〜5〜見知らぬ妻の話
「………………か?……聞いていますか?」
はっと我にかえり前を見る。
見慣れぬ景色に戸惑う。惟光といた屋敷ではない場所だ。女房と呼ばれていた世話役と同じような服装の女が、左大臣の家だとかトウノチュウジョウがどうのと、説教のような口調と表情で俺に話しかけている。
「えっと……」
普通に話し出そうとして、『もっと貴人らしく』と言う惟光の声が聞こえる……ような気がした。惟光の内裏での会話教育を思い出しつつ、ゆったり構えをとりつつ口を開く。
「す、まない。……もう一度、頼む」
言葉を思い出しながらそう言った。
俺、今……何してたんだっけ?
「物忌が明けましたら、北の御方の御座所にも通わなければなりませんよ」
と言うような内容に聞こえた。
キタノオンカタ?
オマシドコロって何?
今、物忌なの?
その物忌は言い訳?
それともガチのやつ?
「若君……もしかすると、例の後遺症とやらですか?」
説教していた様子の女房は急におろおろし始め、心配そうに顔を覗き込んできた。
「まあ、どうしましょう。何をお忘れなのかしら。何からご説明申し上げれば」
放っておくとパニックになりそうな女房を見ながら、帝の前で気絶したような、どこかにつれていかれたような曖昧な記憶が蘇る。
そして惟光のファインプレーを思い出した。
もしやここは宮中での俺の住まい?
ということは、この女房は母の雇っていた従業員ってことか?
『若様、扇を開いて顔をお隠しになり、適当に溜息をついていればなんとかなりますよ』
う〜ん、やってみるチャンス?
身内みたいなもんだし、惟光の手紙読んでるみたいだし、感じ悪かったら謝ればいいよな!
「大丈夫だ」
そう言ってから扇を少し開き、ほうっと軽く息を吐き出した。
女房の動きがぴたりと止まり、感嘆のため息に変わる。
「若君にお仕えできて、本当に光栄でございますこと」
頬をほんのり染めた女房を見て、惟光の言うとおりにうまく行った事を悟る。頬を染めている理由はわからなかったが、この女房が惟光のように色々教えてくれるだろう。
「少し困ったことに記憶が曖昧でね」
そう言い置いてからあれこれ聞いた。
まず、物忌の事。
これは帝を中心とした物忌で、宮中行事のようなものなんだとか。その影響で、俺も宮中から出られない。
帝の父とは仲が良いらしく、そのせいで宮中の自分の居場所(今いるところだよな?)から出たくなさそうな俺を心配して、さきほどから説教をしていたようだ。
親離れしろと言われているのだろうか?
母が亡くなっているのだから、残された親と仲が良くなるのは当然のように思えるが、それが心配なのだろうか。
だが本音を言えばすぐにでも帰りたい。俺には惟光が必要だから、一刻も早く二条の屋敷に戻りたい!今すぐにでも行動に移していいくらいだが、俺には二条の屋敷への戻り方すら分からない。その上、物忌が明けたらっていつの事を指すのか不明だ。
明日?
それとも明後日?
いや、何日後?
もしかすると、何週間後?
そこまで離れているとしたら、宮中の他の場所に行けって事なんだろうか?
「……」
だめだ、惟光との会話に比べて、俺の理解度が格段に下がる。
考えながら聞いていたから、全然話が入って来ない。
これも記憶が曖昧なせいか、慣れの問題なのか。
そもそもこの前、帝の前に出てからどうしたんだっけ?
「う〜ん」
「若君?」
思い出せないせいで唸ってしまった俺に、まだ説教したそうな女房が訝しげな顔を向ける。それを機に、倒れたり変な事をしなかったか聞いたが、つつがなく、とだけ返ってきた。
つつがなくと言われてもピンと来ないが、まあいいだろう。これ以上考えても仕方ないし、この人が知らないだけの可能性もあるが、とりあえずは大丈夫そうだ。
「それじゃあ次に教えて欲しいんだけど、キタノオンカタって何だっけ」
「え、わ、若君」
焦った様子の女房からの説明に、俺は驚きで目が飛び出るかと思った。
心の中では思いっきり『はあぁ?』と言っている。
なんと俺は左大臣家の姫と結婚しており、婿として通うことは義務だと説明を受けたのだ。
キタノオンカタって妻ってこと?
妻だと?
いつ、結婚したんだ!
初夜は?
記憶ないんだけど!
「中将様とは仲がよろしいのに、そのご実家には何かと理由をつけて行こうとしない。もう4・5年も連れ添っておられるのに」
先ほどとは違った溜息が小さく漏れる。
仲の良い中将?その実家?
「中将の姉か妹が妻……ってことか?記憶の確認なんだが、今の年齢と結婚時の年齢を教えてくれないか?」
ぶつぶつ言っていたかと思っていたのだろう。途中で顔を上げての問いかけに、女房は少し反応が遅れたが答えてくれた。
「12の頃にご結婚なされ、今は17でございますよ」
俺は確かに17だ。でも、12で結婚?小6だぞ?
それはダメでしょ、常識的に考えて。
ふと疑問に思い、妻の年齢を聞いてみた。
「4つお歳上ですよ」
と言うことは、今は21歳?
よかった大人で!
4つ下とか犯罪じゃん。
「中将の妹で……あってる?」
女房は首を傾げて、姉か妹かは知らないと返ってきた。
年上の妻。
大人の女性と結婚?
小6で?
ピントの合わないファインダーを覗き続けている気分だ。
『……しく呪ってあげる』
頭の中で声が聞こえ、ふっと誰かの魅力的な唇が記憶を掠めた。
あの人くらいの年齢かな。
……そう思ったが誰のことか分からない。
女房も説明を続けているので、ゆっくり思い出すことができなかった。
「長雨と同時に物忌も明けましょうから、その折にはどうぞ左大臣邸へお向かいください」
う〜んと、つまり?
雨が止んだら、歳上の妻の元へ行けと?
なるほど、なんとなくわかった。
ゆっくり頷いて了承の意を伝えた。
持っていた半開きの扇を全開にし、女房から表情を隠して見知らぬ妻を思う。
どんな人なんだろう。
いや、ニンマリなんかしてないぞ。
でも、冬香さんみたいに色っぽい人だったらいいなあ……
「ん?冬香さんって誰だっけ」
女房の説教は終わったようだったので、記憶に向き合おうとあれこれ考えてみるが、冬香さんに関しての記憶は戻ってこなかった。
少し時間を置いて女房にも聞いてみたが、そのような名前は知らないとの回答だ。
う〜ん、誰だっけなあ。どうにも思い出せないが、それが勿体無いような気がする。
それに冬香さんに関連して、もう何人か思い出せそうだった。
「冬香さん……」
どうしてだろう、その名を呼ぶと……
ちょっとムラムラするような……だけどムラムラすると背後から殴られるような、そんな気がする。
俺は知らず首に手を当て、自分の考えに耽っていった。