう」
布を捲って、僅かな刺激と共に外に出る。
この刺激は結界が有効な証拠だ。
ちらりと狛犬を見て足を前に出す。
ついでに外の空気に触れようと歩みを進め、渡殿へ差し掛かろうとした時だった。
視界の端を、黒い何かが掠めていった。
「今のは……?」
動くものは見つけられない。代わりに、歌を書きつけたような紙が落ちているのに気がついた。
「惟光の宿題かな?」
開けてみると、歌が書かれていた。
【過ぎにしも 今日別るるも二道に 行く方知らぬ 秋の暮れかな】
最後の文字まで読んだ時だった。
ぐらりと激しい眩暈に見舞われる。それと同時に吐き気。
「なん……だ……」
よろよろと壁まで進むと、手をついて足を出した。
「う……」
暗くなる視界に気がつきもせず、足だけが動いている。
やがて支えがなくなって、ふわりと体が宙に浮くような気がした。
その直後、床に叩きつけられるようにして倒れる。
壁に手をついたつもりだったのに、どうやら切れ目だったらしい。
それにしてもなんだこれは。
目が熱くて開けていられない。
頭が重くて痛い。
全身が燃えるように暑いのに、悪寒が走る。
「若様!」
悲鳴のような惟光の声が遠くに聞こえる。
よかった……惟光がいるなら……安心だな。
「若様、こんなところで儚くならないでください。やはり東山にまで行ったのが悪かったのでしょうか。鳥辺野での嫌な気配、あれがこの呪いだったのでしょうか」
東山?とりべの?
なんだっけ、そんなところ行った記憶はないんだが。
「帰りも我か人かのご様子でしたし……まだ……の、大切な人と……出会ってもいません。怨霊なんかに、呪いなんかに、負けないでください」
俺が行ったのか……?
薄く目を開けると心配そうな惟光と、その背後……正確には天井の隅のほうに女の影のようなものがこちらをじっと見ている。長い黒髪に覆われた顔のせいで、誰とは判別できないが、それが怨霊である事は感覚で分かった。冬香さんの呪いが効かないほどの強い存在なのか、俺が弱っていて何か別の呪いに当てられているのか不明だが、視界は絶えず回るように動いている。
体が熱く、痛くて重い。
頼むから、そこから動くなよ。
「大丈……夫、だ」
なんとかそれだけを言うと、弾かれたように俺の顔を見る惟光。
「若様!気がつかれたのですね。昼夜ずっとうなされて……何か口にできそうですか」
「水……と……」
自分の声が掠れて出しにくい。
「水ですね。それと?」
魔除けの覆面と言いたかったが言葉にできないで咽せる。
はっとしたような惟光の顔。すぐにと言いおいて、立ち上がり視界から消えた。




