〜74〜体の崩壊
昨日は惟光に止められて、夕顔の元へは通っていない。
なのに、夕顔はおかしな事を言っていなかったか。
『昨日は申し訳ありませんでした』
『そんな……謝らないで。それに私も、嬉しかったから』
来て欲しくなかったのかと思った。だから、来ても大丈夫だったのか聞いたのだ。
『例え貴方が狐で、私を化かしていたとしても、来てくれて嬉しいわ』
どこから狐が出てきたんだ?
誰かと狐が出てくる会話をしたって事なんじゃないか?
『今日は、ゆっくり眠らせてくれるのね』
これは昨日は眠らせてくれなかったって事なんじゃ……
『こんな暗闇でも、あなたってわかるから不思議ね』
ここで、もうちょっと疑問に思えばよかった。
『……初めから暗闇でも、分かったわ』
どうしてこの時気が付かなかったんだろう。
『それに、とっても良かった。少し寝不足だけど、今日は……もう、寝るわね』
「……右近」
「はい」
「昨日も俺……わたしは五条の家にいたか?」
「はい。わたしもしばらくは気が付きませんでしたが、いつの間にかお渡りになっていて……」
「惟光は来なかった?」
薄暗い灯りの中、右近がゆっくり頷くのが見えた。
「どこかにお供の方が控えていたのかもしれませんが、まるでお1人で来られたように、他の者の気配がありませんでした」
惟光もいない。随身達もいない。
「どうやって気がついたんだ?」
「それは、その……声が聞こえましたから」
話し声でも聞こえたか?
「誰の声だった?」
念の為聞いてみる。
「姫様の声だけが……その、昨日は閨事も激しかったようで」
袖で赤い顔を隠す右近。
さっと青ざめて行くのが自分でも分かった。
閨事の意味はさすがに分かる。
俺じゃない誰かが、俺のふりをして夕顔の寝所に入り込み、体を重ねたという事なんだろう。
思い返せば、態度も違った。
付き合ったら女性はあんな感じになるのかな。
こんな騙すような卑怯な事を、誰がやったのだろう。
いや、人ではない可能性もある。
狐か怨霊か分からないが、なんて酷い話なんだ。
何よりそのせいで今、こうして死んでいるのではないだろうか。
俺を語った誰かが夕顔に近づき、体を重ねて……呪った。
呪いを憑けるのに、その行為が必要だったのかどうかは分からないが、冬香さんの警告から想像するに可能性は高い。
許せない。
ぎりっと歯が音を立てたせいで、右近がぎょっとした顔をこちらに向ける。
その直後、鶏の鳴き声が遠くに聞こえた。
「ようやく朝ですね。あの方が来られたかもしれません。ちょっと様子を見て参りますわ」
さっきまであんなに怖がっていたのに、鶏の声だけで勇気が出たみたいだ。
もしくは、俺が怖かったのかも。
ちょっと怒っているから仕方ないけど。
右近がこの場を離れて、姿が見えなくなった時だった。
ぐん、と引っ張られるような感覚。
「きた!」
俺は夕顔を抱えていた腕に、さらに力を込める。絶対に離さないよう、衣も絡ませてその瞬間に備えた。
***
投げ出された衝撃に、夕顔を手放してしまった。
まずいと思い顔を上げると、コップを乗せたトレー越しに冬香さんが見える。
こちらに差し出そうとしている冬香さんの腕が、他の人物を認めて引かれる。トレーが床に置かれたのを見て、ようやく思考が追いついて来た。
良かった!
ちゃんと帰って来たんだ。
すぐ横に倒れている平安の着物を纏った女に近寄る。
ぐったりした夕顔の肩を掴み、大きく揺すった。
「外……外に出ましたよ!大丈夫ですか、生きてますよね?」
肩を大きく揺らして、青ざめた顔の女を起こそうとした。
あのまま死んでいたらどうしよう。
頼むから目を開けてくれ!
「聞こえますか、助かったんですよ」
目さえ開ければ、呪い殺されてなどいないと証明されるような気がした。
「現実世界の、朝ですよ。ほら、もう陽があんなに」
時間の流れは同じではなさそうだ。まだ薄暗かった空ではなく、すっかり夜が明けている。
「目を開けてください。お願いだから、目を……」
夕顔の瞼がピクリと動いた気がして、俺はそのまま固まって見守る。
ゆっくりと開かれる瞼。
外からの採光に輝く瞳が、俺を見つめ返す。
「光、君……?」
肯定するように頷く。
「ここは……?」
床の上で辺りを見回す夕顔。ガラス窓に目を止めると、眩しそうに目を細めた。
「本当の、陽の光」
「そうです。外に出られたんですよ」
わふりと笑ったその顔を、きっと俺は一生忘れる事が出来ない。
「光、その人は……」
冬香さんの後ろから師匠。すっと立ち上がってそれに答えた。
「夕顔の君です」
記憶の戻った今の俺なら分かる。
この人は先輩ではなかった。それでも、助け出せて良かった。
右近も助けるべき人なのか、これからゆっくり聞けばいい。
俺はこの後、また中に引きずり込まれるかもしれないが、1日くらいあれば師匠か冬香さんが聞き出してくれるだろう。
今、右近は絵の中で意気消沈って感じかな。主を失ったんだから、俺が引き取ればいいか。
惟光との事もあるし、近くにいれば外にも連れ出しやすい。
そう瞬時に考えを巡らせた俺は、床に座ってまだぼんやりしている夕顔に手を差し出した。
「立てますか?」
窓の外を見ていた夕顔は、俺の言葉に視線を彷徨わせた。俺の目を見て、後ろの冬香さんや師匠を見て、最後に俺の手を見る。
その手を掴もうと、自分の手を持ち上げつつ、笑顔を向けてくれる。
「本当の名前、思い出せましたか?」
俺の問いかけに、軽く頷いた夕顔。
「私の名前は江塚……」
しっかり握られた手は、しっとり柔らかい。
「夏津……絵……」
その手から砂が流れ落ちるように、夕顔の体が崩れた。
「え……?」
俺の視界に、夕顔はすでに写っていなかった。
ただ、手だけが、握手の状態で保持されている。
何が起きたのか理解できなくて、救いを求めるように背後を振り返った。
両手で口元を覆い、泣きそうな顔をしている冬香さんの肩を、師匠が抱き寄せているところだった。
振り返った俺の手元から、崩壊してこぼれ落ちるような感覚。
手が風に晒されているのを感じながら、2人をぼんやり見ていた。
涙を湛えた冬香さん。
憐れみの目をした師匠。
俺は、どんな顔をしているのだろう。
「光」
師匠が冬香さんを抱きしめたまま俺を呼ぶ。
「礼、一緒に行って」
涙をいっぱい溜めた冬香さんが、師匠の胸元に手を置いて俺に差し出す。
「光くんと一緒なら、入れるかもしれないわ」
何をどう言っていいのか分からず、ぼんやりと近づいてくる師匠を見ていた。
「本来なら入る人間を厳選しないものなんだ。時間と場所、これだけの条件で誰でも入れるはずだった。それなのに、オレは拒否され、光は引きずり込まれた。でも光に触れていれば、中から外には出てこられるようだ。それなら、逆も……」
がしっと首回りに腕を回す師匠。
呆然としたまま、なるがままにされていた。
「光くん!」
横に移動してきた冬香さんが、俺にコップを差し出す。
「飲んで、今すぐに」
そう言われたが体が動かない。
トレーに乗せられたコップを持ったのは、師匠だった。
腕を回して固定し、コップを俺の口に押し当て、中の液体を流し込もうとした。
とろりとしたものが喉を通るが、味も何も分からない。水なのか、スポーツドリンクなのかも判別できないが、頭が思考を拒否するみたいに動かなかった。
「こんな時に、ごめんね」
冬香さんの腕が師匠の腕に重なり、その唇が俺の首筋に向かう。
あぁ、保護をかけてくれるんだ。
でも冬香さん、師匠がいるなら大丈夫じゃないかな。
心の中は冷静なんだろうか。
頭の遠くのほうで、そんな考えが聞こえてくるようだった。




