〜39〜先輩のゆくえ
「何かあるんですか?」
すらりと長い指が差す先を、じっと見つめる。何もないただの壁だ。
「意味わかんないんですけど、色々と」
今更だけど、昨夜からの感想を含めて言ってみた。
チラッと横を見ると、ニヤリと笑った目が一瞬コチラを見た。しかしまたすぐ壁に戻る。
視線につられて俺も壁を見た。
横目に師匠の腕が振り下ろされ、コーンと綺麗な音が鳴った。
昨日使っていた音叉だな。
これはチューニングしろって事だと思い、壁に集中する。
じっと見つめることしばし、コンクリートの壁が揺らめいた。
「え?」
それは一瞬のゆらめき。目の錯覚かとも思ったが、師匠がわざわざ見ろと言ったのだから、何か意味があるのだろう。
「見えたか?」
師匠が立ち上がりながら聞いてくる。
「陽炎みたいなやつですか?」
「よくできました。さすがだな」
満足そうに手を叩いて師匠が喜んでくれる。そんなに表情変わってないけど、絶対喜んでる。
褒められるとちょっと嬉しい。
「礼、机出してくれる?」
三人分のコーヒーを乗せたトレーと共に冬香さんが現れる。師匠が壁に立てかけてあるの折りたたみの机に手を伸ばす。
「ドリップしているけど、コンビニの豆だからね」
味に期待しないでねと、冬香さんは困ったような笑顔で言った。
「机の……と言うか、光くんの位置、気にしてね」
無言で頷く師匠。
ちょいちょい不思議な会話をしている。なんのことか分からないのが少し怖いんだけど、説明がないし聞ける感じでもなく。気安い空気感は流れているけど2人の間に限っているので、迂闊に口も挟めない。
「砂糖足りる?ブラック派?」
「オレ、ブラック派」
「もう、光くんに聞いたのに」
師匠が出した机にトレーを置いた冬香さんは、俺に召し上がれと言いながら、立ったままコーヒーの入ったマグカップを1つとった。
その唇をぼんやり見ている事を自覚した俺は、慌てて目を逸らして誤魔化すように質問した。
「机の位置は陽炎に関係ありますか?」
冬香さんから視線を外すため、隣の師匠に顔ごと向ける。
「ふうん、よく分かったな。優秀、優秀」
くしゃっと俺の前髪を撫でながら言う師匠。
また褒められた!
褒められると素直に嬉しいのだが、冬香さんは気になるし、絵のことも不安だしで上手く反応できない。それを誤魔化すようにスティックシュガーを2本、コーヒーミルクも2つ入れて、勢いよくかき混ぜた。
「甘味やカフェインはきっと貴重になるから、じっくり味わいな」
「え?どういう事ですか?」
俺の疑問に冬香さんが反応した。
「礼は予測できているのね。どんな感じだったの?」
「百人一首の中から出てきたのかと思った」
「あぁ、なるほど……」
納得したように頷いた冬香さんは、マグカップに艶やかな唇をつけてコーヒーを飲んだ。
静まり返った部屋の中。
玄関の方で猫の鳴き声がして、誰もが口を閉ざしてコーヒーを飲んでいる。
ふと、首を少し傾げた冬香さん。少しして目だけを師匠に向けた。
流し目も素敵だ!
「礼、初めてなのは入るのだけよね。祓ったことはあるのよね?」
師匠の方からずずっとコーヒーを啜る音、次いで猫の鳴き声が遠くから聞こえ、朝の静かな部屋に響く。
え、デジャブ?
冬香さんの声は心地よくて、唇を見ているだけで幸せな気分になるのに、その言葉は拭いきれない不安を運んでくる。
「まさか……白紙委任状タイプなのよ?経験者だって危ないのに!」
信じられないって声に出していないけど聞こえた。冬香さんはそんな顔をしている。そして危ないって何?どのくらい危ないのか詳しく教えてよ!
「だってさ、どうせ全部忘れるじゃん。説明しても覚えてないんじゃ、こいつのセンスに賭けるしかないわけよ」
「じゃあぶっつけ本番なの?」
「そ!」
師匠の巻毛がひらりと揺れ、片目を横切って中央に落ち着き、とびっきりの笑顔を演出した。
うわ、自分が女ならイチコロだ。すげぇ破壊力。
くそー男前め。
……いや、誤魔化されてる場合か!ちゃんと聞かないと!
「だからさ、頼むよ」
何からどう聞いていいのか考えていると、師匠が冬香さんにウインクしている。
これは俺にとって少しはいい話なのか?
期待を込めて冬香さんを見る。
「どこまで説明したの?」
「ふっ」
鼻で笑うだけで答えない師匠。
「……じゃあ、入るって何のことかも分かってないのね」
無言の頷き。
「力の使い方は?」
「昨日からぶっ通しでちょちょいっとね。光はセンスよくってさ、なんかいけそうだよ」
意図的にはまだ成功してないけどね、と小さく言った師匠の声、冬香さんはちゃんと拾ってくれただろうか。
ふう、とため息をつく伏目の冬香さん。やっぱり唇に目が行く。
「なんとなく状況はわかったわ……あなた、選ばれたのね。名前は偶然かしら。そうでなければ、随分前からマーキングされていたのかしら」
壁掛け時計をチラリと見た冬香さんは、手に持っていたマグカップをそっと机に置いた。
「光くん、女性経験は?」
「へ?」
じいっと冬香さんが俺の目を覗いている。
「まあ、あったら私に頼まないわね。……囚われたのは誰?」
すごい質問に口をパクパクさせていた俺は、慌てて次の質問に答える。
「囚われたのは美里さんって言って、俺の……えっと……部活の、せん、ぱい……で、す」
じっと見つめられたその瞳を、見つめ返し続けることができなくて、そうすると唇に目がいって、でもそれは呪いなんだと思い直し、訳がわからなくなってきて、しどろもどろになりながら答えた。
「巻き込まれたのね。もしかしてあなたを庇ったの?」
「は、はい。そのようです。なんで分かるんですか?」
そう言いながら冬香さんは壁に手を翳す。
パリンと小さなガラスが割れるような音が聞こえ、ガラス片は見えなかったが、陽炎が立ち昇った。
直後、冬香さんは壁から正面を避けて斜めに離れる。
「なんの絵だろうって思ってたけど、これはやっぱり源氏物語ね。となると、保護する先は『はなちるさと』に関連する場所の可能性が高いわ」
「ああ、なるほど。それって若月のセンス?」
冬香さんは斜めから壁を眺め、首を傾げながら答える。陽炎はまだ見えていた。
「どうかしら。意図的に作れたことはないし、主力の宿主が源氏物語に固執していると考えたほうがいいと思うわ。オーナーってそこらへんのセンス天才でしょう?源氏物語だと読み取って、便乗したんじゃないかしら」
師匠がふうん、確かにねと呟き、続けて口を開く。
「まあ、平安あたりだろうとは思っていたが、物語とはラッキーだったな」
ラッキーって何が?
何一つ分からないまま、会話が進んでいる事に不安を隠しきれない。
そんな俺を知ってか知らずか、師匠は呑気な口調で首を傾げて俺に問う。
「あれ?光の彼女、名前なんだ?」
師匠の視線を受け止めきれず、動揺をそのままに口を開いた。
「かか、彼女じゃありません」
「じゃあ、好きな人」
早い切り返しに焦る。
「す、好きって!ちょっと師匠!」
「ほんとに初心だな。まあいい。時間ないから言ってみな、名前フルネームで」
「花散見、美里です」
か、顔が沸騰しそうなほど熱いんですけど。
「風見鶏のかざみ?」
「あ、いえ。植物の花、散る、見る、です。名前は美しい里」
俺は答えながら壁の揺らめきがより大きくなる様子を見ていた。色彩まで滲み出てきてそこから目が離せない。
「な、なに?」
揺らめきが収まると、その中心に日本画のようなタッチの不思議な絵があった。
縦割りにいくつか分断されており、遠近感がおかしい変な絵だ。
「あ!あの人……?」
疼くまった着物の女性が、その絵の中心に描かれている。
これがみんなが見ていた人、なのか?
背景は竹藪が左に、どこかのお屋敷が右に描かれており、遠くの竹が前面に描かれている女性の肩を一部隠していた。後ろにあるはずのものが、前の人物を遮る変な絵。
師匠が絵を見ながら口を開く。
「この絵は昨日の出来事、諸々だ。あの小箱から生成され……ま、あれを具現化したものだ。若月の力でこの絵に全てを封印し、あるいは保護している」
「も、諸々?」
「中心の人物に惑わされるな」
そう言って師匠は絵の端を指差した。
俺は目を細めてその指し示された一点を見つめた。
「あ、あれは……先輩!?」




