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花散里と出会うまで  作者: 堀戸 江西
65/81

〜65〜帰還の兆し

翌日、俺は半分気絶したような状態で内裏(だいり)の自室に辿り着いた。

夕顔と別れて急激に眠気が襲ってきて、時々跳ねる車の振動で目が覚めるものの、またすぐに眠りに落ちつつ帰ってきたのだ。

いつもの女房が持ってきてくれた麦茶に手をつけることもできず、そのまま敷かれた畳へ吸い込まれるようにして倒れる。

「若君、大丈夫ですか?」

「大丈夫、だいじょう、ぶ……」

「わ、若君!……〜……!……!」

女房の声がどんどん遠ざかると共に、俺の意識もなんだか遠ざかっているような気がした。

とぷんと水の中に落ちて行くような感覚。

でも、暖かくて心地い水だ。

母の体内ってこんな感じなんだろうか。

『……この子には、そんな思いをさせたくない』

男の声がして目を開くと、大きな手が視界いっぱいに広がった。

誰だ……?

大きな手に伸びるのは、小さなぷくぷくした赤子の手。きゅっと男の小指を握る。

『…………事……て、…………影響は……の?』

女の声がして、そっちに視線が向く。

紺色の袖と男の手の端から見えたその先に、見覚えのある顔。

母だ。

現実世界で待っている、俺の本当の母親。

元気、してるかな……

ぱたぱたと廊下を歩く音。

はっとして目を開く。

木の天井が見えていた。

「倒れたって?」

ひょこっと顔を出したのは頭中将(とうのちゅうじょう)だ。

「あ……れ……」

何か、今……とても懐かしい夢を見ていたような。

「まだ本調子ではないな。大丈夫か?」

座りながら顔を覗き込んでくる頭中将を、ぼんやりと眺めていた。

「一緒に実家へ帰ろうと思ったが、まだ休んでいた方が良さそうだな」

現実と夢と外の世界。なんだかごちゃごちゃしてて混乱している。

話しかけられているのに、声の出し方を忘れたみたいに、一言も発する事ができずにいた。

「ゆっくり休むといい」

頭中将は立ち上がると、颯爽と帰って行く。

袖が消え、踵が消え、静寂が辺りを包んだ。

ふと、体に違和感を覚えて体を起こす。

「これは……」

腹に手を当ててしばし瞑目し、何を感じているのか考える。

これは、帰還の印だ。

はっと目を見開いて立ち上がる。

ようやく頭が動き始めたって感じだ。

外はまだ明るい。

大丈夫だ。

まだ引っ張られるような感じはない。

今までのパターンを思い返すと、2日は猶予があるはず。

「すぐに行かないと」

慌てて帰宅の用意を始めた。








「惟光、今日はちょっと早くに行っちゃダメかな?」

内裏から戻ってきて、堅苦しい正装から着替えながら、惟光にそう訴えた。

「陽が出ている間はダメです。それに今夜はお止めください」

やや興奮気味に問う俺に、少し体を離した惟光は(しか)めっ面で言った。

「え、なんで?」

「頻度が高すぎます。3日は通ったのですから、少しくらい日数をおいても大丈夫でしょう」

それでも行かないと。リミットが近い事を早く伝えなきゃならないし、その時一緒にいないとシャレにならない。

「はぁ、若様。本当にお好きになってしまったのですね。正式な北の御方がおられるのですから、ほどほどになさいませ」

目を覚ませとでも言いたげな顔が俺を見ている。

「北の方、ねぇ……」

妻がいるなど、まったくピンと来ない。

御簾(みす)越しにシルエットを見るとか、なんかの隙間から垣間見るとか、そんな事はもちろんないし、存在を感じたことすらない。

意図的に逃げているとしか思えないが、見知らぬ男が襲ってくる恐怖を抱えての事かもしれない。

そう思うと無理に会うのは可哀想だ。遠目に俺を見て、誰だあいつってなってる可能性もあるよな。

「それならここに引き取るってのは?」

妻と愛人にバレたらどうなるのか、ちょっと考えるだけでも恐ろしいが、それも人助けのためなら仕方ない。

それに外に出る間までの短い期間だけだ。脱出後は物語の流れに従って、怨霊に取り憑かれて死んだ事にしたらいいのかな。

「それは難しいでしょうね。ここの女房や家来から噂が広がります」

例え噂が広がっても、夕顔を助けるためなら仕方ないと思うのだが、惟光の協力がないと動きようがない。

1人で死ぬかもしれない恐怖を抱えているのだと思うと、ここでじっとしていられないのだが。

「それに若様、酷い顔色ですよ」

「いや、大丈夫だ。内裏で少し寝たから」

どうしても行きたいのだと、なんとか惟光に分かってもらおうと必死だった。それでも惟光の頭は縦に振られない。

「若様の体調が心配です。今日はどこにも行かず、ここでお休みください」

他に何か理由を探したが、惟光が納得しそうな事は何一つ思いつかなかった。

「六条のほうへも、本日はお渡りを遠慮申し上げる旨、伝えておきます」

それは嬉しい!

「ではここでゆっくり寝て下さいますね?」

喜びが顔に出てたのか、惟光がそんな事を言う。

頷くしか、選択肢がなくなった。









「まだ大丈夫。もう少し猶予はあるよな?」

狛犬達に話しかけ、不安を押し殺して寝室に入る。

ふかっとした布の感触。

あぁ、やっと帰って来た。

そう思ったら、倒れ込むようにして寝そべった。

若月(わかつき)さんが用意してくれた、結界に感謝だな……」

ここに夕顔を連れて来れたら、どんなに安心できるだろう。

でも、明日は絶対に会わないと。不安にさせてしまうだろうし。

「1晩俺が行かなかったら、連絡していても不安じゃないかな」

惟光が文を送ってくれているはずだが、実際に近くにいないと置いていかれるように感じないだろうか。今、この瞬間、俺が1人で帰ってしまわないか、不安になっていないだろうか。

「やっぱり、行こうかな」

こっそり抜け出せるだろうか。惟光の案内なしに、1人で馬を駆ってたどり着けるかな。

「自信はないけど……」

すっと瞳を閉じる。

まず馬に1人で乗って……門はどうする?

開けてくれるだろうか。

自宅から出られないなんて、シャレにもならないがあり得る話だ。

出られたとして、二条邸(ここ)から3ブロック先の五条まで、馬で夜道を1人で進めるだろうか。

「それでも……行かないと…………」

だめだ、眠っている場合じゃない。寝るなら夕顔の隣じゃないと。

「起き…………」

起き上がって寝室を出る。

次の瞬間には月夜の道を馬で飛ばしていた。駆け足の馬に乗ったのは初めてだが、今は体が軽くて落ちる気がしない。

「ほとんど満月なんだな」

月を見上げる余裕さえあった。次の瞬間には夕顔の寝所に手が届く。

「遅くなりました」

「光くん!」

がばりと抱きついてきた夕顔。よほど不安だったのだろう。

「早く」

そう言って俺を部屋の中心に引っ張る。

「もう、待ってたんだから」

そう言って振り返った女は夕顔ではなかった。

「せ、先輩……?」

顔を覚えていないのに、なぜかそんな言葉が口から溢れ出る。

「早く見つけて」

急激に夕顔の体が溶けるように消えた。次の瞬間には別の人物に代わっているが、それも誰なのか俺には分からない。

でも、先輩じゃないことだけは確かだ。

「誰、だっけ。もしかして、あお……」

意識も声も、そこで途絶えた。









雀の声が耳をくすぐる。

はっと息を呑み、勢いよく上体を起こす。

「夢……?」

周辺に眼を向けると、そこには見慣れた布地。

いつの間にか寝てしまったようだが、帰還していない事に安堵する。

「体力の限界だったのかな」

ポツリと呟いて立ち上がる。

布を捲って外に出ると、いつものビリッとした感覚が頬に走る。

「結界って分かっても刺激はあるんだな」

右下の狛犬に目を落とし、背後を振り返る。

「若様」

惟光の声がして振り返ると、じっとこちらを観察している顔。

「よく眠れましたか」

手に俺が今日着るものを持って近寄りながら、確認するように顔を見ている。着物を受け取り、羽織りながらそれに頷いて答えると、昨日と同じことを聞く。

「早めに夕顔のところに行きたいんだけど」

最初は着方も分からなかったこれも、今じゃすっかり慣れたもんで、話をしながらでも平気になっていた。上着を手で押さえていると、惟光が袴を引き上げてくれる。

最初は惟光に締めてもらっていた腰元も、手ごろな調整が欲しくて自分でやるようになった。

きゅっと鳴る布の音と共に言うと、惟光は少し考えるようにして答えた。

「本日は六条へ……」

「断固拒否する!」

「ええ!そろそろ顔を出しておかないと、知りませんよ」

だってあの人怖いんだよ。

いや、そもそも人なのか?

俺の中では怨霊確定してるんだけど。

「今日は月がかなり明るいと思いますので、しっかり覆面で顔をお隠しくださいね」

顔を隠すってことは、夕顔のところって事だよね?

六条を蹴ったのだから、早く行きたいはこれ以上言わないでおこう……

「しばらく、一緒に過ごせないかな」

ぽそっと言ってみた。

「まあ、あそこは仮住まいのようですし、狭いので声など筒抜けですからね。気になるのは分かります」

え、声、筒抜けなの?

じゃあ、脱出計画とかも聞かれている?

「そんな嫌そうな顔しないでください。わたしは聞いておりませんから大丈夫ですよ。こちらも右近(うこん)とおりますし」

そうか。惟光は右近とイチャイチャしていて、それどころじゃないってか。

ふーん、良いなぁ。

「俺にも惟光の声は聞こえてないな……」

「そりゃ……」

少し上を見て考える惟光。

「声を抑えなくても大丈夫なように、どこか探しておきます」

声を抑える?

……ま、まあ、いいか。

本当に近い内に、あちらへ引っ張られそうだし、ここからはなるべく一緒に過ごさないと。


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