〜73〜動かぬ体
しばし呆然としていた俺は、はっと気がついて夕顔の肩を揺する。
「大丈夫ですか」
腕に抱きながら声をかける。
しかし夕顔からは返答がない。
それどころか、さきほど僅かに感じていた呼吸もない。
頬に手をあてると、体温が急激に失われつつあった。
「怨霊は消えましたよ。だからしっかりしてください」
退治したとは思えないが、何かするにも消えていてはどうしようもないだろう。
俺は腕に力を入れて夕顔を引き寄せ、その口元に耳を持って行く。
声帯が震える音も、気管が震える音も聞こえない。冷たくなっていっても、この腕から体が消えない限り、生きていると信じる。
「ご不安は、わ、分かります。ここには法師も武者もおりませんもの」
右近が離れたところからそう言っているのは、俺を励まそうとしているのだろうか。
武者はどうでもいいが、法師なら怨霊をなんとかしてくれるかな?
「姫様、姫様」
悲しげな右近の声が暗闇に響く。俺の様子から、夕顔の状態を察したのか、床に突っ伏して泣き始めた。
「あぁ、姫様!生き返ってくださいませ。源氏様を残して1人旅立つなど、酷いことをなさいますな」
励ましたいが言葉がない。外に出たら、右近の記憶はどうなるのだろう。
そう思って、腕に抱いた女の顔に手を当てる。
「冷たい……」
先ほどよりもさらに冷たくなっていて、さらに重くなってきている。
まるで、外に連れて行かせないと言われているようで、ぞくっとした。そこにさらにずっしり重みが加わった。何事かと周辺を見回す。
「姫様、姫様ぁあ、あぁあ……」
泣きながら這うように近寄っていた右近が、夕顔に取り縋って重いのだと分かって、少しだけ安堵した。
さっきの怨霊が戻ってきて、夕顔の体を持って行くのかと思ったからだ。
「姫様、うぅぅ……姫さ……ま。あぁ、姫様!」
右近までもが怨霊のようになるんじゃないかと思うような低い声色に、次いで絶叫に近い声。半狂乱と言っても過言ではない取り乱しようを見て、俺が冷静でいなければと強く思う。
「大丈夫だ、右近。このまま死んでしまうなんて事はないから、少し静かにしなさい」
「どうしましょう、どうしましょう。姫様が、姫様が動いてくれませぬ。物の怪でも現れそうなこの闇夜が、恐ろしゅうてなりません。源氏様の太刀は、かの藤原忠平大臣のように鬼を切ることができましょうか」
その人知らないし、太刀で何かを切った事もない。内裏で訓練と言われて振った事くらいはあるが、怨霊も鬼も切った事が……
いや、ちょっと待て。
「ここは鬼も出るのか?」
違う不安に青ざめていると、右近がさらに俺に詰め寄る。
「故事でございます。紫宸殿の南に現れた鬼を切った英雄でございましょう?」
知らないので答えようがないが、俺の太刀にそんな力はない。
「…………あ」
そうか、と思ったら声が漏れた。
さっきの”火の用心”でも無いよりマシかもしれない。
弓に霊力があるとか、そんなラッキーを期待する。
思いついたら確認しなくてはと、俺は灯りを持ってきてくれた従者を探す。
遠慮の塊のあいつは、さっさと俺の視界から消えていた。
名前も役職名も知らないあいつを、どう呼びつければいいのか。
夕顔を抱えたままでは動く事もままならない。
「誰か」
声を張り上げると人の動く気配。聞こえる範囲には留まっていたらしい。
「信じられないかもしれないが、ここに物の怪に襲われて苦しんでいる人がいる。すぐに惟光の元へ走り、急いで参れと……」
俺に近寄れないこいつにそれが可能かと考えたが、すぐに無理だろうと思った。直接呼んで来るのが無理なら、誰かに託すしかない。
「急いで参れと、共に来た随身に言いなさい。惟光の泊まっているところも知っているだろう」
「かしこま……」
そこまで言って、惟光の実家を思い出す。そこにいるだろう僧侶の事も。
「もしそこに阿闍梨がいたら、忍んで一緒に来るようにと合わせて伝えてくれ。それと、病に伏せっている尼君には聞こえぬよう、配慮するように」
俺が自宅へも正妻の家にも行かず、こんな場所で物の怪に襲われてるなんて知ったら、乳母の寿命を削ることになる気がした。
伝言を携えた者の足音が遠ざかってしばし、冷たくなった夕顔を抱え直す。
右近も静かになったが、伏せたまま泣き続けているようだ。しかし物音が聞こえなくなったからか、右近も声を抑えていく。
やがては、しんと静まり返った世界が訪れる。
どれほど時間が経っただろうか。
風の音が耳につくようになった。
ざわざわと木々や草木の葉擦れが聞こえ、フクロウのような鳥の鳴き声が聞こえる。
あまり視界が良好ではない場所で、この音が不気味さを増長させている。
何かの予兆のようで怖い。
それでも右近がいるし夕顔も、意識がなくても出来事を感じ取っているかもしれない。この状態で俺が取り乱すわけにもいかない。
「大丈夫か、右近」
「はい……はい……」
少し動くような音。体を起こしたのか、近寄ってきた。
膝には夕顔の体があるため、腕にくっついてくる。ガタガタ震えている事に気がつき、大丈夫だと思いを込めて、右近の手を一瞬握ってから離し、ポンポンと叩いてやった。
灯りに照らされる部屋は薄暗く、そこかしこに落ちている闇に何かが潜んでいるのではないかと思わせる。
気になる場所は下だけではない。
屏風の上にも大きな闇があって、じっと目を凝らして見てしまう。
そして何よりも、自分の背後だ。
風の音に紛れて、板を踏み鳴らすような音も聞こえ、それが背後から近寄って来るように感じていた。
惟光が早いか、帰還が早いか。
少しでも早くこの場を離れたい。
じりじりと時間が進む。
やがて風の音も止み、辺りを静けさが支配する。
時々夕顔を引き寄せては呼吸音を、それがなければ胸に耳を当てて心音を確認したが、ただの一度も音が届くことはなく、鼓動も感じられなかった。
右近も随分落ち着きを取り戻し……いや、泣き疲れたのかもしれないが、今は大人しくしている。
昨日もこうして夕顔を抱きしめてじっとしていたし、その時は苦行だなんて思っていたけど、思い返せば幸せな悩みだった。
死んでいるかもしれない恐怖、再び怨霊に襲われるかもしれない不安。それを抱えてじっとしている事に比べれば平和そのものじゃないか。
どうか、生きていますように。
「あの方は、こられませんね」
ぽつりと、右近が呟く。
惟光の事かな。俺を手引きするために通っていた事がバレたけど、それなら何故ここにいないのかと思っているかな?
そうだったら不安なのかもしれない。
「昨日は源氏様だけでしたから、あの方は関係ないと信じ込んでおりました。こうなったのも、元を正せばわたしのせいです。あの方を通わせなければ、源氏様と姫様がこうして、恐怖に耐えねばならない状況も作られなかったのかもしれません」
後悔しているという事だろうか。惟光の事は恨んでいないようで良かったが、その後悔もちょっと違うなと思う。
そもそもこっちが画策した事だし、恨むくらいのほうが健全な気がするけど。
「惟光に頼んだわたしが悪い。右近が気にする事じゃ……」
あれ、今、変な事言ってなかったか?
「昨日は?」




