〜71〜死の前兆
右近も惟光も、もちろん他の誰も近づかない時間がゆるゆると過ぎていく。
人気のない屋敷で、陽光に照らされる庭を見ながら、夕顔とずっと話をしていた。
右近や近侍の女房の失敗談を夕顔は語ってくれる。俺は自分の失敗談や内裏での出来事を代わりに話して聞かせた。
草木の影が右から左に移動している事に気がついたのは、いつだったか。
気がつけば部屋の中が随分と暗い。
「ああ、もう陽が暮れるのですね」
俺がそう言うと、夕顔は部屋の奥の方をちらりと見て不安げに言う。
「それであんなに暗いのね。暗闇が広がっていて怖いわ……」
言われてみると、確かにそこには闇が蟠っている。
「まだ陽もありますし、ちょっと簾を上げましょうか」
一部分だけ簾を上げると、暮れゆく空が見えた。陽が斜めに差し込んできて奥の闇が薄くなる。
夕顔の輪郭が金に縁取られて綺麗だった。
「ああ、あの添い寝の時の……」
何かを言いかけた夕顔は首を横に振って、なんでもないと言い、空を見上げた。
「?」
何の事か分からなかったが、昼よりもずっと静かな世界に習い、俺も黙ったまま空を見る。
濃紺と鬱金と赤銅のグラデーションが、色濃く鮮やかで……禍々しい。
ふと夕顔を見ると夕陽に染まって輝いている。瞳が、髪が、肌が潤みを帯びて輝き、空とは対照的に、清浄で美しいものに見えて、しばらく言葉もなく見惚れていた。
俺が無言のまま見つめていたからか、夕顔もこちらを見ている。
ただじっと動かず、見つめ合っていると、世界が止まったように感じた。
「死が近い……」
紅に染まった夕顔がぽつりと言う。
「私の記憶が曖昧なのを差し引いても、死を迎えるのが近いわ。今晩か、明日か……」
死を前にして恐怖しているはずなのに、夕顔は落ち着いているように見えた。
「とっても怖かったけど、今はあなたが助けると言ってくれた。たとえ失敗したとしても、あなたは死なないし、私のせいで犠牲になったりしない」
少しずつ暗くなっていき、影が濃くなってきた。夕顔の半身が影となり黒く塗りつぶされていく。
「だから……」
夕顔が俺に擦り寄ってきた。肩を寄せると手を握る。
「これからどんな事が起きても、乗り越えられる気がするの」
恐怖と戦っているのが、肩越しに伝わってくる。俺はその肩を抱くと力強く頷いた。
「絶対、一緒に外に出ましょう」
その瞬間が来るまで離れない。そう固く心に誓った。
しばらくすると、右近が何か用事がないかと尋ねてくる。
外がすっかり暗くなる前に、簾や格子を下ろしてもらい、明かりを用意してもらう。
それでも天井から吊り下げるような照明器具ではないから、部屋の四隅は薄暗く闇が落ちている。
外からの明かりを感じられなくなると、急に1日が終わったのだと実感した。
惟光がここに来ているのなら、内裏に連絡してくれただろうか。それとも、仕事は無断欠勤状態なんだろうか。しばらく惟光の姿を見てないが、ここにいるのかいないのかも分からない。何か対策してくれているのか、それとも右近に詰められて動けないでいるのか。
もし惟光が何も俺の事を連絡できないでいるなら、みんな心配しているかもしれない。
帝も俺を心配しているかも。探していたらどうしよう。
それと同時に惟光から受けた警告、御息所の事も思い出す。
『本日は六条へ……』
『断固拒否する!』
『ええ!そろそろ顔を出しておかないと、知りませんよ』
顔を出しておかないと、どうなるんだろう。
できれば2度と会いたくないんだけど。
「それではわたしはこれで」
身の回りを整えてくれた右近が、そう言ってから退席する。
惟光の事を聞こうかと機会を伺っていたが、気後れして聞けなかった。
元々、俺のためにやってくれてた事だし、許してやってくれなんて、とても言えない。
惟光がいないのは不安だけど、自分のせいだと思って諦めよう。
これこそ、我からなめりってやつか?
外の様子が分からなくなると、昼間よりいっそう音のない世界が広がる。
そこかしこに闇が落ちていて、静かすぎて不気味だ。
夕顔も少し落ち着かない様子で、俺から離れようとしない。
緊張からか、甘い空気感もなく、ただ無言のまま時間が過ぎていく。
しかし人とは慣れる生き物である。
ずっと継続して緊張し続けることはできなかった。
無言で過ごすうち、どちらともなく横になり、目を閉じると微睡む。
ただ、しっかり手だけは握っていた。
ふと人の気配を感じる。
頭の上の方に何かが見える気がして、訝しげに思ったが、上手に目を開けることができない。
「私の元へは来て下さらないのに、こんなところで、こんなつまらない女と添い寝しているなんて」
何?
誰、だ?
目が開かないから、これは夢なのだろうか。体も動かない。
開いていないはずなのに、女の様な白い指と、着物の袖が見えている。
「こんなに愛されて、なんて妬ましい、憎らしい。あぁ、辛い、辛い、辛い……」
着物の袖は俺を素通りして夕顔の肩に到達した。ガツっと手をかけると、引き起こそうとしているように見えた。
やめろ!
叫んでいるつもりでも、声になっていない。
金縛りとか、そのようなものかもしれない。
やめろ、やめろ、やめろ!
「はっ!」
ガバりと体を起こして、夢を見ていたのだと気がついたが、その直後、灯されていた火が消えた。
手に硬い物が触れていたので引き寄せると、持ってきた太刀だった。
人の気配を感じた俺は、太刀を引き抜いて構える。
「右近、惟光。どちらかいないか!」
声が暗闇に溶けて消えゆくような錯覚に陥る。どちらも来ないんじゃないかと思ったが、少しして右近の声がする。
「お、お呼びでしょうか」
かなりビビっているような声音だ。
それでも来てくれた人に頼むしかない。暗くて何も見えないのだから。
「渡殿に宿直の者がいるから、その者を起こして紙燭を持ってくるように伝えなさい」
「で、でも、暗くて、とても渡殿まで歩いて行くなんて。恐ろしくて足が、う、動きませぬ」
「そんな子供みたいなこと」
俺は怖くないよとアピールするため笑って見せた。
見えたかな……
それでも動かない右近を感じて、他に誰かいないのかと思い、手を打ち鳴らしてみた。扇の閉じる小さな音にも反応してやってくる従者も多いので、誰かが異変に気がついて来てくれるかもしれない。
太刀をどうしようか。
刃物を持っているというのは多少心強いが、怨霊が相手だった場合、役に立つだろうか。
「誰もこないか」
もう一度、手を打ち鳴らす。
反響音だけが虚しく響いていた。
大声で呼ぶのって、ルール違反とかないかな。叫んでいいのなら、大声を張り上げて人を呼びたい。しかし、それが何故かしてはいけないような気がしている。
「大丈夫ですか?」
夕顔に近寄って肩らしき場所に手を置くと、震えているのが分かった。
痙攣かもしれないと思い、手探りで夕顔の頭を探す。頭部を伝って顔を探ると、ぬるりと手が滑る。
どうやら汗をかいているようだ。手で拭うとびっしょりと濡れた。
震えに汗はちょっと怖い。
体調が悪いのだとしたら、こんな暗闇でどうしたらいいのだろう。
そしてなにより、問いかけに答えてくれないのが不安を煽る。
「姫様、姫様」
右近の声が近くから聞こえる。
「ああ、こんなに怯えてしまって」
右近が夕顔の近くにいる気配がする。
「前々から過剰に不安になるような事もありましたが、これほどまでの怖がりよう……こ、ここには、何かがあるのでしょうか……」
怖がっているのか、本人が言っていた死ぬ瞬間が近いのか、俺には判断できない。
だが右近の言葉を信じるとするなら、体調不良ではなく怯えているだけ?
死ぬ時の予兆やタイミングを、もっと細かく聞いていればよかったなんて、今更ながら思う。
「右近」
灯りを右近が用意するのは難しそうだから、ここで夕顔を見てもらっていた方がいいのかもしれない。
「わたしが様子を見に行こう。誰か起こして、灯りと共に戻ってくるから、しばらく夕顔を頼む」
「さ、さ、さきほど、手を叩いておられましたので、じき誰かが来るやも……」
離れるのが怖いのか、右近らしき手に袖を引かれた。
「手を叩いても山彦が帰るだけで誰も来ない。だからこちらから探しに行く」
「わ、わ、わたしは、ど、どう、す、すれば……」
引っ張られた布を辿って右近の腕を掴む。
「ここで主人の近くにいるといい」
その手が夕顔に触れられるように引き寄せる。
「頼んだぞ」
動く気配があったので、頷いたのだろうと思って手を離した。
太刀を握り直して立ち上がる。




