〜68〜夕顔の不安
そう長くはかからなかったうえ、緊張もあって目的地までは酔わずにすんだ。
簾を上げると、夕顔の花を取り継いだ従者が見えたので、惟光の行方を聞こうとした。
しかし、従者は一つ頷くとすぐに建物の方へ走って行く。何か指示を出されていたのかもしれない。
「ここはもしや……帝室ゆかりの建物では?」
右近が畏れ多いとでも言いたげな表情で聞いてくる。
しかし俺も詳細を知らないから答えようがなかった。初めてくる屋敷だが、人の家に勝手に行くこともあるようなこの世界で、それが自分に縁のある場所かなんて分からない。
曖昧に答えるもの難しいので、ただ微笑み返すにとどめる。
どうしよう、気まずい。
さっきの従者はどこに行ったのだろう。いや、それより惟光だ。ずっと姿を見ていない。
右近の方を見ると返答をしないといけないような気がして、庭の様子を伺うようにして顔を外に向ける。動揺を見せてはいけないと思い、動きは最小にしたが、視線や気配で惟光探索に全力を注ぐ。しかし顔も動かせない俺の視界など、庭の在りようを写しただけだ。
伸びっぱなしの草は背が高く、明けきらぬ空のせいか、辺りは薄暗くて陰鬱だ。霧も発生しているようで視界も悪いし、ちょっと着物が濡れて重くなってきた。
このまま待っていて良いのだろうか。
ややして管理人らしき者が出てきて、俺に恭しく頭を下げる。
どこかで見たような顔だなと思ったら、屋敷で見た事がある者だった。二条邸だったのか、左大臣邸だったのか、思い出せないけど。
その奥の方に様子を伺う管理人の息子の姿を見て、なんとなく思い出したのだった。あの息子とは少し話した事がある。
よかった、知っている人がいて。
記憶と格闘していると管理人が近寄ってくるので、目の前まで来て挨拶でもするのかと思ったが、さきほど走って行った従者に何事か伝えている。
「西の対を用意させているようでございます。もう少しお待ちください」
それだけを言うと、すっと下がってしまう。惟光の行方を聞く間もなかった。
「畏れ多いのでしょうね。あんなに青い顔をして」
右近がそう呟いて、ようやく行動の意味が分かった。
あの管理人とはほとんど話した事がないし、先ほどの従者も惟光がいれば直接俺に話しかけない。
未だにピンと来ないが身分の差ってやつか?
俺は色々教えてもらうために惟光にベッタリだったし、あれこれ近くでやってくれるのは助かるのであまり気にしたことはなかったが。
それでも今のように惟光がいなければ、直接話した事くらいあるのに、青い顔とは失礼な。
俺、怖くないよ?
「慣れないな」
ぽつり呟きため息を一つ。
つくづく不便に思う。
俺が1人いじけていると外から声がかかり、牛が車から取り外されて引かれていく。人力でゆっくり動く車は内門を潜り、建物の高欄に引っ掛けられて揺れがなくなる。
安定したのはいいが、
まだ惟光の姿がどこにもない。
夕顔を見ると、さきほどよりは落ち着いているように見えた。
狭い車の中で近寄り、右近とは少し離れたので声をかけた。
「ここで間違いないですか?俺たちが襲われる場所は」
右近は顔を後ろに少しだけ向けていたが、聞いていないフリをしたいのか、車の外を眺めている。
夕顔からも俺に近寄ってきて、小さな声で言った。
「建物とかは、はっきり憶えていないの。でも、あなたと外に出たのは、あの時だけだから、きっと近いうちに来る。恐ろしい怨霊と、私の死が」
ボソボソと話す夕顔の声が、不安気に掠れる。
「こんなに人気がないのも不安ですね」
「ええ、でも……さっきみたいな人の声が近くで聞こえるのも怖いわ。新しい怪異なんじゃないかしら。あんなに怖い事があったのなら、多少は記憶に残っていると思うもの」
「確かにそうですね。新しいって事は、何か変化があったのでしょうか」
言ってから気がついてしまった。
それって、ここに来るように仕向けられたって事なんじゃないか?
今までの光源氏とは違う行動を、俺がとったとか?
「まさか……」
右近の呟きに思考が途絶えた。
「この建物、そして管理人の張り切りよう、他にも心当たりが様々……まさか本当に光君なのでは……」
両手で自らの頬を挟み言う右近の呟きに、俺は夕顔と目を見合わせる。
何も言っていなかったようで、夕顔も困った表情だ。
まだぶつぶつ言う右近のその先に、渡殿を駆け抜ける管理人。その管理人と俺を交互に見る右近がいる。己の主人に何か訴えたいと顔に書いてあるが、この距離では俺の耳にも入る。
場所を変わった方が良いだろうかと右近を見ていると、その奥で廊下に立っている管理人が俺に笑顔を向けている。
用意できたって事、なんだろうな。
先程よりも少しだけ明るくなった庭に降りる。さすがにこんな時には、いつも抱えるはずの榻を人に運ばせていたので、それを置いて正しく使った。
直接廊下に降りる事もあるのに、この距離ではそうも行かない。
俺は軽装だからいいが、女性の服は動きにくいだろうし、手を差し出して支えるようにして2人を降ろす。すぐに中へ入り、先ゆく管理人の案内で部屋に移動した。
通された部屋はシンプルなだったが、外から見る印象よりはこざっぱりしていた。
しばらくして管理人がやってきたが、こちらへは近寄らずに先ほどの従者を探している。この場にいないと悟ったのか姿が消えてしばらく、入れ替わりに従者が伝言を携てやってきた。
「しかるべき立場のお供はおられないのですか?これでは給仕するものすらおりません、と管理人が申しております」
俺は夕顔を見て、食べ物が必要か聞いた。
「緊張が続いていて、何か食べる気分にはなれないの」
「ですよね」
俺は従者に向き直って、食べ物はいらないと示すよう首を横に振る。
「ご飯より少し寝たい」
「お粥を用意しているようなのですが……」
残念そうな従者の声。でも俺も昨日から何度も起こされたせいで、ちょっと疲れているから……
こっくりこっくり首が上下し始めた夕顔を、視界の端に捉えながら首を横に振る。
「今はいいかな。それよりも少し2人にしてくれないか」
右近はどうしたんだろう。それに惟光はここに来てないのかな。
「念のため、手を繋いでおきましょう」
寝てしまいそうな夕顔にそう提案しつつ、手首を縛る布を取り出した。
「そうね……」
はっと目を見開いて頭を振り、必死に起きていようとする夕顔は、俺より幼く見えて可愛かった。
2人で協力して布を手首で結び、解けないように指を絡ませると、安心したのか俺にも眠気が襲ってきた。
指を絡ませて眠るなんて、凄い進歩だと思うんだが、気絶しそうな眠気でそれどころじゃない。
かろうじて護身用にと持ってきた太刀を引き寄せると、少し落ち着く。
座っていた畳の上で、2人ともそのまま横になると眠りに落ちていった。




