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花散里と出会うまで  作者: 堀戸 江西
41/81

〜41〜日常と現実

無機質に戻ったコンクリートの壁をそっと撫でた冬香(とうか)は、大きなため息をついた。

「はぁ……心配だわ」

「ま、大丈夫だろ」

「死ぬかもしれないのに?」

「妬けるな。オレも心配されたい。そして癒されたい。昨日から一睡もしてないし」

冬香の背後から腕を伸ばした礼。その首に腕を絡め、頬にわざと音を立て、唇を何度か押し当てた。

冬香はくすりと笑うと、礼の腕に手を乗せて微笑む。

「このまま職場で『いけないこと』したいところだけど、残りの1分であなたを本命のお仕事に送り出さないと」

そう言って礼の腕から逃げ出した。

「残念」

「彼と違って、すぐ帰ってくるでしょ?」

「お望みとあらば」

また1つ、くすりと笑った冬香。

そのまま壁に手を(かざ)す。壁に再び陽炎(かげろう)が現れた。

(ひかる)には見えていなかったが、その陽炎は存在が固まり、ガラスのようになって絵を保護している。

いや、保護しているように見える。

冬香が外に影響を及ぼさないように施した封印の一種だ。

ガラスがぱりんと割れると、じわりと滲むように別の絵が現れる。

水路やカヌー、ヨーロッパ風の建物が、細切れに描かれていた。

「やっぱオレも白紙委任状か」

「大物は最低3体で、10日前の案件よ。一度八角(やかど)さんが挑戦してダメだったの。オーナー判断では、礼以外に任せるのは危険な強さらしいわ。どのくらいかかりそう?」

「うーん、そうだな」

礼が屈んで絵を覗き込み、しばし見つめてから体を起こした。冬香に顔を向けて軽く言う。

「ま、半日ってとこかな。昼には間に合うよう戻ってくる。1駅先のカフェに行きたいって言ってただろ?」

その言葉に冬香から笑みと頷き。

嬉しいと言葉には出なかったが、その表情で心が満たされるのを感じる礼。再び冬香に近寄って、その後頭部に手を置いて引き寄せようとした。

「あの子のためにしばらくは大阪滞在?」

ふと、思い出したように、礼を見上げて聞く冬香。

引き寄せるのをやめた手で冬香の前髪をサラリと避け、その指で頬を撫でる。

「冬香の都合に合わせるよ」

2人きりの時にしか見せない優しい笑み。

ほんのり頬を染めた冬香が、照れ隠しに横を向いた。

「私は……いつだってあなたのいる場所に飛んでいくじゃない」

「……」

返答のない礼に、不安になった冬香が顔を向ける。

「うん、呪いごと愛せる」

体が少し浮く勢いで、両腕でぎゅっと冬香を抱きしめる礼。

その腕の中から、冬香が真っ赤な耳だけ覗かせて注意事項を伝える。

「午後からはお客様がいるから、出てくるときは気をつけてね」

「了解。午後にはならないが覚えておく」

時間がないのを悟った礼は、冬香に絡みつくのをやめて伸びをしながら絵の正面に移動した。

「ベネチアですって。3体いる大物はサンタルチア駅に1体、離島のムラーノ島に1体、残りの1体は分からないそうよ。もしかするとからくり時計の中かもって」

礼の姿が揺れ始めた。

「オーケー。囚われたのは?」

「成人男性2名」

「ちっ、男か」

「そのうち1名は亜槐(あかい)さんよ」

半分ほど取り込まれた礼は、呆れた顔で冬香を見る。

「何してんだよ、あの人は」

「すっかり呪いに慣れちゃって、巻き込まれる回数も増えてるわね」

冬香は礼に手を振りながら言った。最後まで聞こえていないだろうと思いながら。








◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇









師匠はコーヒーだけを飲んで、あれこれつまむ俺を観察していた。

さすがに頼みすぎただろうかと思っていると、残していいと言われて戸惑う。

「え、でも、せっかく頼んだのにもったいない」

「いい。力を使ってるから、効率的に回復するためには体が欲するものを思うがまま食べるのが早い。どうせ修行で消化するから大丈夫だ」

ごくりと、口の中に含んだものを飲み込んだ。

やっぱり拭い切れない不安を運ぶ言葉だ、修行って。

「師匠は食べないんですか?」

「こんな早朝に食べる気力なんてない。俺は起きてるだけでも奇跡だよ」

早朝っていうほどの時間だろうか。店内の時計を確認すると、9時を過ぎたところだ。

よほど夜型なのか。

そう考えていた俺の目の前で、金のカードを取り出した師匠はそれを唐突に破り、テーブルに置くとこちらをじっと見つめる。フォークで(すく)ったスクランブルエッグが1欠片溢れた。

「……なるほど」

何がなるほど?

意味は分からないが、射抜くような視線が痛い。

完食するつもりで挑んだ料理の数々は、満遍なく少量だけ減っている。それを不満に思っているとか?

「それで、どうだ?光源氏ライフは」

違ったようで安堵した。俺は絵の中での出来事を思い出しながらパンを口に放り込み、もぐもぐ考え、ごくりと飲み込んでから答えた。

「光源氏って自覚ないんで、どうと言われても……」

師匠は納得顔で頷くと、コーヒーのカップを置いて俺に言う。

「自ら魂の保護ができないと、こっちでの記憶は保っていられないからな。何かきっかけでもあれば別だろうが」

そう言って師匠はテーブルに肘をついて、手の甲に顎を乗せる。

「きっかけ?」

「ああ、知り合いに会うとかだな」

「え、そんな事でいいんですか?」

「特殊な存在だからな」

どう特殊なのか分からなくて首を傾げつつ、手はパンを掴んでいた。

「他の人とどう違うんですか」

俺はパンを千切って口に放り込む。同じタイミングで、師匠の口からふぅっと小さく息が溢れでる。

息、吐き出すだけなのに、この色気は何?

ふいに惟光からのアドバイスを思い出した。

確かにこんな美形が、扇越しに溜息なんか披露したら色気も感じて見惚れるわ。こんなイメージで自分がやっていたのだと思うと恥ずかしい限りだが。そう思い、咀嚼(そしゃく)も忘れて師匠の開かれる口元に注目していた。

「あの中には、作られた存在、霊体だけの存在、魂付きの霊体、それに光みたいな肉体付きの実体……ま、生きた人間が入り混じっている」

咀嚼を再開させた俺は、絵の中を思い出そうと上を見た。

知り合った様々な人物が、脳裏を通り過ぎていく。怨霊らしき人物とそれ以外なら区別つくが、女房とかに先輩が紛れていても、記憶のない俺が本当に気がつくだろうか。

「部活の先輩なんだろ?」

俺の考えを見透かしたような師匠の言葉。思考から戻って目の前の顔を見る。

「近しい人物とは霊体が馴染んだり、体が無意識に覚えていたりする。それが上手く連動したら記憶の像と結びつく」

そうなんだ!

「じゃあ先輩と出会ったら思い出すんですね」

師匠は首を横に振る。

なんだよそれ!

「出会うだけじゃダメだ。体のどこかに触れる必要がある」

はっ!

そ、そ、それは素肌に?

「何を考えているのかはその顔でよく分かるが、服の上からでも大丈夫だ」

なんだ。

でも、記憶がないあの世界で、女性に近づいて触るようなチャンスあるかな。

「ハグ、キス、握手。それがダメなら肩をぶつける程度でもいい。存在くらいは思い出すだろう。だから死なないように頑張れ。その上で出来る事なら、呪いに当てられてもなんとか戻って来れる程度には、自衛してもらいたいものだな」

「自衛結界ってやつですか」

「そうだ。1日くらいの修行で自衛結界が張れるようになるとも思えないが……。ま、それでもみっちり受けてもらうぞ。光が中で死んだら目も当てられないからな」

”死”

その言葉を聞いて、ごくりと口に含んでいたものを飲み込んだ。パンか卵か覚えていないが、当然のように味がしない。

「それから、向こうの住人と深く繋がるなよ。体内には絶対に入れるな」

向こうの住人ってのは、あの怨霊達のことだよな?

もちろん可能な限り近寄りたくないが、それを体内にいれるなって、どういう意味?

「毒を盛られるとか、そんな話ですか?それとも刺されるとか?」

俺が不安げな顔でそう問うと、師匠はにやりと笑って答える。

「こちらが攻めるのならまあ良しとする。無意識でも保護できてる可能性があるからな」

はい?

怨霊に有効な武器でもあるんだろうか。

うーん、師匠の言いたいことが分からないぞ。

俺が首を捻りかけていると、師匠がふっと笑う。

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