〜65〜帰還の兆し
翌日、俺は半分気絶したような状態で内裏の自室に辿り着いた。
夕顔と別れて急激に眠気が襲ってきて、時々跳ねる車の振動で目が覚めるものの、またすぐに眠りに落ちつつ帰ってきたのだ。
いつもの女房が持ってきてくれた麦茶に手をつけることもできず、そのまま敷かれた畳へ吸い込まれるようにして倒れる。
「若君、大丈夫ですか?」
「大丈夫、だいじょう、ぶ……」
「わ、若君!……〜……!……!」
女房の声がどんどん遠ざかると共に、俺の意識もなんだか遠ざかっているような気がした。
とぷんと水の中に落ちて行くような感覚。
でも、暖かくて心地い水だ。
母の体内ってこんな感じなんだろうか。
『……この子には、そんな思いをさせたくない』
男の声がして目を開くと、大きな手が視界いっぱいに広がった。
誰だ……?
大きな手に伸びるのは、小さなぷくぷくした赤子の手。きゅっと男の小指を握る。
『…………事……て、…………影響は……の?』
女の声がして、そっちに視線が向く。
紺色の袖と男の手の端から見えたその先に、見覚えのある顔。
母だ。
現実世界で待っている、俺の本当の母親。
元気、してるかな……
ぱたぱたと廊下を歩く音。
はっとして目を開く。
木の天井が見えていた。
「倒れたって?」
ひょこっと顔を出したのは頭中将だ。
「あ……れ……」
何か、今……とても懐かしい夢を見ていたような。
「まだ本調子ではないな。大丈夫か?」
座りながら顔を覗き込んでくる頭中将を、ぼんやりと眺めていた。
「一緒に実家へ帰ろうと思ったが、まだ休んでいた方が良さそうだな」
現実と夢と外の世界。なんだかごちゃごちゃしてて混乱している。
話しかけられているのに、声の出し方を忘れたみたいに、一言も発する事ができずにいた。
「ゆっくり休むといい」
頭中将は立ち上がると、颯爽と帰って行く。
袖が消え、踵が消え、静寂が辺りを包んだ。
ふと、体に違和感を覚えて体を起こす。
「これは……」
腹に手を当ててしばし瞑目し、何を感じているのか考える。
これは、帰還の印だ。
はっと目を見開いて立ち上がる。
ようやく頭が動き始めたって感じだ。
外はまだ明るい。
大丈夫だ。
まだ引っ張られるような感じはない。
今までのパターンを思い返すと、2日は猶予があるはず。
「すぐに行かないと」
慌てて帰宅の用意を始めた。
「惟光、今日はちょっと早くに行っちゃダメかな?」
内裏から戻ってきて、堅苦しい正装から着替えながら、惟光にそう訴えた。
「陽が出ている間はダメです。それに今夜はお止めください」
やや興奮気味に問う俺に、少し体を離した惟光は顰めっ面で言った。
「え、なんで?」
「頻度が高すぎます。3日は通ったのですから、少しくらい日数をおいても大丈夫でしょう」
それでも行かないと。リミットが近い事を早く伝えなきゃならないし、その時一緒にいないとシャレにならない。
「はぁ、若様。本当にお好きになってしまったのですね。正式な北の御方がおられるのですから、ほどほどになさいませ」
目を覚ませとでも言いたげな顔が俺を見ている。
「北の方、ねぇ……」
妻がいるなど、まったくピンと来ない。
御簾越しにシルエットを見るとか、なんかの隙間から垣間見るとか、そんな事はもちろんないし、存在を感じたことすらない。
意図的に逃げているとしか思えないが、見知らぬ男が襲ってくる恐怖を抱えての事かもしれない。
そう思うと無理に会うのは可哀想だ。遠目に俺を見て、誰だあいつってなってる可能性もあるよな。
「それならここに引き取るってのは?」
妻と愛人にバレたらどうなるのか、ちょっと考えるだけでも恐ろしいが、それも人助けのためなら仕方ない。
それに外に出る間までの短い期間だけだ。脱出後は物語の流れに従って、怨霊に取り憑かれて死んだ事にしたらいいのかな。
「それは難しいでしょうね。ここの女房や家来から噂が広がります」
例え噂が広がっても、夕顔を助けるためなら仕方ないと思うのだが、惟光の協力がないと動きようがない。
1人で死ぬかもしれない恐怖を抱えているのだと思うと、ここでじっとしていられないのだが。
「それに若様、酷い顔色ですよ」
「いや、大丈夫だ。内裏で少し寝たから」
どうしても行きたいのだと、なんとか惟光に分かってもらおうと必死だった。それでも惟光の頭は縦に振られない。
「若様の体調が心配です。今日はどこにも行かず、ここでお休みください」
他に何か理由を探したが、惟光が納得しそうな事は何一つ思いつかなかった。
「六条のほうへも、本日はお渡りを遠慮申し上げる旨、伝えておきます」
それは嬉しい!
「ではここでゆっくり寝て下さいますね?」
喜びが顔に出てたのか、惟光がそんな事を言う。
頷くしか、選択肢がなくなった。
「まだ大丈夫。もう少し猶予はあるよな?」
狛犬達に話しかけ、不安を押し殺して寝室に入る。
ふかっとした布の感触。
あぁ、やっと帰って来た。
そう思ったら、倒れ込むようにして寝そべった。
「若月さんが用意してくれた、結界に感謝だな……」
ここに夕顔を連れて来れたら、どんなに安心できるだろう。
でも、明日は絶対に会わないと。不安にさせてしまうだろうし。
「1晩俺が行かなかったら、連絡していても不安じゃないかな」
惟光が文を送ってくれているはずだが、実際に近くにいないと置いていかれるように感じないだろうか。今、この瞬間、俺が1人で帰ってしまわないか、不安になっていないだろうか。
「やっぱり、行こうかな」
こっそり抜け出せるだろうか。惟光の案内なしに、1人で馬を駆ってたどり着けるかな。
「自信はないけど……」
すっと瞳を閉じる。
まず馬に1人で乗って……門はどうする?
開けてくれるだろうか。
自宅から出られないなんて、シャレにもならないがあり得る話だ。
出られたとして、二条邸から3ブロック先の五条まで、馬で夜道を1人で進めるだろうか。
「それでも……行かないと…………」
だめだ、眠っている場合じゃない。寝るなら夕顔の隣じゃないと。
「起き…………」
起き上がって寝室を出る。
次の瞬間には月夜の道を馬で飛ばしていた。駆け足の馬に乗ったのは初めてだが、今は体が軽くて落ちる気がしない。
「ほとんど満月なんだな」
月を見上げる余裕さえあった。次の瞬間には夕顔の寝所に手が届く。
「遅くなりました」
「光くん!」
がばりと抱きついてきた夕顔。よほど不安だったのだろう。
「早く」
そう言って俺を部屋の中心に引っ張る。
「もう、待ってたんだから」
そう言って振り返った女は夕顔ではなかった。
「せ、先輩……?」
顔を覚えていないのに、なぜかそんな言葉が口から溢れ出る。
「早く見つけて」
急激に夕顔の体が溶けるように消えた。次の瞬間には別の人物に代わっているが、それも誰なのか俺には分からない。
でも、先輩じゃないことだけは確かだ。
「誰、だっけ。もしかして、あお……」
意識も声も、そこで途絶えた。
雀の声が耳をくすぐる。
はっと息を呑み、勢いよく上体を起こす。
「夢……?」
周辺に眼を向けると、そこには見慣れた布地。
いつの間にか寝てしまったようだが、帰還していない事に安堵する。
「体力の限界だったのかな」
ポツリと呟いて立ち上がる。
布を捲って外に出ると、いつものビリッとした感覚が頬に走る。
「結界って分かっても刺激はあるんだな」
右下の狛犬に目を落とし、背後を振り返る。
「若様」
惟光の声がして振り返ると、じっとこちらを観察している顔。
「よく眠れましたか」
手に俺が今日着るものを持って近寄りながら、確認するように顔を見ている。着物を受け取り、羽織りながらそれに頷いて答えると、昨日と同じことを聞く。
「早めに夕顔のところに行きたいんだけど」
最初は着方も分からなかったこれも、今じゃすっかり慣れたもんで、話をしながらでも平気になっていた。上着を手で押さえていると、惟光が袴を引き上げてくれる。
最初は惟光に締めてもらっていた腰元も、手ごろな調整が欲しくて自分でやるようになった。
きゅっと鳴る布の音と共に言うと、惟光は少し考えるようにして答えた。
「本日は六条へ……」
「断固拒否する!」
「ええ!そろそろ顔を出しておかないと、知りませんよ」
だってあの人怖いんだよ。
いや、そもそも人なのか?
俺の中では怨霊確定してるんだけど。
「今日は月がかなり明るいと思いますので、しっかり覆面で顔をお隠しくださいね」
顔を隠すってことは、夕顔のところって事だよね?
六条を蹴ったのだから、早く行きたいはこれ以上言わないでおこう……
「しばらく、一緒に過ごせないかな」
ぽそっと言ってみた。
「まあ、あそこは仮住まいのようですし、狭いので声など筒抜けですからね。気になるのは分かります」
え、声、筒抜けなの?
じゃあ、脱出計画とかも聞かれている?
「そんな嫌そうな顔しないでください。わたしは聞いておりませんから大丈夫ですよ。こちらも右近とおりますし」
そうか。惟光は右近とイチャイチャしていて、それどころじゃないってか。
ふーん、良いなぁ。
「俺にも惟光の声は聞こえてないな……」
「そりゃ……」
少し上を見て考える惟光。
「声を抑えなくても大丈夫なように、どこか探しておきます」
声を抑える?
……ま、まあ、いいか。
本当に近い内に、あちらへ引っ張られそうだし、ここからはなるべく一緒に過ごさないと。




