〜40〜白紙委任状
後ろ姿だったが、先輩だと分かった。ただし制服ではない。
着物のような服装だ。よく見ると、その手は真っ赤に染まっている。
なんで、赤いんだろう……。
不安を噛み殺していると、師匠から追加の説明があった。
「怨霊も、彼女もこの中にいる」
何となくそんな気はしていた。ごくりと喉を鳴らして、じっと絵を見つめる。嫌な気配を絵から感じ取った俺は、誤魔化すように笑みを作り、師匠に向き直って質問した。
「俺がこの中に入るとか、そんな感じですか?」
「よくわかったな」
え、マジか。
正解したくなかった!
絵の中って何?
手前の空気とか、捻れてて怖いんだけど。
ポカンと開いた俺の口を見て、師匠が不敵な笑みを漏らす。
「絵の中に入るって意味不明だよな。でも大丈夫。すぐに体験できるから」
絵に入るってことは、あの捻れに巻き込まれるんじゃ?
問題の絵をよく見ようと、体を乗り出したオレの肩を師匠が強めに掴んで、自分に引き寄せた。巻き込まれないように引き戻したって感じだ。
実際に目に見えてる捻れよりも、大きく空間が歪んでるって事なんだろうか。
「選ばれるわけだよ、光」
「え?」
「多重一致に加え、その容姿だ。選ばれたって言うより、魅入られた、が近いかな」
「何が一致……え?なんですか?魅入れられた?」
「光源氏に選ばれたんだよ」
意味がわからず、首が直角に傾く。
「はい?」
「光、男前じゃん!色気ねぇけど」
「いや、褒めたら落とさないで」
色気の出し方なんて分からんし。
「名前も光だしな」
「あの、さっぱり話が見えないんですが……」
ぽんっと両肩に師匠の手が置かれる。真剣な眼差しが俺を見つめていて、男だとわかっているのにドキドキした。
「色気はさ、やっぱ経験ないと出ないだろ。実戦のチャンスだぞ」
真面目な顔でなんて事言うんだ。そんな俺の思いを置き去りに、師匠は言葉を続ける。
「これは白紙委任状タイプだ。高度な解呪技法が必要になる。でも、解呪がなんたるかを説明している暇ないから……光のセンスで頑張れ」
放棄した!
師匠としてそれはどうかと思うぞ!
そう思って恨めしげに見上げていると、何かに気がついた様子で振り返る師匠。
俺の額に人差し指と中指を当て、丸を描く様に動かす。
ふわっと下から暖かい風が舞い上がる様な気がした。
「じゃ、冬香。よろしく」
師匠の手が額から離れたと思ったら、すぐに冬香さんの両手が肩に置かれる。
冬香さんはじっと顔を覗き込んでくる。やっぱり美人だなぁ。
師匠ほどじゃないけど。
でも、色気はぶっちぎりで冬香さんの圧勝だなぁ。
いい匂いするし。
……
…………
………………いや、近いって。
どんどん距離が縮まっていますけど!
昨日、なんかこんなシーン見たけど、まさか自分に?
近すぎて顔が熱くなってきた。迫られているような体勢がより体温を上げる。
ものすごい近距離で、冬香さんが口を開く。
「やっちゃダメよ。性的な行為は一切禁止。でもきっと襲われるだろうから、私があなたを優しく呪ってあげる」
少し傾げた首に下向き加減の瞳。長いまつ毛がその愛らしい瞳を半分ほど隠していた。
か、かわいい!
呪ってください、今すぐに!
……。
え?
呪うって何?
「え、っちょっと待っ……」
首の後ろに回された手に力が入った。顔がさらに近づいてくる。
伏目から見える瞳が、不思議な色に変わっているように見えた。ふっくらした唇が迫ってきて、目の色どころではなかったけど。
「!」
キスされるのかと思ったが、冬香さんの唇はオレの首に押し当てられた。
吸いつかれている?
そう思った直後、ゾクゾクしたなんとも言えぬ感覚が全身を襲った。
何、この感じ?
「はっ!」
舌が、舌が動いてるよ!
「痛!」
最後に噛まれた!
何これ?
何してくれてんの?
恥ずかしすぎる!
「喜びすぎ」
余韻に浸っていたのに、思いっきり後頭部を殴られた。舞い上がりすぎて痛みなど感じない俺を、あきれたような冬香さんの声が制す。
「遊んでないでこっちに来て」
冬香さんが呼んでいる。はい!すぐ行きます!
俺は浮き足立って、引き寄せられるように手招かれた。
「ここに立って」
言われたのは絵の前だった。空間の捩れはもうない。
「この絵はある一定の条件下で、76.9センチから81.4センチの虚空が揺らぎ扉が開くの。だからその辺りに立って」
揺らぎ?さっき見たやつかな。コクウってなんだ?
ふわふわする思考から言葉を絞り出す。
「条件……って?」
師匠が落ち着いた声で答えてくれる。
「北緯34度40分58秒、東経135度29分54秒、高度10メートル。午前8時7分から6分間。守られた清浄な空間。この条件で扉が開くんだよ」
「なんの扉……?」
冬香さんがオレの背中に手を置いて言う。
「真っ直ぐ向いて。明日の同じ時間に一度戻って来られるわ。ただし時間の流れが違うから、感覚で感じ取ってね」
時間の流れが違うってどういう事だ?
「違うって、どうやって感じ取れば……?」
「必要に応じて、怨霊は祓うのよ」
「お、怨霊を祓うって……方法が分かんないんですけど」
「絵に入ってしまうと、色んな記憶が失われるから頑張って覚えて」
冬香さんの顔が真横にあって頬が熱い。首がじんじんする。手を当ててみるとほのかに熱い。
そのままの体制で冬香さんをちらりと見て聞く。
「絵に……入る?……出るのはどうやって?」
目の前の絵が揺らいでいる。それと同時にオレの体も揺らいでいるような気がした。
「違和感を察知して本命を探しなさい」
「違和……感?」
今、すでに違和感ですけど。なんで体の揺れを止められなんだろう。
「ただし、自分の存在に違和感を感じないように。記憶が戻らない内に、絵の中で人格が崩壊したらお終いだからね。あなたが助けるべき人は、オーナーが死なせないように魂を保護して、この絵の中で生きられるように、何らかの役割を与えていると思うわ」
「やく……わり…………?」
ちゃんと話を聞きたいのに、意識が遠のきかけている。
「半分ってところかしら。やだ、意識も保っていられないみたいね」
半分って何が?
自分の体が半分絵に吸い込まれているなど、今の俺にわかるはずもなかった。
師匠の声が遠くから聞こえる。
「花散見 美里がはなちるさとの可能性が高い。そしてお前は光だ。魂に刻まれた名前が存在の違和感を遠ざけてくれるだろう」
師匠の声がさらに遠くなる。冬香さんの唇が動いている。あぁ、やっぱり魅力的だな。
「はなちるさとを探しなさい」
「はな?な、に……?」
冬香さんの声もかなり遠い。
「はなちるさとよ。きっと貴方の助けを待っているわ。彼女と合流して力を合わせて一緒に戻ってきなさい」
だから、どうやって戻るんだ?意識を失いかけの俺に、師匠から軽薄な声色の激励が飛ぶ。
「頑張れよー。失敗したら死ぬからなー」
「んあ?え!ちょっと待っ……」
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無機質に戻ったコンクリートの壁をそっと撫でた冬香は、大きなため息をついた。
「はぁ……心配だわ」




