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花散里と出会うまで  作者: 堀戸 江西
24/81

〜24〜愛人邸にて

一区画ほど先の目的地には、思ったより早くついた。

ただ、愛人宅とはいっても俺にそんな記憶はない。

名も知らぬ、見たこともない愛人と楽しく過ごせるとは思えない。

ラッキーと割り切れる性格でも無ければ、喜んで飛びつくほど経験もない。

正妻と別れてくれとか言われたら、どうしたらいいんだ?

まだ見ぬ妻と、今から初対面の愛人との板挟みを想像して、どんよりとした気分だった。

「いつもより遅いので、御息所(みやすどころ)采葛(さいかつ)の心境でお待ちですよ」

ちょっと待って、惟光(これみつ)。いつにも増して意味不明です。どこの場所の話だ。休憩所とか?

「御息所?」

単語の説明があればわかる気がしたので、意味不明の2つを聞こうと思った。

「御息所は帝の寵愛を受けた方や、子を成した方の事です。ここ、六条には前東宮(とうぐう)のお妃様である方がお住まいで、若様はこちらに学問の手解きを受けにこられていましたが……覚えておられないのですか?」

不安気な惟光の視線に、素直に覚えていないと答えた。

「前東宮って確か……」

確か、父帝の弟だったはず。

それなら前東宮は俺の叔父にあたる人となる。

え?妃?

叔父さんの奥さんに、勉強を教えてもらっている?

まあ、それならあり得ない話ではないが、その人が愛人?

いやいや、血の気が引くわ!

なんだそれは。

「采葛ってのは?」

一縷の望みをかけるように、もう1つの疑問を投げかける。

「詩経の一部ですよ。葛を……まあ、会えない日々は長く感じるって詩です」

なんか、教養として読まなければならない物の中に、そんなタイトルあったな。

漢詩だったような気がする。書く練習の時に使ったやつかも。

「会えない日々ね……」

期待した内容ではなかった為、少し肩を落としながら呟いた。それを受けた惟光は頷いて言う。

「一日三秋ですね」

采葛ってのに載っている言葉だろうか。一日が3回の秋を隔てたように長い、みたいな漢詩をうっすら覚えている。

と、なると……どれほど通っていないのだろう。

少なくとも、春から夏にかけての間に行った記憶はない。

もしかして読んでない文の中に、来てほしいなんて内容のものがあったのだろうか。

最近でこそ、なんとなく歌の意味……その奥に隠された意図を、感じ取る事ができる様になってきたが、分からず読み流している可能性だってある。

風流だなぁ、センスあるなぁ、凄いなぁ、なんて思いながら、そのまま折り畳んだ文が幾つも頭を過ぎる。

しかも、惟光が行けと言うって事は、そろそろヤバいって事なんじゃないかと思った。

俺はゴクリと息を飲み込むと、小さく頷いて気合を入れた。










六条の屋敷には、御簾(みす)越しでも気品が香ってきそうな女性が待っていた。

気安く話しかけたら怒られるんじゃないかと思うほどだ。

俺なんかじゃ相手にしてもらえない、大人の気品みたいなものを感じる。

こちらから見える範囲では、顔の微細な表情はわからず、年齢の想像もつかないが。

ただ、その佇まい、所作などからそう感じたのだ。

もっというと、いかにも経験豊富でオレなんて片手で捻られそう。いや、鼻で笑われそう?

だからじゃないけど、かなり緊張しながら、沈黙に耐えていた。

さすがにこんな場所にまで惟光はついてこれないし、助言してもらえない俺は何をどうしていいのかわからない。どちらから声をかけるのが礼儀なのかも分からず、相手の出方を見ているのだが、先ほどから動きがない。

どうしよう。困った。

心の中で泣きそうになりながら、ただじっと座っている。



リーン……



涼しげな虫の声が耳に入ってきた。昼間はまだ蝉がけたたましく鳴いているのに、もう秋の虫が鳴いているのかと思い、庭に目を走らせる。

惟光の家や、惟光実家西隣の夕顔が生い茂る家を思い出すと、ここは非常に丁寧に整えられていた。

庭の良し悪しは分からないが、広さや配置、造作などを見るに、かなりセンスあると言っても良いのではなかろうか。

そして、お金持ちだ。

そんな感想を現実逃避しながら考えられるほどの長い沈黙。

顔の見えない、見知らぬ人物との間に続く沈黙が心地よいはずもなく、ただ虫の声を聞いているような風を装って扇を開き目を閉じた。

こちらから声をかけるべきかとも思ったが、失礼な発言をしてしまうかもしれないし、覚えていない事で相手を傷付けるのも嫌だしと考えて、結局何も言えないでいる。

目を開けてじっと御簾の向こうを見てみたが、あちらは開いた扇で顔をほとんど隠している。

愛人でも御簾越しに対面するものなのか。

どうやって愛を囁き合うんだ、この距離で……

そう思って見ていると、少しだけ扇が移動した。それでも鼻から下を扇で隠している名前も知らないこの人もまた、俺をじっと見つめている気がした。

御簾越しなので、確かではないのだが。

「おとなしくされておりますね。何か思うところがおありですか?」

そう問われても、何を返して良いのか分からない。

冷や汗をかきながら、返答の言葉を絞り出す。

「経験に乏しいもので、未だ緊張がとれないのです」

「素敵な奥方がおられるというのに、経験がないなど、誰も信じませんよ」

どう答えていいのか分からず、御簾の向こうの人をじっと見つめた。

見つめる事しばし、ほうっとため息のような音が漏れ聞こえた。

「では、あの噂は本当だったのですね」

ん?噂ってなんだ?

「夫婦仲は冷え切っていると……口さがない人の言う事です。お気になさらぬよう」

そう言って御息所とやらは指先を揃えて、御簾の下から少し出してきた。

これは何のサイン?

手を取れ、と言う事だろうか。

『色気はさ、やっぱ経験ないと出ないだろ』

う、師匠かな。

巻毛のイケメンに、ニヤニヤしながらこんな事を言われたんだ。

あれ?なんか記憶が少し戻って来ている?

他の会話も思い出せそうだ。

『光源氏に選ばれたんだよ』

『はい?』

『光、男前じゃん!色気ねぇけど』

『いや、褒めたら落とさないで』

『名前も光だしな』

『あの、さっぱり話が見えないんですが……』

え?光源氏?

俺が?

いや、無理ムリむり!

直接手を握る勇気すらない俺が?

色気って、色気って何?

どうやったら身につくのか!

「源氏の君?」

はっと御簾の向こうに意識を向ける。

扇を少し開いて口元を隠す。ややあって、その扇を目元まで引き上げて口を開いた。

「私などでは、何をどうしていいのやら」

戸惑いを素直に口に出してみた。

会話が簡単ではないため、言い訳すら即座には思いつかない。逆にそのせいで口数が少なくなり、余裕があるように……見えないかな。

御簾の下から、ちょこっとだけ出ていた手が、するっと伸びて俺の膝に置かれる。

どきんと、大きく心臓が跳ねた。

勇気を出して、その手にそっと触れてみる。

伸ばされた手は両手となり、俺の手を包むようにして持ち上げた。

次いで、ぐいっと引き寄せるような力。

ぼすんとカッコ悪い音を立てて俺の頬が御簾に当たり、相手の動きも止まった。

ど、どうしよう。

経験ないと出ない色気を、実践でどうせよと言うのか。

それともこれから、経験する事になるのか?

心臓が破裂しそうなほど振動を感じていた。

「本当に、困ったお方」

(たお)やかで艶のある声が、体を包み込むようだった。

その声音(こわね)にぼんやりしていると、すっと御簾が上げられる。

それと同時に中に引き寄せられ、一瞬の後、俺は柔らかい胸に顔を埋めていた。

「色香を教えて差し上げるのは、歳上の役目。どうぞ、わたくしに全てお任せください」

な、なな、なんと素晴らしき申し出なのか。

これは現実?

いや、そうは言っても、後で色々言われると大変だしな。

父帝にも迷惑がかかってしまう、のかも?

心の中で自問自答、右往左往していると、両頬を彼女の手が覆う。

「まずは」

そう言って、綺麗な相貌が近づいて来た。

薄い桜貝のような唇が、俺の口を覆う。

これが、キス!

いや、ちょっと前に怨霊らしきモノとはキスしたんだけどね。

人とは初めてだから、しっかり堪能したい。

はあぁ、唇って柔らかくてほんのり冷たい……

そんな事をぼんやり考えていたせいで、深く入ってこようとする舌をどうしていいのか分からず、結果拒んでしまった。

良いのか悪いのかも分からないまま、相手のなすがままになっている。

何をどうしていいのか考えもつかないまま、いつの間にか俺は押し倒されていた。

頬を啄まれるようにして、何度も唇が落とされる。

耳の後ろにキスされて、背筋がぞくっとした。

それが興奮からくるものなのか、嫌悪からくるものなのかも判断できないまま、御息所の手は俺の着物を剥いでいく。

ただ、唇が触れた場所からじんとした痺れが生まれ、麻痺していくようにも感じる。

上半身が半分ほど顕になった頃、その舌は俺の鎖骨あたりを這っていた。

やばい、このまま行くと、胸に舌が這う事になる。

そんなことになったら、どうなっちゃうんだ!

興奮なのか恐怖なのかも分からない、未知の感覚が俺を襲っている。

俺の両脇に手をついていた彼女が、ふいに上体を起こして俺の顔を覗き込んできた。

「気持ち、良いでしょうか」

不安気に聞くその表情は愛らしくもあり、妖艶でもあった。

「はい……」

暑い吐息を吐きながら、辛うじてそう言った俺に、満足気な微笑みが返ってくる。

彼女は何も言わないまま、再度俺の唇を塞ぐ。

そして、頬に口づけ、耳に口づけ、そのまま舌を這わせて首筋に……

「きゃああぁぁぁあ!!」

弾かれるような音と供に上がる悲鳴。

何だ?

何が起きたのか分からないまま、俺は上体を起こして相手を見た。

顔の右を手で隠すようにした御息所が、恐怖の眼差しをこちらに向けていた。

「おのれ……おのれ、よくも!」

その眼差しは恐怖から怒りに変わる。

手で覆われた右の顔が(ただ)れているのが分かったが、何がどうしてそうなったのかは不明だ。

「ああぁ!痛い、痛い、痛いぃ!」

苦悶の合間にこちらを見るその目が、怒りと憎悪に満ちていた。

まだ人の形状を保っているが、これは俺が知る限り怨霊パターンだ。

前回の逃げられない状況とは違い、外には惟光が車と共に待機している。

このまま祓った方がいいのか?

いや、でも万が一人間だったら?呪われているだけ、とか。

しばし自問自答したが、前回と同じような力を簡単に発揮できる自信もないし、夢見心地からの落差が激しくショックが尾を引いている。

結果、乱れた服をそのままに、慌ててその場から立ち去った。

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