〜56〜怨霊と夜明け
「疲れませんか」
「……疲れてます」
「それでは、こちらへ来てお休みになられては?」
「…………」
あれからどれくらいの時間が過ぎたのか。すっかり冷や汗も引いて、もはや気力だけで保護を維持し続けている。明かりが消えてしまうとさらに恐ろしい事が起きるような気がしていたが、不思議な事に油を追加している気配もないのに灯ったままだ。
気を失いそうになりながらも、なんとか目を見開いていると、遠くから俺を呼ぶ声。
「……様ー。若様ー」
はっとしたのは俺も御息所も同時だった。御息所は立ち上がると、格子戸に近寄って少しだけ浮かせるようにして外を確認する。外は少しだけ明るかったが、俺の位置からはそれ以上何も見えなかった。
「若様、早く用意しませんと、出仕に間に合いません」
惟光の声がすぐ近くで聞こえる。御簾の近くで控えているのだろう。
「すぐ行く」
素晴らしい言い訳だが、実際に出仕の時間も早いので不自然ではない。
俺は向かい合った御息所に目を向けたまま、後ろ向きに足を出した。
動いた!
「失礼いたします」
一応はそう言って後退する。
「若様」
すぐ後ろで声がして、振り返ると惟光が立っている。
「惟光〜」
その顔を見て安心した俺は、保護を解き、覆面も取って惟光に抱きついた。
「あら、もうお帰りですか?」
女性の声がして、俺も惟光もそちらに顔を向ける。この家の女房だろう。俺たちには目もくれず寝所に入って行き、御息所が垣間見えるように、格子戸を上げて固定している。
中から見送るというのだろうか。
「あの方は確か中将の……」
惟光がぽつりとそう溢した。御息所に仕えている女房って中将だったのか。いや、身内が中将なんだっけ?
それで中将と呼ばれるのだったら、頭中将の奥さんも中将だし、俺のまだ見ぬ妻も中将だ。
……中将だらけだな。
「ささ、若様。あちらに牛車を待たせてあります」
惟光の誘導で廂の下にきた。外は濃霧で視界は白い薄膜越しだ。
「さすがですね。こちらのお庭はいつ来ても素晴らしい」
「あ、やっぱ惟光もそう思う?」
さっきより明るくなった庭には、様々な色の花が咲いており、濃霧の中、朝露に濡れていた。
「惟光、ちょっとあそこから景色を見ていこう」
暗かった夜が明けようとしていて、惟光という味方が到着したから、少し心に余裕が生まれた。渡り廊下を指差して移動する。
これで怨霊からは遠ざかれるし、景色も見れて一石二鳥。
「それでは、わたくしがお供いたします」
するっとさきほどの女房がやってきてそう言った。
先導する中将の、少しグレーがかった薄紫の裳が目に入る。
綺麗な色だなと思った瞬間、中将は俺を振り返って言った。
「こちらの渡り廊下から望む景色は素晴らしいものです。陽が昇ってきますと、朝露が煌めいて、花々が歌い出し、極楽のような景色になりましょう」
そう言って欄干に腰掛ける中将。プレゼンターのような仕草に、少し近寄って庭を見ようとした。
「咲く花に、移るてふ名はつつめども、折らで過ぎ憂ぎ今朝の朝顔」
惟光の声が俺の後ろの方で聞こえる。
意味が分からないが、俺の代弁をしているのだと思う。
「いかがすべきというところでしょうか」
中将はそう言いながら俺に近寄り、手をとって見つめてくる。その頬は薄くピンクに染まっている。
え、かわいい。
何をどういかがすべきなのかは分からないが、とりあえずかわいい。
そうか、俺(惟光)の歌が、この人を朝顔に例えたんだ。御息所からあなたに心が移ると非難されそうだけど、素通りできないくらい可愛いって歌ったんだとしたら……
ま、どうしましょうって照れてるって事かな。積極的に手なんか握ってきたけど。
俺が考えながら観察していると、中将はさらに言う。
「朝霧の晴れる間も待たぬ気色にて、花に心を止めぬとぞ見る」
花に心をとめずに帰るのかって事?
朝霧も晴れないうちに帰っちゃうの?って引き留めてるのかな。
いや、もしかして、花って自分の主人の例えだったりする?
それだと、俺が御息所に興味ないのを恨んでいるとか。
朝まで睨み合ってたの、もしかして知ってる?
知っているとしたら、この人も仲間かな。それだったら怨霊の可能性が……
警戒して中将を見るが、その視線が庭を見ているので俺もそちらに目を向ける。
濃霧の中に動く何か。
まさか、また怨霊か?
そう思って警戒したが、少し明るくなってきたため、少年が庭に居るのだと気がついた。
服の裾を露に濡らしながら、朝顔を手折っている。
あ、そっか。さっき中将が言ったのは、あの少年と庭の景色の事だ。すごく絵になる、素敵、みたいに思ったんだな、きっと。
「その朝顔をいただけたなら……」
中将がそう言って俺を見つめてくる。
手折った朝顔が欲しいって事かな。そう言われても、俺の家じゃないから勝手に許可できない。どう返せばいいのか固まりつつ悩んでいると、頬を染めながら、中将は口を開いた。
「あぁ、でも……本当に美しいのは光君です」
え?
なんだそれ。
ようやく何かがチグハグでおかしい思った。
「惟光」
呼ぶと姿は見えないのに返事だけがある。何かに遠慮して視界から消えているのか?
もしかして廊下の下にいる?
器用なことだが、いかに惟光でも、こうも相手との距離が近いと助言も難しいか。
「…………」
俺はしばし考えた。しかし何もいいアイデアが浮かばないので、潔く逃げることにする。
「帰ろうか」
はい、とこれまた返事のみ。視線を左右に彷徨わせると、中将は建物の中に戻って行くところだった。ずるずる裳を引きずって去る後ろ姿を見ていると、ちょっと惜しいことをした気にさせる。
あんなにかわいいんだから、怨霊じゃないと思いたい。
振り返ると中将が窓辺に立っており、その奥に御息所がちらりと見える。
「若様、もしかして中将の君にも手を出したのですか」
何もしていない!
「健気に見送ってますよ」
怨霊と一晩中睨み合っていたのに、他の誰に何を出来たと言うのか。
「惟光を見てるんじゃないか」
「そんなはずないでしょう」
呆れたように言う惟光に黙ってついていく。
「さ、若様。参りましょう」
惟光の案内で牛車に乗り込む。この屋敷を離れると思うと、ようやく緊張がほぐれ、安堵の息を吐き出した。
「あ、そうそう、若様」
牛車の外から惟光の声。すっと近寄る気配と、小さく言う声。
「例のお隣さんなんですけど」
社内外で話せる声の大きさではない。
「乗ってくれ、聞こえない」
外に向かってそう言うと、しばらくして惟光が車内へ移動してくる。
「正体が分かったのか?」
惟光が座りもしないうちにそう尋ねた。
「それが、そこまで正確な事は不明のままです。ただ通い続けておりますので、多少は把握できたかなと思います」
通い続けるってなんだ?
覗き続けた結果の間違いなんじゃ……
「まずは外からの報告なんですが」
外からの?
「どうやら世間から隠れて暮らしている風なのです」
どんな理由で隠れているのだろう。
「ただ、そんな暮らしも暇なんでしょうかね。南側の半蔀のある部屋に移動してきては通りを眺める、ってのをみんなで繰り返しているように見えました。あの朝顔の扇を持ってきた女童や、数人の女房、主人らしき女が交互に通りを覗いております」
それで俺が待っていた時も数人の気配があったのか。ああやって誰が通るのかチェックしているのだろうか。
……何のために?
「主人らしき女ですが、御簾や格子に隠れてはっきりとは見えませんでしたが、かわいらしい雰囲気のお方でしたよ」
かわいいのか。
先輩の可能性もあるな。




