〜26〜帰還 はなちるさと3日目
「おかえり、光」
ぱちっと目が開くと、目の前に丹精な顔があった。くりくりの巻毛に彫刻のような相貌。
「師匠……?」
「封印します」
え?
冬香さんの声が横から聞こえ、同時にチリチリとガラスが擦れるような音。
はっとして壁を見ると、あの変な絵が徐々に壁に埋まっていくように見えた。
絵が完全に消えると、冬香さんは大きく息を吐き出す。
「よかった。封印は問題ありません。抵抗力も感じませんので、明日まで暴走もしないでしょう」
そう言いながら俺を見る冬香さん。
俺に言ったのかと思ったが、すぐ間違いに気がついた。その視線は俺を通り越して背後に向けられている。
「本当は1日だって惜しいけど、今は仕方ないわね」
背後から声が聞こえて振り返ると、若月さんが立っている。まだぼんやりしている俺に、人差し指を突き出して言葉を続けた。
「いい?あなたの双肩にはたくさんの人の運命が委ねられているの。経験値がない事も理解しているけど、選択肢がないのよ。みんなが笑って未来を迎えられるように、全力で頑張ってちょうだい」
「……?」
真剣な顔で言われたけど、意味がよく分からない。たくさんって、どのレベル?
「まずは小池先生のところですね」
冬香さんが真剣な表情で言い、師匠が頷いて俺の肩を抱く。
「診察で問題なければ、朝食、修行、昼食、修行、小休憩、修行、修行、修行、夕食、修行、修行、修行、修行、修行な」
え?
食うか修行しかないの?しかも診察で問題がなければって……?
「診察で問題があった場合、どのようなスケジュールになりますか?」
すぐ側にある端正な顔を見上げて問うと、ふっと笑う師匠。
「点滴、修行、点滴、修行、小休憩、修行、修行、修行、点滴、修行、修行、修行、修行、修行だな」
修行は絶対なんですね……。
京都の山奥がフラッシュバックして血の気が引いていく。
「そんな心配するような修行じゃないから安心して。ここの先輩達が過去体験した事を映像化したものを見てもらうのがメインだから」
若月さんがそう言って笑う。
ほっと胸を撫で下ろしたいのに、師匠の絡まった腕が問答無用で激しい修行を行う前兆のように感じて恐ろしい。
師匠の言う修行って、アレだよね?
若月さんの言っている修行とは違う気がする。
「不安そうな顔してるわね。大丈夫よ、ここで行うから」
俺の不安を察してくれたのか、若月さんからそう言われる。
信じて良いのか分からなかったが、ひとまず頷いてみせると、師匠に玄関に引っ張って行かれた。
「とりあえず先生んとこ連れてくわ。翡翠、呼んどいて」
師匠に、若月さんから声がかかる。
「わかったわ。小池先生によろしく」
冬香さんは手を振っている。
「いってらっしゃい」
逃げ出したい。なんだか無性に逃げ出したい。
それを分かっているのか、師匠の腕はしばらく離れなかった。
近所にある小池クリニックで診察を受けた俺は、あれこれ検査もされた。血もとって、ついでに身長体重、血圧も測って結果を聞いたが、まったく何の問題もないと診断される。
小池先生は師匠よりちょっと年上の女医さんだ。30代半ば……くらいかな。
美人だし優しそうだから、ここで点滴打っててもよかったなと少し残念に思いながら、師匠に連れられて近所のカフェに入った。
「なんでも好きなだけ頼んでいいけど、3日ぶりの食事だから様子を見ながら食べな」
「え、本当になんでも頼んでいいんですか?」
師匠の頷きを見て、やったと指を鳴らす。3日ぶりは実感がなかったけど、味のない食事ではない事に、期待で胸がはちきれそうだ。
「目についたやつ、片っ端から頼んでいいぞ」
師匠がそう言うので、あれこれ頼んでみた。うきうきしながら到着を待っていると、師匠から問われる。
「記憶の混乱はおきていないか?」
「混乱って……?」
「絵の中に入る事になった経緯を、覚えているか?」
俺は少し首を捻って思い出そうとした。絵の中の記憶と、現実での記憶が交差している気がしないでもない。
「大阪に来る少し前くらいから思い出してみな」
師匠に言われて俺はまず学校を思い出した。
神奈川県藤沢市にある、俺と先輩が通っている『私立瓊樹学院高等学校』の事を。
***
土曜日の昼過ぎ。
部活メンバーはバラバラでお昼の休憩をとっていた。
「琥太郎これはどうだ?」
部長に向かって岳斗先輩がノートパソコンの画面を指差している。
「どれどれ……」
そう言いながら画面を覗き込んだ部長は、うーんと唸りながら近場の椅子を引き寄せた。これから2人の世界に入るなと思った俺は、その場を離れて自分の鞄が置いてある場所に移動した。
「なんかいいアイデアないかな……」
ぽつりと呟くと、窓際の席に座った。持ってきた母特製のサンドを齧りつつ、一人ぼんやり窓の外を見ながら、小さな溜息を溢す。
ここの活動は5人しかいないが、ギリギリ『部』として認められている。
その内訳は3年が3人、2年は俺だけ、1年も1人しかいない。来年には廃部を覚悟せねばならない、少々マニアックな活動をしていた。
その名も『雅楽研究部』だ。
舞を踊る人はおらず、打楽器の奏者もいない。
部長の空田琥太郎先輩がDTMを駆使して、打楽器パートを打ち込んでくる。
雅楽にはあるまじき、一定で正確なビート。
音の層が薄くなるのを覚悟で、打楽器なしで演奏する曲もあるが、バリエーションとしてそれだけでは物足りない。太鼓や金属音がないと締まらないとは部長の言葉。
やはり打楽器が欲しいと言い出した部長は、何故か勧誘の方向には走らず、打ち込む方に向かったらしい。
部長が作ったリズムに合わせて、弦楽器二人と吹奏楽器三人で演奏する。
この部は研究が目的のため、楽器は定期的に奏者を入れ替えて練習していた。
もちろん、打楽器以外だが。
しかし演奏の需要が時々あるので、それぞれ一番得意な楽器が決まっており、演奏会の前などはこうやって土日も部活を余儀なくされる。
俺の溜息の原因はその演奏会。
演目がまだ決まっておらず、朝からあーでもない、こーでもないと打ち合わせばかりで、演奏の練習に入れないでいた。
まあ、分からないでもないんだ。
曲を延々演奏しても、知らない曲のオンパレードだと、最初の2曲目くらいで飽きてくる。
そこで楽器の説明をしたり、曲の成り立ちの説明をしたり、雅楽の世界観を知ってもらおうと色々工夫しなきゃならない。
クラシックなんて俺たちからみたらポップだもんな。
街中に溢れていて、耳馴染みがある。でも雅楽は雰囲気しか知らないと言う人も多い。
楽器説明、曲の成り立ち説明のち、がっつり雅楽の曲をやるのか、みんなが知っているような童謡やポップスを雅楽の楽器でやるのか、そしてそれが今の打ち込んだ打楽器で出来るのか。
アイデアだけよくても、スキルが追いついていなければ実現できない。
今も部長の空田は同い年の3年、都久川岳斗先輩(みんな名前で呼びたがる)とノートパソコンに向かって何やら打ち込んでいる。
失敗したのか、2人から悲鳴のような奇声が発せられる。
BPMはやっぱりダメだとか、ピアノ伴奏が、とか騒いでいるようだ。
まあ、いつもの事なんだが。
バイト先も同じらしく、とても仲良しの2人。
雅楽研究部はそんな2人が立ち上げた部活なんだとか。
ちなみに空田部長は篳篥を、岳斗先輩は笙を担当している。
雅楽の吹奏楽器、最後の一つである龍笛は俺の担当楽器だ。
入部の時にほとんど強引に決定された横笛。何故その楽器を渡されたのか説明が欲しいところだ。
篳篥はメンテナンスも大変だし、演奏も難しいからラッキーかもしれないが、いつかこの疑問をすっきりさせたい。
1年と3年に女性部員がおり、弦楽器系を担当していた。
その1人が、俺の探している人だ。




