〜53〜二条邸再び
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「あれ」
パチリと目を開けて目だけで四方を見る。
この垂れ下がってる布地は二条邸だ。
「俺、何してたんだっけ」
寝転んだまま額に腕を置き、ここ数日を振り返ろうとした。
出来事など何もない、平穏な日々の記憶がある。しかし、しばらく内裏にいたはずだ。
いつ、ここに帰ってきたのか不明である。
ふと何かの既視感。
「いや、二条邸に帰ってきたんじゃない。こっちに来たんだ」
今回はどれくらい覚えている?
「師匠、冬香さん、若月さん……白い霊体は……朧?黒いのは傀で、魂付きが怨霊……」
どこで得た知識かは不明だが、元から知っていたものではない気がした。
これはきっと、仕入れたばかりの知識だ。
師匠から聞いたのかな?
覚えてないけど、こっちに朧や傀はいない。
いや、厳密に言うと、区別がつかない。
朧も傀も怨霊も、さらには付喪神も全部人の形をとっている。
「巻き込まれた人や造られた虚像なんか……俺が見て分かるかな」
何かで知り得た知識だ。具体的なことは何一つ思い出せないけど、ここには俺や先輩のように巻き込まれた人間と、魂付きの霊体、魂なしの霊体、それに造られた実態のない人が存在しているはずだ。師匠なら区別できるんだろうけど、俺にはまだ無理だ。
「気をつけないと」
何をどう気をつけていいのかも分からないが、冬香さんの呪いもあるし、なんとかなると思うしかない。
「うん、意識して見てみよう」
こっちの記憶はどうだろう。
六条の屋敷が思い起こされる。
あの日、半裸で逃げ帰ってきた理由について、惟光には喧嘩したとだけ言って誤魔化している。
また行けと言われたらどうしよう。
「暑いな……」
汗を拭いながら体を起こす。
四方を囲む布のせいで熱気が篭っている。暑いが不快ではない。俺はこの寝室がわりと気に入っていた。
居心地が良いと言うか、なんか落ち着くんだよな。狭いからかも。
「ん〜」
大きく伸びをしてゆっくり立ち上がる。布を捲って外に出ようとした時だった。
びりっとした刺激が指先に触れ、それと同時に惟光の声。
「若様、若様!」
狛犬をサイドに見ながらそこから出て、惟光がやってくるであろう入り口に移動した。
寝巻きのまま惟光を出迎えた俺は、何ごとかと思いながら用意されていた畳に座る。
大弐の尼に何かあったのかもしれないと思い、少し緊張した面持ちで待つ。
「まずはお詫びを。母の病状が思わしくなく、なかなかこちらに来れませんでした」
そうだったのか。外の世界に戻っている間に、数日経ったという事だろうか。
カレンダーとかないし、暑いから夏だろう、くらいしか分からない。
「容体はどうなんだ?何かあったのか」
少し不安になってそう聞いた。
「弱ってはおりますが、相変わらずといったところです。今日は落ち着いていますので、こちらに来られました。それとこちらを」
短冊状の紙をたくさん渡される。なんだろうと見ると和歌が書いてあった。
「これは?」
「わたしが居る時は、若様に積極的に勉強して頂こうと思いご用意致しました。見て覚えておくと、どこかで何かの役に立つかもしれませんし」
「覚えられるかな……」
「言葉遊びだと思って眺めるだけでも良いかと。なにかと連想する言葉から歌につなげたりするものですから、わたしがいない時でも何かの役に立つかもしれません」
「そうか。ありがとう。これはじっくり見ておく」
そこまで考えてくれる従者は惟光だけだよ。
感謝の言葉を続けて言おうと思った俺は、ずいと近寄った惟光の動きによって引っ込む。
「ところで、隣家の事なのですが」
隣家というと、あの扇子に夕顔の?
とりあえず、大弐の尼の容体が悪化したのではないと分かって安堵した。
「何か分かったのか?」
「はい。家の従者等、方々に尋ねてみたのですが、あまり詳しい者はおりませんでした。ただ5月頃からひっそりと、どなたか来られているようなのです」
なんでひっそりなんだ?誰が滞在しているのだろう。
「わたしも気になってきましたので、看病の合間に中垣からなんとか覗けないものかと動きまして。幾度か観察しておりますと、褶をつけた者を見かけました」
「しびら?」
「ほら、あれですよ。簡素な裳です。略式とはいえ礼装に身を包む女房がいるという事は、仕える主人がいるのでしょう。家のなりからして、そこの主人というよりは、5月から滞在している人物に仕えているのだと思いますが」
なるほど。惟光の鋭い洞察力に感謝だ。俺は春からこっちの記憶があるから、一緒のタイミングで来たにしては時期がズレている。だが、どこかから逃げてきたのなら、先輩である可能性もまだあるって事だな。
同じ時期にこっちに来て、ツテを頼って惟光の実家の隣に逃げてきた。
うん、これだ。
俺が勝手に納得していると、惟光から報告の続きがある。
「それで、昨日の事なのですが、いつものように覗いていましたら……」
いつものようにって、惟光、もはや習慣化している?
「夕日が差し込んで、客人らしき女の顔がいつもよりはっきり見えました。文を書くため、机に向かっている様子でしたが、気品があってなかなか美しい方でしたよ」
そして、と惟光は続ける。
「どうにかして接点を作ろうと思いまして、あれこれ偶然を装ってあちらの女房に接触してみたんです」
え、行動派!
素敵、惟光。
「やるな」
「女房に文を送りましたら、素早く返事を寄越しましたよ」
返事が素早いって事は、接触しやすいのだろうか。
「なかなか品の良い女房が仕えていると予想致します。文の内容、返信の速さから推察したものですが」
珍しく興奮気味で話す惟光。もしやと片眉を上げた。
「もしかして、その女房といい感じ?」
「あ、文を出したのは1人ではありませんので、返事が素早かった者と今後やりとりして、深い探りを入れるためです。恋人にでもなれば上がり込むこともできましょうし、側近ければ内情もより正確に分かるかと思いまして」
や、や、や、やるな。言葉には辛うじて出さずにすんだが、1歩先を行かれた気分になって複雑だ。
「俺の調査は”ついで”でいいからさ、彼女作り応援してるよ」
そう言うと少し動揺をみせる惟光。
「あくまで、若様の依頼遂行のためです。そもそも若様は真面目すぎるんです。他の公達をご覧ください。せっかくあちらこちらで好意を寄せらているのですから、体を3つほど使って若さを謳歌するべきです」
いやそんな大袈裟な。
しかも、好意を寄せられてる自覚もない。
妻にすら姿を隠されているのに、モテてるなんて嘘に決まってる。
まぁ、強いて言うなら怨霊には好かれている気がするが。
……………………。
俺……餌としては美味しいのだろうか。
そう思った瞬間、ふと空蝉の人を思い出した。
あそこにいた怨霊は俺が外に連れて行って、師匠が祓ってくれた……ような気がする。モヤがかかった記憶だが、多分あってる。西の姫とやらが怨霊で、外に出ると本性が現れた。
いや、あのお店の特殊な結界の中だったからそうなったのかも。
いずれにしろ怨霊が消えたのなら、あの人はしばらく安全かな?
惟光の実家隣が先輩なら言うことなしだが、空蝉の人が先輩である可能性も、まだ潰えていない。いつか、何かのタイミングで、こっちも確認しないとな。
「美卯さんの事は、覚えてるな……」
会っているからだろうか。差し入れをしてくれた大人になった美卯さんも、あの修行で見た中学生の美卯さんも覚えている。
その美卯さんがカシェットの中では、怨霊と虚像が入り混じっていると言っていたが、それがどのように見えているのかがよく分からない。
あの西の姫だって、怨霊になんて見えてなかった。
「俺の能力不足?」
…………否めない。
腕組みしながら悶々と考えていると、遠くから惟光を呼ぶ声。
少し失礼しますと言って、俺の側から離れた惟光を頷きだけで見送った俺は、さらに深く考え始めた。
しかしいくら考えても思い出せないし、理解も進まない。もう1度寝てやろうかと思ったところで、惟光が戻ってきた。
「伊予介がご挨拶したいと、こちらの屋敷にやってきたようでございます。お会いになりますか?」
あの空蝉の人の旦那さんだ。
太ももの感触を思い出し、あれがバレたんじゃないかとヒヤッとする。
「任国から戻って1番に若様に会いに来られたようです」
「な、なんの用事で?」
「小君の事ではないでしょうか?
え?
小君?
ちゅん、と鳴き声の幻聴が聞こえるようだ。
しかも伊予介といえば、あの怨霊の父親だ。乳を放り出して……いやいや、父を放り出して外へ行って、師匠に潰されてしまったあの姫の……父親。
まずい。非常にまずい。
あれこれまずい!
俺は泣きそうな顔で惟光を見て、会いたくないと言いかけた。しかし惟光はすでに踵を返して、その背中しか見えていない。俺はどうしようもできず、ただただ固まっていた。




