〜49〜胡蝶の夢
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「少し心配してらしたけど、なんとか誤魔化してきたわ。継続してフォローしていくから心配しないで」
そう言って微笑む若月さんに、俺は無言のまま頷いた。
まさか、学校の理事長がこの人だったなんて。驚きで声が出ない。
「ところであなた、お母様やお父様はどちらも能力者じゃないの?」
なぜそんな事を聞かれたのか分からないが、俺は首を振って答える。
「聞いた事ないので違うと思います」
「そう。なら気のせいかしら……」
拳で口元を隠しながらぶつぶつ言う若月さんに、師匠から声が飛ぶ。
「何かあったのか」
その言葉に、若月さんは足を止めた。しばらく逡巡するように視線を彷徨わせたが、ややして同じように止まっていた師匠に顔を向ける。
「南がね、少し違和感を感じたのよ」
違和感ってなんだろ?
「霊体に干渉しずらく、耐性があるようだったと言っていたわ。だけど、本人はいたって自然に振る舞っていたし、何か能力を使っているとか、抵抗しようとして集中しようとか、そんな気配もなかったのよ」
俺には状況がよく分からないが、その南さんて人の調子悪かったとか?
「結界のようなものは感じなかったし、体質である可能性も否定できないけど、それならあたし達のやっていた事に気がつくと思うのよ。気がついて何も言わなかったようにも見えなかったし、違和感だけが残ってね」
感覚的な話だから、違和感が何って聞いても分からないんだろうな。
「父親が能力者で呪を仕込ませて持たせている可能性は?」
師匠がそう言って若月さんを見た。俺は慌てて手を上げて言う。
「うち、父はいません」
「え……」
「記憶がないくらい小さい時に死んでます。なんか財産だけは残してくれたみたいで、生活には困っていませんが、能力者とかじゃないと思います」
うちには仏壇も神棚もないし、占いめいたものはもちろん、風水グッズみたいなものもない。だからと言うわけではないが、父親が能力者とは考えにくい。
「そう……。バタバタしていたから、住所くらいしか情報をもらってなかったのよね。でもそれなら、やっぱり体質かしらね」
肩をすくめて両手を上げた若月さんは歩みを再開させる。みんなそれに倣うように動き始め、俺は足を進めながら首を傾げて問うた。
「じゃあ、俺の体質は母譲りって事ですかね?」
「ん〜、まあ可能性はあるわね。落ち着いたら、礼に見てもらうといいわ」
俺は頷いてから逆サイドの師匠を見上げる。
非現実的な美形を見上げた瞬間、その背後に走る高速道路に現実を感じた。
師匠と若月さん、それに翡翠さんも含めて現実に馴染まない。
すぐ横の道路を見ると、平日の昼下りで行き交う人々は忙しそうだ。
スーツを着た男性は腕時計を確認しながら急ぎ足で通り過ぎ、カジュアルな服装の女性は飲食店を眺めている。
カシェットの中から出てきて、不思議な映像を見て、怖い修行をして、ランチを食べて……
これは本当に現実なんだろうか。
「どうした?」
訝しげな顔の師匠。俺はしばし迷ったが、おずおずと口を開いた。
「もし……もしですよ。これが俺の夢だったって可能性あります?」
「ないとは言い切れないが、それを確かめる事ができるのは自分だけだな。オレには答えられない」
俺は俯いて考える。
「それじゃあ、集団中2病の可能性は?」
「はは、あるな」
師匠は苦笑しながら答える。
「己のリアルが真実かどうかなんて、誰にもわからんだろ。まさに胡蝶の夢だな」
「胡蝶の夢?」
胡蝶って蝶の事だっけ?
蝶が見る夢?
「儚いってことですか」
「あぁ、それも良い解釈だな。まあ、蝶になって飛ぶ夢から目覚めた時、果たしてどちらが現実なんだろうってこと」
「蝶になって飛んでる方が現実かも?」
師匠の頷きを見て、難しい質問をしてしまったなと思う。
「ま、細かいことを気にして、現実逃避しても状況は変わらない。少なくともオレの感覚では夢オチはないから、さっさと戻って続き、やるぞ」
続きをやるって聞くとさっきの修行みたいで、なんだか嫌だ。
俺は勢いよく手を挙げて質問する。
「はい、師匠!座学、ですよね?」
「……そうだな。仕方ないから夕方までは座学を許可する」
舌打ちしたそうな顔でそう言われてしまったが、気がつかないふりをして意気揚々と歩く。
この恐怖はまさしく現実。
逃避したって修行はきっと避けられないと知った。
冷や汗なんて、かいてないからな!
はなちるさとに戻った俺は、座学の時に使っていたソファーに移動する。
師匠から金の丸い物体を渡され、開けるように言われる。
「なんですか、これ。コンパス?懐中時計?」
「アコールって名前の道具。開けてみな」
上のスイッチみたいなものに触れると、ピンっと小さな金属音。
中には金属の5つ円があり、上と下に歯車が見える。金属の円にはそれぞれ数字が書いてあり、内側から1、2、3、5、6、歯車は上が4で下が7だ。
「能力を使って動かせるか」
能力と言われましても師匠。
「とりあえず力を抜いて、意識をこっちに持っていく」
言われるまま肩の力を抜き、ソファーに深く沈み込む。
じっと盤面を見ていると、中心の円が反時計回りに動いた。ゆっくりゆっくり動くと共に、少し歪な音も聞こえる。回転が安定すると、綺麗な音が聞こえた。
「シ?」
「凄いわね。逆回転もいける?」
若月さんがそう言って盤面を覗く。
意識して見ると素直に回転した。
「時計回りはドだ!じゃあ次の円はレ?」
「勘がいいわね。鳴らせる?」
2の数字が書かれている円は時計回りにレ、反時計回りはレのフラットが鳴る。
3はミとミのフラット、5はソとソのフラット、6はラとラのフラットだった。
「あれ、でも順番に鳴らしていったら、足りない音がありますね」
「歯車よ」
若月さんの指が上の歯車を指す。
歯車をじっと眺めていると、くるりと回転してファの音が鳴った。下の歯車はシのフラットだ。
なんて面白い楽器なんだ!
好きな曲、演奏できるかな。
俺は眼を閉じて楽譜を思い出すように上を向いた。
「あら、フォーレのゆりかごね」
「凄いな」
嬉しそうな若月さんの声と、次いで師匠の声。
頭の中で思い描くだけで音が鳴るなんて、夢のような楽器だ。
自分の鳴らしている音に身を委ねていると、急激にぐわんと目が回った。
「おっ……」
思い出す牛車の揺れ。
気持ち悪くなりそうだと思ったが、揺れはすぐに収まり、さらに深くソファーに沈み込む。
「あら大変。翡翠、お願いできるかしら」
薄く眼を開けると翡翠さんの手が眼を覆うところだった。すぐに暖かく包まれるような感覚になった。
「どれくらいかかりそう?」
若月さんの声が聞こえる。
「損傷箇所は多いですが、全て軽傷です。ただ、時間は少しかかりますね」
初めて聞くその声はハスキーで、女性にしては低め、男性にしては高めだと思った。声を聞いてもどっちか分からないが、それがこの人の魅力のように感じる。
「そう……どうする、礼」
「夜、光が寝ている間に治療ってのは可能か」
師匠の声が聞こえてきて、俺はこの後のスケジュールに変更がない事を悟る。
「可能です。何時まで潜ってますか?」
「予定では……時くらいまで」
ボソボソ話しているから聞き取れなかった。3時くらいまでって聞こえた気がする。まさか明け方じゃないだろうし、夜の23時でもないだろう。きっと15時の事だ。
あと2時間くらい?
「わかりました。それでは、仮眠をとってその頃来ます」
「悪いな」
いや、15時なら仮眠なんていらないよね?
「いえ、それでは」
包まれているような感覚が消えた俺は、ソファーに背中から着地するような気がした。
目を開くと、翡翠さんはすでに背を向けて出て行こうとしている。
「さて、アコールがダメなら、こっちを再開だな」
師匠がそう言ってゴーグルを手渡してくるものだから、翡翠さんへ何の言葉も投げられなかった。
「中級2か……お、光も知ってる人物の登場だぞ」
その言葉に、意識が師匠に戻る。
「誰ですか?」
カードを掲げた師匠を見て、ゴーグルを装着しながら質問した。
「未桜と菟だな」
白い手に包まれたキスシーンを思い出した。
「中級2。こんなパターンの呪いもあるって事例だ。対処方法の1つも分かるんじゃないか。ま、参考程度だけどな」
フィルターのかかった視界の先で、師匠の手からカードが離れる。
ちょっとドキドキしながら、物語の中へと進んでいった。
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