〜67〜怪異
ざわつきで再び目を覚ます。
隣家だろうか。
男の大きな声だ。遠くに話しかけるような口調で、何事か言っている。
なんだろうと聞いていると、貧しくて冬が不安だと言っているようだ。
「……北殿こそ、聞きた……」
よく聞こえているようで、やはり遠いのだろう。最後は聞き取れなかったが、どうやらお隣さんへ話しかけていたようだ。
まだ暗いようだが、もう朝なのかな。
目を擦ろうとして気がついた。繋いでいたはずの手首が自由になっている。
「朝……?」
俺の胸元から夕顔の呟き。
その呟きに呼応するような、鳥の鳴き声。
渡り鳥だろうか、かなりの数だ。
大量のかもめが鳴いているのを聞いた事があるがそれに近い。ただ、こっちでかもめなんて見た事がないから、きっと違うのだろうけど。
しかしこれは騒音レベルだ。そう思っていると別の音が参加する。
コーンコーンと何かを木で打つ音に加え、ガラガラゴロゴロ大きな音まで聞こえて来た。
まるで、すぐそこで誰かがワザと音を立てているみたいだ。
「こういった音は日常的に聞こえているものだけど、今日はなんだか……いつもより、音が大きい気がするわ」
不安そうな顔が俺を見る。
「今年こそ、生業にも頼むところ少なく……」
どきっとした。突然男の声が聞こえてきたからだ。隣家へ大声で話していた男だった。
先ほどよりも大きな声が少し気になった。
「田舎の通いも思いかけねば、いと心細けれ」
あれ?
これ、さっきも同じ事言ってなかったか?
生業って何をしているのだろうか。田舎の方へ行って、何か分けてもらうのかは分からないが、先ほども心細いと言っていなかったか?
そして、北の隣家に向かって問いかけをして……
「北殿こそ」
すぐ、そこの庭に立って言っているような声量。
「聞きたもうや」
同じだ!
さっきと同じ。聞いておられるだろうかと問いかけていた。
なんだろうと考えていると、さらに声が近寄ってきて言う。
「北殿こそ、聞きたもうや!」
耳元で怒鳴られているような声量。
これはちょっと異常だ。
あまりの大きさに、輪からも抜け出して遣戸を開けて確認しようとした。
本当に近いなら怖いけど、人の気配はない。
きっと大丈夫だと思い、思い切って遣戸を開け放す。
りーん!
ジリジリ!
チチチチチチチ!
ジーコ、ジーコ……
リリリリリリリリリリリ!
小さい庭が見えたと思ったと同時に、虫の大合唱に顔を顰める。
尋常じゃないほどの音の大きさに、思わず戸を閉めた。
人がいなくてよかった。虫だけでもこんなに怖い。
声に出して言いかけたが、夕顔の不安を煽るような気がして、なんとか言葉を飲み込む。
誰かが庭にいて攻撃して来る心配もなさそうだし、戸を閉めたら音は小さくなった。
濁った音が混じり合って、不快なハーモニーのようだ。音の重なりに不安を抱いたが、彼女を怖がらせないよう、努めて気にしてないように振る舞う。
「凄い音でしたね」
振り返ると、夕顔は体を小さくして震えている。
「どうしたんですか」
慌てて駆け寄り、膝をついて肩に手を置くと、小刻みに震えているのが分かった。
本当にどうしたんだろう。
「死が近いの……私が死ぬ、その瞬間が」
向けられた顔は青ざめていて、今にも泣き出しそうだ。
「分かりました。今日からは参内もやめて側にいます。外に出られるその日まで、離れません」
心なしかホッとしたような表情の夕顔。
「惟光を探してきます。今後の手配を頼まないと」
立ちあがろうとしたが、袖に縋り付いた夕顔に引き戻される。
「本当はここを離れたくない。でも、今日はここが怖いなんて……」
1人になるのが怖いのか。いつもと違うってのも気になるな。
「これを」
懐から魔除けの覆面を取り出す。
「俺が戻ってくるまで、これを持っててください」
じっと俺を見ていた夕顔だったが、しばらくしてゆっくり頷く。
「ここから出る用意をしていてください」
再び頷くのを確認すると、立ち上がって惟光を探しに出た。
「若様」
惟光も俺を探していたようで、すぐに合流することが出来た。
「何やら騒がしくて気になって、様子を見に参りました。そちらは大丈夫ですか?」
「俺は大丈夫だけど、夕顔がとても怖がってる」
「そうですか……」
惟光はしばし考えるように顎を抱え、頭を捻っていた。しばらくして俺を見る。
「ここは危険かもしれません。この近くに使える屋敷がありますので、そちらに移動しましょう。少しだけお待ちください。牛車を用意します」
分かったと頷いて踵を返す。
すぐに戻って安心させたかった。
夕顔の元に戻ると、外からは相変わらず雑多な音がしていて、衝立の向こうでは夕顔が不安げにしていた。
何か気を紛らわせようとして話題を探す。
ふと衣に目が行った。白の袷に薄紫色を重ね着して、いつでも外に出られそうだ。
「柔らかそうな衣ですね。色も質感もお似合いですよ」
「あ……ありがとう」
まだ青い顔で、無理に笑顔を作って答えてくれる。
気を紛らわそうとして言ったことで、かえって無理をさせているように感じて慌てて言う。
「無理して、笑わなくていいですよ。怖いのは仕方ないです」
俺の渡した魔除けの覆面を、血の気が引くほど握りしめている。よほど怖いのだろう。
「でも、光源氏が……」
「?」
俺は首を傾げて夕顔を見る。
「過去の光源氏が、どんな状況下においても、思い詰めることなく、おっとりとしているから可愛いのだと言っていたわ。さきほどのような隣人の声も、恥ずかしがったりしない。それが上品で、また幼く見えるから、守ってあげたくなるそうよ」
なんだそりゃ。
怖いのに無理して笑ってるほうが可愛いのか?
「それはその時の光源氏の好みでしょう。無理しなくていいですよ。怖いのはわかります」
泣きそうな顔が俺を見ていた。
「何事も分からないで、おっとりと素知らぬふりをしてないといけない。そう言った人もいたわ。来世の事まで約束して……もちろん、その時はここまで大きな音ではなかったし、私の記憶も確かではないけど」
夕顔がそこまで言った時だった。
「姫様」
近くに女の声が急に聞こえた。
「右近!」
夕顔の呟いたその名前は惟光の恋人だ。1人のようだが、惟光は車の手配かな。
惟光の姿を探して右近を見ていたが、ふいに目が合ってしまった。
その時、外からの騒音に加え、遣戸がガタガタ大きく鳴る。開く気配はないが、夕顔も右近も恐怖で肩を寄せ合っている。
「右近。誰か呼んで牛車を近くまで頼む」
すぐにでもここを離れなければと思い、そう指示した。
「でも、そうしますと家の者にお通いが知れ渡ってしまいます」
おろおろして言う右近に、力強く答える。
「かまわない」
「まぁ、そこまで姫様の事を……」
どうせここには戻って来ない。夕顔を外に出してしまえば、この屋敷に出入りすることもないだろう。
バレて困った事になったとしても、それはその時考えよう。今はこの怪異を乗り切る方が先決だ。
右近の導きで屋敷を移動する間、いく人かの気配を感じた。心配するような声と、俺が光源氏なんじゃないかと推測する声が聞こえたが、それどころじゃない俺は夕顔の手をしっかり握って右近に続く。
「あちらに」
右近の目線を追って見ると牛車が止まっている。
薄い暁の空を確認すると、牛車に近寄る。そのまま乗り込める位置にあるので、夕顔の手を取って一緒に乗ろうとしたが、ここで夕顔が足を止めてしまった。ぐっと建物の中に重心が傾いている。
「やっぱり、怖い。ここから移動する先で、死が待っているの」
そうだった。これがいつも通りなら、死だってやってくる。
「怨霊なら俺がなんとかします」
「でも……」
夕顔は空を見上げて言葉を詰まらせた。
何かあるのかと思って空を見ると、微かに明るい東の空以外は、闇が広がるばかり。
「夜のうちに出るのは、怖いの。外は……とても暗いから」
「もう朝ですよ。ほら」
夕顔を見てから、東を指差す。
僅かだが明るい空に、夕顔も朝だと納得したのか、引くような力が弱まった。
よし、今のうちにっ。
俺が夕顔を強く引いて牛車に乗り込んだ瞬間、しわがれた読経の声が当たりを包む。
数人の読経が大合唱しており、右近の悲鳴が聞こえたので、様子見のつもりで牛車の中から簾を上げる。
「ありがとうございます」
入れと勘違いしたのか、逃げ込むように右近も乗ってきた。
ちょっと狭いが、今更放り出す事もできない。外に控えていた従者に、このまま出すように言った。




