〜25〜愛人邸脱出
「惟光!」
道端の草をむしって、手で回しながら遊んでいた惟光が驚いた顔でこちらを見た。
「わ、若様。なんて格好をされているのですか」
「いいから早く出してくれ」
「は、はい!」
服装など気にしている場合ではない。
俺は急いで牛車に乗り込むと、再度急ぐように言った。
ややして動き始めた車の中で、大きな安堵の息を漏らす。
よく思い出してみれば、御息所の顔も無機質だったような。
微笑みは、今にして思えば薄ら笑いだったのかも。
御簾越しだったので、細かい表情などは分からない。何かの病気で発作が起きた、なんて可能性だってあるかもしれないし……
これは言い訳じゃないぞ。
祓うにしても一度対策を立てて、じっくり挑まないといけないような気がした。
知識を総動員しても、今の俺はきっと勝てない。
いや、例え色々思い出したとしても、無理だと思う。
何故と問われると困るが、肌で感じ取った感触だ。
車が砂利に跳ねて、いつもなら気持ち悪くなるところだが、そんな余裕もないほど気が張り詰めていた。
「まだ四条……」
気が張っていて大丈夫だと思っていたのだが、五条を過ぎた辺りから気が緩んできたようだ。
実は俺、牛車の乗り心地が悪すぎて、早く降りたい一心で道と、その距離感を覚えてしまった。
御所から南に一区画下るごとに二条、三条と名前がついている。
今は北上しているから六条から二区画戻ってきた事になる。って事は、後二区画で降りられる。
「は〜、気持ち悪い……」
早く降りたい。でも、まだ半分だ。
「まだ大丈夫だ。ふぅ〜」
きっと俺は今、かなり青い顔をしているに違いない。
でも、吐くものか。
帰ったら布団にダイブしてそのまま寝てやる。
そんな俺の意気込みは、帰宅場所が違っていた事でたち消えた。
二条の自宅へ戻るのだと思っていたが、惟光は俺を内裏へ送り届けると実家へ帰っていく。
あそこの寝所が一番落ち着くのに、残念だ。
「はぁ、気持ち悪いし疲れた……」
項垂れていると、女房が麦茶を持ってきてくれる。
俺はありがたくそれを頂戴し、いつの間にか机につっぷして寝てしまった。
翌日、父の帝に呼ばれて参上した。
お呼び出しの理由を色々述べられたが、一通り聞いた感じでは、ただ話したかっただけなんじゃなかろうかと思う。
気になる事はないか、不便な事はないかと尋ねられる。最近の俺の様子を見て、心配になったらしい。
なんて優しい父なんだと、感動で涙が出そうになった。
どこの家も、父親ってこんな感じなんだろうか。
優しげな瞳でじっと俺を見ている姿を見ていて、ふと思い出した。
弘徽殿と麗景殿での出来事だ。
どちらにも女御様がおられると聞いている。それって、この人の奥さんだよね?
「少し前の事なのですが……」
どちらから話そうと考え、弘徽殿の出来事から聞いてみることにした。
「弘徽殿の前を通った時に、その……」
悪意をぶつけられたと言うと、障りがあるだろうか。どう言おうか、このまま言わない方が良いだろうか、考えが纏まらないうちに、帝から小さな溜息が聞こえる。
「嫌な思いをさせてしまったか」
やれやれと言った風の仕草に、心当たりがあるのだと予測した。それならば、やはりあれは悪意だったのだ。
あの後、いつも色々教えてくれる女房に聞き、兄にあたる人の母で、息子の出世に影を落としそうな(帝のお気に入りである)俺を警戒していると教えてもらった。
「弘徽殿の女御は、お前の母が亡くなった時に、大きな音を出して宴会していたような人だよ。お前には辛くあたるだろうから、会わないように気をつけなさい」
政治的に俺を警戒しているのは知っていたが、母が亡くなった時に宴会?
それじゃあ、俺が嫌いってよりも、母への嫉妬に近いのかもしれないな。
いや、それとも、大きな音で帝に気がついてもらいたかったとか。
ちらりと帝を見るも、思い出すだけで嫌そうな顔をしていた。その作戦は失敗だったんだな。
それを知ったからといって、呪いのような声がついてきたなんて、帝に言えるはずもなく、俺はさっさと話題を次に移すことにした。
「そういえば先日、麗景殿が随分騒がしかったようなのですが、何かあったのですか?朝から悲鳴が聞こえていましたが……」
すると帝は少し考え、思い出したように大きく頷いた。
「女御の妹君が妖に拐かされて、髪を奪われたという噂があって、少し騒ぎが起きていた。ただ女御に聞いてもただの噂で真実ではないと言う。何もなかったと言われてしまえば、妹御に問いただすわけにも行かず、真相は不明のままだよ」
帝の言葉を聞いて思い出す、囁くような哀れみの声の数々。
ここまでの平安生活で、髪が短い女性を見た事がない。女房ですら鬱陶しいほどの髪の長さだから、邪魔じゃないか聞いたら嗜みですと返ってきた。
惟光から女は代々髢と呼ばれる、付け毛のようなものを親から受け継ぐとも聞いた事があるし、髪を奪われる事は女でなくなると同じくらい恐ろしい事なのかも。
何が原因でそんな騒動になったんだろう。女御様って見た事ないし、いまいちピンと来ないが。
俺があれこれ考えていると、帝が口を開く。
「お前が幼い頃、とても可愛がってくれたのを覚えているよ。どの妃もお前の可愛さには敵わなかったようだが、あの人は特別甘やかして可愛がっていたね」
そうなんだ。麗景殿の女御様は良い人だな、きっと。
帝はどのような印象をお持ちなんだろう。
弘徽殿の女御の話の時は難しい顔だった帝が、今は優しい顔をしている。麗景殿の女御を思い出してこんな表情をしているのだろうと思って聞いてみた。
「女御様は帝から見てどのようなお人なのですか」
帝はひとつ頷いて答えてくれる。
「とても優しい人だね。華やかではないが、気安く接する事ができるし、親しみ深くて素晴らしい人だよ」
良い人確定。
やっぱり惟光の言いつけ通り、今後も麗景殿ルートで通おう。もう2度と弘徽殿は通るものかと心に誓った。
その日の夜。
俺は内裏の自室でぼんやり月を眺めていた。
「そろそろ出られそうな気がしてるんだけどな」
後ろに引かれるような気がするものの、まだここから動けないでいる。この感覚だと思っているものが、ひょっとしたら間違っている?
「うん、相変わらず、分からん」
ふっと息を吐き出し自重的な笑みを作る。
ここも随分馴染んできたなと思いつつ、はやり二条の自室が恋しい。
最近になって気がついたことなんだが、二条邸の寝室を出る時に感じる、ピリッとした刺激は、入る時にはまったくない。
俺って寝ている時に摩擦起こしまくってるのだろうか?
それはともかく、番人のように置かれている狛犬がないここは、守られていないような気がして、少し不安にさせる。
「まあ、仕方ないか……」
ちなみに、俺はここにも二条の方にも布団に近いものを作って置いてある。
積み上げた畳のような物と厚手の着物を掛けて寝ていたのを、俺のわがままで作ってもらった。綿は存在するようだったので、掛け布団の代わりの着物(夜着っていうらしい)を2枚貼り合わせてもらって、中に綿を詰めてもらった。それを2枚作って敷布団と掛け布団の代わりにしている。
布で四方を囲って垂らしたら中も見れないし、帽子をとっても叫ばれない。
おかげで夜が快適だ。
裸も落ち着かなかったので、寝巻き用に一番下に付ける下着のようなポジションの着物を身につけて寝ている。旅館の浴衣みたいな使い方だ。
ふかふかの布団を左右にゴロゴロしてみる。
「これで帰れたらさいこー」
緊張の糸が切れたのか、ほっとした途端に瞼が重くなり、ゆらゆらしながら眠気に身を任せた。
***
「おかえり、光」
ぱちっと目が開くと、目の前に丹精な顔があった。




