〜4〜帰還 はなちるさと
「気持ちわる……」
牛車から降りた俺は、今、柱に寄りかかってぐったりしている。
腹の後ろの方が引っ張られるような、どんと沈み込みそうで重いような、そんな感覚。
車はそれなりに揺れた。
そりゃあそうか、アスファルトじゃないもんな。舗装のレベルが違う。
惟光の案じゃないけど、扇を開いて口元を隠す。
こんな酔い方をしたことなんて今までない。あんな車に乗ったこともないんだが。
深呼吸しようとして、大きく息を吐き出した。
「相変わらず、美しくておられる。そのため息さえも」
同じように扇で口元を覆った男に声をかけられる。
げ、何だこいつ。今、変な事言ってなかったか?
少し年上だろうか、親しげにこちらへ寄ってくる。
「大変だったのですね。物の怪と戦われたとか」
おそらくそのような事を言われた。
「い、いえ。戦ったわけでは……」
惟光以外と会話する事が初めてなので、緊張して答えた。通じているのか不安だ。
誰と話しているのかも分からないし、迂闊な事も言えないしで、気の利いた言葉など何も出てこない。
「お顔の色がすぐれませんね」
大丈夫ではないと言いたいが、言っても何かが変わるとも思えず、また、なんと返答して良いものか思案しているが思いつかない。固まっているとややして向こうから言ってきた。
「ご挨拶だけでもなんとか頑張っていただいて、後はごゆっくり休まれるとよいでしょう。肩をお貸し致しましょうか」
「すまない」
名前も知らないが、親し気に話しかけてきたのだから、知り合いなのだろう。
気分が悪いことにして中まで道案内してもらおうと、差し出された肩に手を乗せ、少しだけ体重を預けた。
足を進めるにつれ緊張が増していき、話しかけられているのに、何も耳に入ってこなかった。
どこをどう歩いたのか覚えていないが、いつの間にか目的地へ辿り着いていたようだ。
スダレ(御簾というらしい)の向こうに、帝がいるとのことだった。
緊張がピークに達した気がした。
いっそこのまま気を失ってしまいたい。高熱に苦しんでもいいから、なんとかこの場から逃げ出したかった。
「◯◆:@◯;」
やばいやばい、聞き取れない!
さっと血の気が引くような気がした。
「顔色が……」
連れてきてくれた男がそう言っている。だがその声がかなり遠い。
なぜ遠いのだろうかと思った時には、自分の体がおかしな方向に引っ張られていた。腹の後ろのほうに違和感。
「な、んだ?」
抵抗しようと思い至る前に、俺はその場から吸い込まれるようにして消えた。
***
「お帰りなさい」
女性の声がする。
俺は床に尻餅をついてぼんやりと壁を見つめていた。
縦割りの遠近感ごちゃ混ぜな絵が、そこにはある。
何だっけ、これ。
ぼうっと考えていると、突然襟首を掴まれて絵の前から移動させられた。
「ぐえ……く、苦……し……い」
声を振り絞って苦しさを訴えると、ふっと手が離された。
慌てて息の確保をし、しばらしくして辺りを確認する。
背の高い男が俺を見下ろしていた。
薄い金のストレートヘアはサラサラで、軽く頬を覆っている。全体が長いわけではなく、後ろは短かそうだ。
その瞳は……グレー?
いや、薄い青かも。瞳の中心には所々オレンジが散りばめられている。
瞳の中が特徴的で、中性的な高身長の男性。
腰に左手を当てて、しなやかに立つその人は、俺を見下ろして観察しているようだった。
誰だろう、記憶がないだけなのか初対面なのかどっちだ、と思いながら見上げる。
その隣に可憐で小柄な女性がいる。女性はトレーにコップ乗せたまま、俺の顔を覗き込んできた。赤い唇が薄く開く。
「お水、どうぞ」
差し出されたコップを受け取り、水を口に運ぶ。
とろりと、ほんのり甘い液体が喉を通った。
これ、本当に水?
美味しくて一気飲みしてしまった。
ふうっと大きな息を吐き出し、少し頭を下げてトレーに空のコップを戻す。
トレーを持っている女性と目が合うと、にこりと魅力的な笑みが返ってくる。
この人、知ってるぞ。
『……私が優しく……』
そうだ!
「……と、冬香さん!」
その人の名を叫んだところで、薄い金色の髪をさらりとかき上げながら、先ほどの男性が近づいてくる。
「この子が光源氏?」
ふうん、と言ってさらに近づいて俺の顔を覗き込んだ男性に、冬香さんは肯定の言葉を返す。
冬香さんも師匠も、それにこの人も、何だってこんな近距離で顔を覗き込むんだろ。
まつ毛長っ!やっぱまつ毛も金なんだな。
そう思いつつ男性を見ていると、
「で、収穫は?」
と、体を離しながらそんな質問が飛んできた。
「収穫?」
「どこまで行ったの?」
何を聞かれているのか分からないが、答えを待っているそぶりの男性に、俺は考え考え口を開いた。
「ちょっと、平安まで。えっと、どなた?」
「若月よ。やっぱり源氏物語?」
よかった、初対面のようだ。
「それはちょっと分からないです。源氏物語詳しくないですし、言葉、難しいし」
「え?」
若月と名乗った男性は、冬香さんと顔を見合わす。
「言葉、日本語だった?」
冬香さんからそう聞かれたので、頷きながら答えた。
「時々、同じような言葉がありますし、昔の日本語だと言われればそんな気もします。とりあえず今は、従者みたいな人に言葉を教えてもらってて、でも仕事に行けと言われて……帝がいて、やっぱり言葉がわからなくてパニクって……」
そこまで呟くように言って、勢いよく壁を振り返り思い出した。
そうか、俺……絵……。
壁の絵の中に入ったんだ。
過去に行ったのでも、転生したのでもなく、この絵の中に先輩を取り戻しに行ったんだ。
「先輩は!?それと師匠は?俺がこの絵に入ってから、何日経ったんですか!」
「一日よ」
若月さんがそう答え、次に冬香さんが口を開く。
「礼は別のお仕事中。他には誰も出てきていないわ。もう会えたの?」
俺はただ首を横に振って、壁の絵に目を向けた。
「先輩……」
まだ何も出来ていない。だけど、入ったばかりの頃に体験したあの童女。
「金縛りにあって、子供が側にいたんです。あれって……」
「怖かったのなら、怨霊でしょうね」
答えてくれた冬香さんを振り返って、質問しようと立ち上がる。すると思った以上に足に力が入らず、よろけて一歩後退した。
「あ、バカ!」
え?
バカと言った若月さんの横で、冬香さんが手を振りはじめた。
「怨霊は祓うのよ」
「祓うって、どうやっ……」
再び絵に吸い込まれているなんて、気がつきもせず意識を手放しかける。
助けるんだ、先輩を。
覚えておかないと!
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
吸い込まれた光を見送った2人。しばしの沈黙の後、先に口を開いたのは冬香だった。
「確認、してくれたんですよね?」
「もちろんよ。保護は消えてないわ。それに呪いもね。そのおかげで帰って来れたんだし。ただし、ちょっと喰われていたわね。かけたの2つでしょ?」
「はい。損傷していたのは、保護のほうですか?」
「そうよ。呪いは無事だったわ」
両肘を抱えた若月はふうっと溜息をついた。
「想像以上ね、この絵は。しかもあの様子じゃ、こっちの事は全然覚えていないわね」
「ええ、そうですね」
それにしても、と呟いて若月が愚痴をこぼす。
「礼ったら、なんだってこんな時に冬香を無力化したのかしら」
うっすら頬を染める冬香は困ったように頷いて口を開く。
「色々ありまして……」
首を左右に振って頬の色を消した冬香は、切り替えるように言った。
「それにしても、白紙委任状タイプで言葉が通じないケースなんて……過去にありました?」
うぅんと唸る若月。しばし瞑目して思案する。
「それについては、冬香と礼にまだ言ってない事があるのよ」
「?」
不思議そうに首を傾ける冬香に、若月は思案顔で言う。
「礼が戻ってきたら説明するわね。ちょっと長い話になるから」
わかりましたと頷く冬香。
若月はふと壁に目を向けると、思い出したように両手を打ち付けた。
「言葉の通じないカシェット案件、あったわね」
さきほどとは逆方向に首を傾ける冬香。若月は苦笑しながら言う。
「ほら、発生したてのクセにやたら強かった奴」
「大波さんがボロボロになった時ですか?」
「ふふ、そうそう。武の成長には必要だったのよ」
ボロボロになった【大波 武】を思い出したのか、笑いを堪えきれない様子の若月に冬香が答える。
「あのカシェットは墓タイプだった気がするのですが……」
「あら?……言われてみればそうかも。それなら、白紙委任で言葉が通じない……う、ん〜、あったような……」
あ、と再度手を打った若月。
「洋書の付喪神の時じゃない?」
冬香も思い出したのか、ああ、と呟いた。
しばし考えてから、首を傾げて若月を見る。
「付喪神……なんでしょうか」
「そうねえ。そんな感じがしなくもないけど、カシェットの調整している時に感じたのは、やっぱり怨霊かしら。かなり複合しているから、自信はないんだけど」
頷きながら冬香はそれに賛同する。
「付喪神が道端で蹲るのも、なんだか変ですしね」
そう呟くように言った冬香の足元に、金の猫がじゃれついた。
「マイカはどう思う?」
そう言って抱え上げた冬香に、猫は鳴き声を返し頬を舐めた。
「オーナーはどう見てます?」
「絶対付喪神じゃないって言えないけど、あたしの個人的な事情もあるし、カシェットも白紙委任状タイプだし……正直、なんとも言えないわ。まぁ、ハイレベルであることには違いないわね。記憶も保っていられない子が無事に帰ってこれるとは思えないけど……そこは礼のお墨付きだし、とりあえずあと1日は信じて待つしかないわ」
冬香の抱いているマイカの頭に、そっと手を伸ばす若月。
「戻ってくる前に加工するかもしれないけど」
気持ちよさそうに撫でられているマイカを見ながら、冬香は若月に目を向ける。
「何かを追加されるのですか?」
「ええ、楽しみにしてて」
ウインクする若月に、冬香は無言で頷く。
それにしても、と続ける若月。
「磨けば輝きそうないい子だったわね」
すでに絵の消えた壁に向かってウィンクする。
「さすが、光源氏ってとこですか?」
「そうね。……でも残念だわ。礼の言う通り、ほんっと色気がないのね」
悩ましげに息をついた若月は、冬香に目を向けてじっと見つめる。
「まあ、いつも貴女を見ているせいかも知れないけど」
冬香は困ったような顔で笑う。
「明日も無事に帰ってくるといいですね」
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