〜69〜偽源氏
ふと目が覚めると外から明るい光が射していた。
随分陽が昇っているようだ。
『物忌を使い過ぎて出勤日数が足りなくなるのでダメです』
惟光の声が脳裏に響く。
……さぼり、確定。
横になっていた体を上に向け、繋いでいない方の手を腹にあてて集中してみる。
「やっぱり、近い」
あと少しで外に出られる。
怨霊が来るのが早いのか、外に出られるのが早いのか。
こうなってくると内裏に行っている場合ではない。
俺は繋がっている手首の布を解くと、そっと夕顔のそばを離れて格子のほうへ移動してそれを上げた。思った通り陽が高い。昼過ぎだろうか。
庭に目を向けると、明け方に見た通り、鬱蒼として不気味なままだ。
「あれは……池、かな?」
水草で覆われていて分かりにくいが、所々見える水面でかろうじて池だと推測できた。
遠くに離れのような建物が見えて、中に人がいるような影も見える。しかし遠すぎて呼んでも聞こえない気がした。
渡殿には人が見えたので、大声で叫べばなんとかなるかな?
プライバシーは守られているかもしれないが、何かあったらちょっと遠いな。
よろしくない想像に絶望的な気分を味わっていると、背後から夕顔の声がする。
「おはよう……」
振り返ると、夕顔がまだ眠そうな顔で起き上がった。
「おはようございます。寝具の上じゃなかったから、体は痛くないですか?」
夕顔はぼんやりとした顔のまま首を左右に振る。
「大丈夫。ここは……いつもの場所かしら。記憶が曖昧でわからないわ」
「憶えている事を話してくださいますか?」
「ええ、そうね……」
夕顔は少し首を捻って考える。ややして何かを思い出したのか、俺を見て口を開く。
「過去の光源氏もそうやって庭を見ていたと思うわ。そこで私に何か言っていた。とっても自信ある態度の人が多かったから、ものの例えで何か……ええっと……そう、鬼がなんとかって。あ、そうだわ!鬼でも光源氏であるなら見逃すであろうって」
なんだそりゃ。本当にそうなら羨ましい事この上ないな。
「それは、それだけ輝いているって事ですか?それとも立場的な事からでしょうか」
今までの傾向からいって、俺は絶対に見逃されない自信がある。
鬼が存在するなら、真っ先に襲われそうだ。
「自信の表れかもしれないし、私を怖がらせないためかもしれない。なんにしろ、その言葉が覆面をとる合図なのよ」
「え?」
それまでずっと覆面してるの?
ここに来るまでも?部屋の中でも?
「灯りがあれば覆面で、それ以外は真っ暗闇での逢瀬。本当に人かどうか怖いって私が言ったのかもしれないわ」
「そんなに正体隠したかったんですね」
そう言うと、夕顔は眉を寄せて呟くように言った。
「覆面で顔を隠しているのに、体だけはベタベタと触ってくるのは、少し困ったけど」
なんと不届きな!
何してんだよ、過去の光源氏は。
「そうだわ。思い出してきた。歌い終わると覆面を外して顔を見せるの。それで、この顔はどうですかって歌で聞いてきたわ。今までの人、みんなそうだった気がする」
「どんな歌なんですか?」
そう問うと、夕顔は少し考えるようにしてから口を開く。
「夕露に紐とく花は玉鉾の、たよりに見えし縁にこそありけれ……露の光やいかに。そう聞いてくるので、私は嫌味を込めて言うの。光ありと見し夕顔のうは露は、たそかれ時のそら目なりけり。輝きも見間違いでしたって嫌味を含めて言うのに、都合の良い勘違いをされるみたい」
紐とく花ってのは、きっかけになった花の事かな。
あの時、扇に書かれていた歌は確か『心あてにそれかとぞ見る白露の 光そへたる夕顔の花』だった。
もったいぶって顔を見せて、あの時の想像通りでしたかって聞いているのかな。
紐解くってのは覆面を取る意味だよな。って事は、本当にここまで覆面のままなんだ。
「それから名前を聞かれるの。顔を見せたのだから、情報交換のつもりなのかしら。でも、私は名前を覚えていないから、聞かれても答えられないわ。だから誤魔化すしかなくて」
思い出しながら話す夕顔の眉間には、ずっと深い皺が刻まれている。
「どうやって誤魔化すんですか?」
「海人の子なればって答えるわ。名前を聞かれたらそう答えるようにって言われているのよ」
右近から言われているのかな。それなら和歌も右近から聞いているとか?俺が惟光にあれこれ聞いているみたいに。
「伊勢物語で返してくるのだけど、よく覚えていないわ。ただ思い出そうとすると、時々食卓で見る虫を連想して嫌なのよ」
食卓で虫?
俺は東宮が持ってきた呪い入りの菓子を思い出して、ちょっとぞっとした。
「黒い、幼虫みたいなやつですか?」
顔に鳥肌を感じながらそう問うと、夕顔は首を振って否定した。
「いいえ、海藻についているやつよ。どうして連想するのかしら」
夕顔はそう呟くとしばし考える。
「あ、そうだわ」
思い出したのか、こちらを向いて口を開く。
「そうよ、そうだわ。私が海人の子だなんて言ったから、我からなめりって返してくるのよ」
俺が少し首を傾けたので、夕顔は解説するように指を立てて口を開く。
「つまりね、私が心を開かないのは、ずっと覆面をしていた自分のせいだって光源氏が言うの。甘えて言っているわけじゃないのに、彼からするとぷんと拗ねているように見えるみたいね。でもその時に言う”我からなめり”って言葉のせいで、ワレカラ虫を想像していたんだわ」
我からなめり?
覆面取らずにいたら当然だと思う。俺は顔見せないけど、お前は素性明かせって言われたら引くわ普通に。
横暴。
海人の子って言ってその虫を想像したのなら、もしかして言葉遊びみたいな感じでわざと連想させたのかも。惟光に言われて書く歌にも、そんなものが割とあるような気がする。あくまで、気がするだけど。その時は分からなくて、後になって思い出すとそうだったのかも、ってのが何回かある。
それにしてもそんな虫、聞いた事ない。
「虫が海藻に付いているんですか?」
「ええ、そうよ。見た事ない?茎みたいな虫でちょっとカマキリに似ているかしら」
生きた本物の虫のようだが、俺はそんなの見た事ない。用意してくれている人物がよほどしっかり下ごしらえしているのか、あるいは知らずに食べてしまっているのか、どっちだろう。
ぞっとした顔のまま外に目を向けると、薄暗くて気味悪い庭が目に入る。
あっちこっちも不気味だ。
一通り話を聞いた頃、少し腹が減ってきたと思い、さきほどの従者を探しに部屋から出た。まだお粥があるなら食べようかと廊下を進む。
「そう、その果物。そうでしたの。それでわたしのところへ通っていたらしたのですね」
「い、いえ。それは、そうですが、それだけでは……」
そんな声だけが聞こえてきて足を止める。不機嫌な女の声と、もう1人は惟光の声に聞こえた。
「姫様にあの人を近づけるために、わたしを使ったのですね。何も知らぬような事を言っていたのに、こっそり手引きしていたということ?」
「……申し訳ない」
「好きだと言ったのも、このためでしたのね」
「それは……」
「あんなに甘い言葉を囁いてくれたのも、全部このためですか」
「そうでは……」
「そうではない、とは言わせませんわ」
「はい……」
その後は気まずく息を吸う音だけが耳に届いた。
言葉もないらしい。
惟光が困っているところなど、俺は今まで見た事がない。だから、これは惟光だとはとても思えないのに、声は惟光とあの右近って女房だ。
俺を夕顔と会わせるための行動だったが、右近からすれば利用されていたと思っているのだろう。惟光が困っているなら、俺が助けなければと足を踏み出す。
たん、と一歩出して止まる。
出て行ってどうするんだ、俺。何を言えば右近は納得するんだろう。
俺が何かを言えば、火に油を注ぐ事にはならないだろうか。
そっと後退し、夕顔の元に戻ることにした。
惟光、頑張ってくれ!




