〜46〜カオリンのカシェット
「お待たせ。ハーブティーにしようと思ったけど、こっちの方が貴重かもしれないと思って」
かちゃり、とトレーを置いた冬香さん。
琥珀色の芳しい液体がそこにはあった。
平安の世界では決して味わえない飲み物、それはコーヒー。
なるほど、できたお人だぜ。
俺はカップを手に持ち、ゆっくりと息を吸い込んで香りを堪能する。
スティックシュガーを3本淹れて、苦味と甘味と香りを楽しんだ。
「ハーブティーも平安では無理なんじゃないのか?」
師匠が冬香さんにそう聞いている。
「その気になれば、その辺に生えているもので作れるもの。でもコーヒーは自生していないでしょ?」
「え、ハーブってその辺に自生してんの?」
驚いた様子の師匠が少し新鮮に感じて、俺は2人のやりとりを黙って見ていた。
「探せば街中でもあるわよ。蓬やドクダミなんかはよく見かけるし、ミントやローズマリーもあるわ。少し山に登ればもっとたくさん見つける事ができるから、アスファルトのない平安なら普通にあるかもしれないわね」
「山育ちだけあって詳しいな。よく採ってのか?」
「ええ、辞典に載ってたのを集めてきて、色々ブレンドを変えて飲んでいたわ」
山育ち?
冬香さんが?
なんだか似合わない。
詳しく聞いてみようか迷っていると、冬香さんがこちらに顔を向ける。
「ランチはゆっくり摂りましょうね」
そう言って華やかに微笑んだ。ハーブの話は終わったようで、師匠もこちらを見た。
「光、食べたいものあるか?」
師匠から嬉しい質問。
「なんでもいいんですか?」
こくりと頷いた師匠に、俺はあの時代では味わえないものを考えた。
「スイーツ、とか」
「却下」
ええ!?
なんでもいいって言ったばっかじゃん!!
「礼」
冬香さんが師匠を見て、嗜めるような口調で言った。
「ビュッフェランチをやっているホテルはどう?」
女神!女神がここにいるよ!!
「あぁ、なるほど」
師匠も納得してくれた。
「よし、じゃあ歩いていけるとこにある、某有名ホテルのビュッフェに連れて行ってやろう。そうと決まれば、昼飯の前に修行だな」
え?修行?
「時間ないから巻きでいくぞ。コーヒー飲んだら昼食前の軽い運動だ。その後は夕食まで修行するからな」
「座学はもう終わりですか?」
「まだあるけど、一度試してそっちが無理そうなら戻る。行けそうならそのまま修行だ」
師匠はそう言ってから、
「カオリン」
と、何者かを呼ぶような仕草をする。
しばらくすると、ぽわんと輝いた白い小狐が俺の足元に戯れついていた。
なんだこのかわいい物体は!
抱き上げてみたくて、コーヒーを一気に飲み干した。
冬香さんにご馳走様でしたと告げて、足元の小狐を抱き上げる。
狐は俺の目をじっと見つめ、自分の鼻を俺の鼻にくっつけてきた。
「きゃわいい……」
そう呟いた時だった。狐はその体を捩るように動き、形を変えて床に落ちる。
「え!!」
驚いて師匠を見るが、半笑いのままこちらを見ているその口からは、何の言葉もなかった。
代わりに声を発したのは、冬香さんだ。
「カオリンは訓練させてくれる【カシェット】になれるの」
冬香さんはそう言うと、床に落ちた一枚の絵を拾い上げる。
絵を抱え上げ、裏側をそっと撫でながら移動する。
「礼も一緒に入るの。無茶しないように言ってあるから、許してね」
例の空間が歪む壁へと向かっているんだと、直感で分かった。
俺も慌てて後に続く。
冬香さんは無機質なコンクリートの壁の前に立ち、狐だった絵を白紙委任状があった壁にかける。
手をかざすと、絵はぼんやりと輝きを帯び始めた。
さっきの小狐ではなく、大人の狐が描かれた絵だった。
「時間はこっちの3倍よ。礼と一緒に入れるわ。もう時間がないから1時間くらい経ったと思ったら帰ってきてね」
振り返って横に避けた冬香さんは、猫のマイカを抱き上げながらそう告げた。
この壁の絵って、入れる時間は朝だけじゃないのか?
そう疑問に思っていると、師匠が俺の肩に手を置いて、そのままぐいっと前へ突き出す。
「さ、行こうか」
「うわっ」
吸い込まれるような感覚があったが、意識は保っていられそうだ。
「頑張ってね」
手を振りながら言う冬香さんに、俺も手を振り返したかったが、師匠に阻まれてできなかった。
俺の代わりに師匠が手を振ってウィンクまでしている。
舌打ちしたいのを我慢しながら、絵の中に吸い込まれて行った。
***
「外ではできない事が出来ていいんだよ、カシェットは。大暴れも可能だ」
空に浮かんだ師匠を、俺はぼんやり眺めている。
抜けるような青い空に映える美形が、静かに俺を見下ろしていた。
なんだこれ、どんな状況だ?
「光、どれくらい今の状況を把握している?」
「えっと……」
よく見ると俺も空に浮かんでいた。
「え!浮いてる?」
そう声に出した瞬間、ガクンと視界が動き、落下が始まった。
「!」
突然のことに声が出せない。恐怖に目を閉じようとした瞬間、ガクンと衝撃が走り、落下が止まった。
地上はまだ遠い。
学校の3階から眺める景色よりも、ずっと遠かった。
「光、自分の足で立てるはずだぞ」
俺の背中を掴んだ師匠によって落下が止まったのだと、この時知った。
「ど、ど、ど、どうやって!」
「カオリンは対象者のレベルに合わせた世界を作るから、光なら空スタートでも良いと判断したんだろ。立てると思って立ってみな」
そう言われて足を出してみるが、空を蹴るだけで立てる気がしない。
「じゃあ離すぞ」
「いや、ちょっと待っ……!」
師匠の手が離れたのを感じ、同時に落下が始まる。
嫌だ!落ちたくないー!
浮いてると気がつく前は大丈夫だったのに、こんなのってないよ!
できると言われてできるのなら、すでに落下は止まっているはずなのに、地面はどんどん迫っている。
し、死ぬーー!
半ば諦めの境地で覚悟を決めた俺を、掴んで止めてくれたのはやはり師匠だった。地上10メートルくらいから襟首を捕まれ、首の締め付けと同時に減速していった。
恐怖と苦しさに涙が出そうになり、もう限界というところで、無事地に足をつける事ができた。
そのまま崩れるように、両手を地について項垂れる。
「こ、怖かった……」
「高所恐怖症とか?」
「そんな次元の高さじゃなかったでしょ!」
剥き出しの身一つで、あんな高いところ平気な奴なんて、危険本能麻痺してるとしか思えん!
「まあ、でもここ、精神世界だし」
肩をすくめて両手を天に向ける師匠。冗談でしか見ないそのポーズが、やたらと決まっていてムカつく。
「精神世界で死んでも大丈夫ってことですか?」
「……」
「無言はやめて下さい!」
怖いんだよ、あんたの無言!
「よし、高さに慣れようか」
師匠はそう言うと、背中の服を鷲掴みにして大きくジャンプした。
「ぎゃあぁあぁぁぁ!」
早すぎる景色に動体視力がついていけず、恐怖も相俟って目をぎゅっと閉じた。
「さ、着いた」
「へ?」
目を閉じた直後。ほとんど一瞬だった。
ぱっと目を開けると、すべての景色が遠い。はっと振り返り師匠やその周りを確認する。
鉄の骨組みの上に、身一つの剥き出しで座っていた。
「こ、ここどこですか?通天閣とか?」
「いや、マカオタワー」
「マ、マカオ?」
そう言って師匠は右手の人差し指を立て、鉄の上をカンカンいわせながら歩く。すぐに端の方に立つと、片足を宙に出す。
「ま、イメージだけね。バンジーとかやってんじゃん。高さに慣れるのちょうどいいでしょ」
「マカオってどこ!高さになれる必要、あるんですか?」
師匠は縁の端から足をだし、まるで講義をしている先生のように3歩進むと、宙に浮いたまま振り返った。
「マカオは香港から船で20分って感じかな。楽しいじゃん、飛べたら」
具体的な場所なんてどうでもいい!
「ハードル高すぎるわ!」
思わず敬語も忘れて叫んでしまった。
「ちっ、ダメか」
「俺で遊ぶのやめてください」
「なんか光ってそういう体質なんじゃないの?彼女にも遊ばれてないか?」
そう言われて思い出す先輩との会話。
『いいですけど、先輩。俺の名前で遊ぶのやめてください』
『遊んでるんじゃないわ。これはあれよ。ちょっかいってやつ?ひかるくん、私のお気に入りだし』
ふと、真顔で師匠に不安を溢す。
「先輩、大丈夫でしょうか」
「それは光の成長具合によるな」
ん?
俺の成長が先輩の無事と関係ある?
なぜ?
「長期戦になると具合が悪い。とりあえずここから地表に力を飛ばせたら、少しは見込みあるんだけどな」
「力ってあの必殺技みたいなヤツですか?」
そうそうと言いながら、宙から戻ってくる。再びカツンと鳴る音に安堵した俺の胸ぐらを、グッと掴む拳。
え?
「ま、その辺りは遊園地で教えてあげよう」
「遊園地?」




