〜24〜愛人邸にて
一区画ほど先の目的地には、思ったより早くついた。
ただ、愛人宅とはいっても俺にそんな記憶はない。
名も知らぬ、見たこともない愛人と楽しく過ごせるとは思えない。
ラッキーと割り切れる性格でも無ければ、喜んで飛びつくほど経験もない。
正妻と別れてくれとか言われたら、どうしたらいいんだ?
まだ見ぬ妻と、今から初対面の愛人との板挟みを想像して、どんよりとした気分だった。
「いつもより遅いので、御息所は采葛の心境でお待ちですよ」
ちょっと待って、惟光。いつにも増して意味不明です。どこの場所の話だ。休憩所とか?
「御息所?」
単語の説明があればわかる気がしたので、意味不明の2つを聞こうと思った。
「御息所は帝の寵愛を受けた方や、子を成した方の事です。ここ、六条には前東宮のお妃様である方がお住まいで、若様はこちらに学問の手解きを受けにこられていましたが……覚えておられないのですか?」
不安気な惟光の視線に、素直に覚えていないと答えた。
「前東宮って確か……」
確か、父帝の弟だったはず。
それなら前東宮は俺の叔父にあたる人となる。
え?妃?
叔父さんの奥さんに、勉強を教えてもらっている?
まあ、それならあり得ない話ではないが、その人が愛人?
いやいや、血の気が引くわ!
なんだそれは。
「采葛ってのは?」
一縷の望みをかけるように、もう1つの疑問を投げかける。
「詩経の一部ですよ。葛を……まあ、会えない日々は長く感じるって詩です」
なんか、教養として読まなければならない物の中に、そんなタイトルあったな。
漢詩だったような気がする。書く練習の時に使ったやつかも。
「会えない日々ね……」
期待した内容ではなかった為、少し肩を落としながら呟いた。それを受けた惟光は頷いて言う。
「一日三秋ですね」
采葛ってのに載っている言葉だろうか。一日が3回の秋を隔てたように長い、みたいな漢詩をうっすら覚えている。
と、なると……どれほど通っていないのだろう。
少なくとも、春から夏にかけての間に行った記憶はない。
もしかして読んでない文の中に、来てほしいなんて内容のものがあったのだろうか。
最近でこそ、なんとなく歌の意味……その奥に隠された意図を、感じ取る事ができる様になってきたが、分からず読み流している可能性だってある。
風流だなぁ、センスあるなぁ、凄いなぁ、なんて思いながら、そのまま折り畳んだ文が幾つも頭を過ぎる。
しかも、惟光が行けと言うって事は、そろそろヤバいって事なんじゃないかと思った。
俺はゴクリと息を飲み込むと、小さく頷いて気合を入れた。
六条の屋敷には、御簾越しでも気品が香ってきそうな女性が待っていた。
気安く話しかけたら怒られるんじゃないかと思うほどだ。
俺なんかじゃ相手にしてもらえない、大人の気品みたいなものを感じる。
こちらから見える範囲では、顔の微細な表情はわからず、年齢の想像もつかないが。
ただ、その佇まい、所作などからそう感じたのだ。
もっというと、いかにも経験豊富でオレなんて片手で捻られそう。いや、鼻で笑われそう?
だからじゃないけど、かなり緊張しながら、沈黙に耐えていた。
さすがにこんな場所にまで惟光はついてこれないし、助言してもらえない俺は何をどうしていいのかわからない。どちらから声をかけるのが礼儀なのかも分からず、相手の出方を見ているのだが、先ほどから動きがない。
どうしよう。困った。
心の中で泣きそうになりながら、ただじっと座っている。
リーン……
涼しげな虫の声が耳に入ってきた。昼間はまだ蝉がけたたましく鳴いているのに、もう秋の虫が鳴いているのかと思い、庭に目を走らせる。
惟光の家や、惟光実家西隣の夕顔が生い茂る家を思い出すと、ここは非常に丁寧に整えられていた。
庭の良し悪しは分からないが、広さや配置、造作などを見るに、かなりセンスあると言っても良いのではなかろうか。
そして、お金持ちだ。
そんな感想を現実逃避しながら考えられるほどの長い沈黙。
顔の見えない、見知らぬ人物との間に続く沈黙が心地よいはずもなく、ただ虫の声を聞いているような風を装って扇を開き目を閉じた。
こちらから声をかけるべきかとも思ったが、失礼な発言をしてしまうかもしれないし、覚えていない事で相手を傷付けるのも嫌だしと考えて、結局何も言えないでいる。
目を開けてじっと御簾の向こうを見てみたが、あちらは開いた扇で顔をほとんど隠している。
愛人でも御簾越しに対面するものなのか。
どうやって愛を囁き合うんだ、この距離で……
そう思って見ていると、少しだけ扇が移動した。それでも鼻から下を扇で隠している名前も知らないこの人もまた、俺をじっと見つめている気がした。
御簾越しなので、確かではないのだが。
「おとなしくされておりますね。何か思うところがおありですか?」
そう問われても、何を返して良いのか分からない。
冷や汗をかきながら、返答の言葉を絞り出す。
「経験に乏しいもので、未だ緊張がとれないのです」
「素敵な奥方がおられるというのに、経験がないなど、誰も信じませんよ」
どう答えていいのか分からず、御簾の向こうの人をじっと見つめた。
見つめる事しばし、ほうっとため息のような音が漏れ聞こえた。
「では、あの噂は本当だったのですね」
ん?噂ってなんだ?
「夫婦仲は冷え切っていると……口さがない人の言う事です。お気になさらぬよう」
そう言って御息所とやらは指先を揃えて、御簾の下から少し出してきた。
これは何のサイン?
手を取れ、と言う事だろうか。
『色気はさ、やっぱ経験ないと出ないだろ』
う、師匠かな。
巻毛のイケメンに、ニヤニヤしながらこんな事を言われたんだ。
あれ?なんか記憶が少し戻って来ている?
他の会話も思い出せそうだ。
『光源氏に選ばれたんだよ』
『はい?』
『光、男前じゃん!色気ねぇけど』
『いや、褒めたら落とさないで』
『名前も光だしな』
『あの、さっぱり話が見えないんですが……』
え?光源氏?
俺が?
いや、無理ムリむり!
直接手を握る勇気すらない俺が?
色気って、色気って何?
どうやったら身につくのか!
「源氏の君?」
はっと御簾の向こうに意識を向ける。
扇を少し開いて口元を隠す。ややあって、その扇を目元まで引き上げて口を開いた。
「私などでは、何をどうしていいのやら」
戸惑いを素直に口に出してみた。
会話が簡単ではないため、言い訳すら即座には思いつかない。逆にそのせいで口数が少なくなり、余裕があるように……見えないかな。
御簾の下から、ちょこっとだけ出ていた手が、するっと伸びて俺の膝に置かれる。
どきんと、大きく心臓が跳ねた。
勇気を出して、その手にそっと触れてみる。
伸ばされた手は両手となり、俺の手を包むようにして持ち上げた。
次いで、ぐいっと引き寄せるような力。
ぼすんとカッコ悪い音を立てて俺の頬が御簾に当たり、相手の動きも止まった。
ど、どうしよう。
経験ないと出ない色気を、実践でどうせよと言うのか。
それともこれから、経験する事になるのか?
心臓が破裂しそうなほど振動を感じていた。
「本当に、困ったお方」
嫋やかで艶のある声が、体を包み込むようだった。
その声音にぼんやりしていると、すっと御簾が上げられる。
それと同時に中に引き寄せられ、一瞬の後、俺は柔らかい胸に顔を埋めていた。
「色香を教えて差し上げるのは、歳上の役目。どうぞ、わたくしに全てお任せください」
な、なな、なんと素晴らしき申し出なのか。
これは現実?
いや、そうは言っても、後で色々言われると大変だしな。
父帝にも迷惑がかかってしまう、のかも?
心の中で自問自答、右往左往していると、両頬を彼女の手が覆う。
「まずは」
そう言って、綺麗な相貌が近づいて来た。
薄い桜貝のような唇が、俺の口を覆う。
これが、キス!
いや、ちょっと前に怨霊らしきモノとはキスしたんだけどね。
人とは初めてだから、しっかり堪能したい。
はあぁ、唇って柔らかくてほんのり冷たい……
そんな事をぼんやり考えていたせいで、深く入ってこようとする舌をどうしていいのか分からず、結果拒んでしまった。
良いのか悪いのかも分からないまま、相手のなすがままになっている。
何をどうしていいのか考えもつかないまま、いつの間にか俺は押し倒されていた。
頬を啄まれるようにして、何度も唇が落とされる。
耳の後ろにキスされて、背筋がぞくっとした。
それが興奮からくるものなのか、嫌悪からくるものなのかも判断できないまま、御息所の手は俺の着物を剥いでいく。
ただ、唇が触れた場所からじんとした痺れが生まれ、麻痺していくようにも感じる。
上半身が半分ほど顕になった頃、その舌は俺の鎖骨あたりを這っていた。
やばい、このまま行くと、胸に舌が這う事になる。
そんなことになったら、どうなっちゃうんだ!
興奮なのか恐怖なのかも分からない、未知の感覚が俺を襲っている。
俺の両脇に手をついていた彼女が、ふいに上体を起こして俺の顔を覗き込んできた。
「気持ち、良いでしょうか」
不安気に聞くその表情は愛らしくもあり、妖艶でもあった。
「はい……」
暑い吐息を吐きながら、辛うじてそう言った俺に、満足気な微笑みが返ってくる。
彼女は何も言わないまま、再度俺の唇を塞ぐ。
そして、頬に口づけ、耳に口づけ、そのまま舌を這わせて首筋に……
「きゃああぁぁぁあ!!」
弾かれるような音と供に上がる悲鳴。
何だ?
何が起きたのか分からないまま、俺は上体を起こして相手を見た。
顔の右を手で隠すようにした御息所が、恐怖の眼差しをこちらに向けていた。
「おのれ……おのれ、よくも!」
その眼差しは恐怖から怒りに変わる。
手で覆われた右の顔が爛れているのが分かったが、何がどうしてそうなったのかは不明だ。
「ああぁ!痛い、痛い、痛いぃ!」
苦悶の合間にこちらを見るその目が、怒りと憎悪に満ちていた。
まだ人の形状を保っているが、これは俺が知る限り怨霊パターンだ。
前回の逃げられない状況とは違い、外には惟光が車と共に待機している。
このまま祓った方がいいのか?
いや、でも万が一人間だったら?呪われているだけ、とか。
しばし自問自答したが、前回と同じような力を簡単に発揮できる自信もないし、夢見心地からの落差が激しくショックが尾を引いている。
結果、乱れた服をそのままに、慌ててその場から立ち去った。




