〜18〜先輩と葵
数時間後、俺は従者に起こされて紀伊守邸を後にしていた。
東の空ですら暗い時間帯である。
まだ夜中じゃねえかと愚痴ったが、従者は朝だと言い張って出立になったのだ。
暗いうちにそそくさと帰っていくこの感じ。なんだが様々なことに失敗したようでヤダ。
チキショ〜
とにかく帰って惟光に報告だ。
そう思ったのに、惟光は実家から戻ってなかった。
実母の見舞いだし文句も言えない。
ましてや大病を患ってるとなれば、俺の残念な報告など塵に等しい。
「う〜むむむ」
どかっと座り込んで今後の事を考える。
俺は腹の後ろに感じている、引っ張られるような感覚に意識を向けた。
「この感じだと、本当にそろそろだな。今晩か、明日の朝には……」
自分の意思で戻れないのだから、この機会を逃すと面倒だ。先輩かどうか、なんとしても確認しないと。
惟光がいなくても、なんとかしなければ。
胡座に頬杖の体制でじっと考えてる。不動の彫刻のように固まっていたのがいけなかったのか、俺はいつの間にか眠りに落ちていた。
***
「あのー、聞こえてますか?大丈夫ですか?」
学生服の男女がいた。女子学生が電柱に声をかけ、男子学生は不思議そうな顔をしてそれを見ている。
「え、先輩。その人どこにいるんですか?」
不思議そうな顔をした男子学生をどこかで見たことがある。
えっと、どこだっけ。
俺が頭を捻って考えていると、女子学生が男子学生を振り返って言う。
「光くん、目、悪かったっけ?暗くて見えないのかな」
あ、そうか。
あれ、俺だ。
格好が違うだけで気がつかないなんて、我事ながら恐ろしい。
ん?
って事は、この人が探している先輩?
その後ろ姿は、髪が肩下まである。
もちろん顔は見えないから、確認しようがない。
目の前の学生服の俺は目を擦って、何かをよく見ようと電柱に向かう。
俺もつられるようにして見ていると、黒い塊があるのに気が付いた。
学生服の俺が言う。
「先輩には、何が見えてるんですか?」
「着物の女の人。苦しそうだよね」
俺が先輩に問いかけているのを、別人の視野のように見ている変な夢だった。
「もしかしたら着物レンタルした外国の人かな?着慣れなくて苦しくなっちゃったとか」
「外国のかた、なんですか?」
「ウィッグだからそうかなって。言葉も通じていないのかも」
その会話、どこかでしたような気がする。
どこだったか。
「そこから離れろ!」
突然あがった声に驚き、学生服の2人を見た。
女子学生が驚きの表情で、何かを防ごうと手を翳している。
しかし次の瞬間、女子学生の姿がどろりと溶けていく。
「何だ、これ」
見ている俺は女子学生に手を伸ばそうとしたが、足が縫い付けられたようにその場から動くことができない。
斜め前にいる俺は、訳がわかっていないのかぼんやりと突っ立っている。
どうする事もできないままその場面を見ていると、先輩らしき女子学生の姿が消え、同じ学生服が現れた。
でも、それは別人だ。
「え?葵?」
口から勝手に出た言葉。現れたのは葵だ。葵が誰かわからないけど、あれは先輩ではなく【葵】だ。
「葵、どうしてここにいるんだ。葵、葵!」
足以外は動くようで、俺はいつの間にか手を前に出しながら叫んでいた。
白み始めた景色。遠ざかっていく葵。
消えた先輩。
俺の意識は急激に浮上を始めた。
「……ま、若……ま。若様!」
「はい!」
はっと顔をあげると、心配そうな惟光の顔があった。
「あ……」
夢だ。でも、きっと一部は現実に起こったことだ。
「葵……」
「恋しいのですか?」
「え?あ、ああ。いや……葵って誰だっけ」
自問のつもりだったが、惟光から回答が来る。
「まさか、そこもお忘れだったのですね。北の御方ですよ」
「え?」
「ですから、左大臣家の姫の事でしょう?」
「ええ?」
「何を驚いて……って、若様。もしや記憶がさらに失われておられるのでは?昨日の事は覚えて……」
蒼白になった惟光の顔を見ながら、首を横に振った。
「それはさすがに大丈夫」
惟光は心配そうな顔をしていたが、自分の妻に未だ会えていないなんて、とても言えなかった。これ以上【葵】の話題は避けるべきだと判断して、他の話題に切り替える。
「ところで惟光、帚木って何」
「お渡しした歌の帚木ですか?」
頷きながら、持ってきた返歌を渡す。
カサカサと開き読んだ惟光。ははっと笑って紙を返してきた。
「謙遜を上手に使った断り文句ですね」
はは、じゃねぇ。
「帚木って何よ」
「近づくと見えなくなると言われている伝説の木です」
じゃあ、やっぱり渡した歌って、恨み言じゃねーか。
返歌もやっぱり想像通りだし。完全拒否の構えだ。
「でも、朗報ですよ」
惟光はずいっと近寄って声を落とす。悪巧みを話す時のトーンだ。
「小君からの知らせによりますと、紀伊守が今夜から任国へ下るそうです。しばらくあのお屋敷には戻らないとの事です」
「それを、あの子が伝えてきたのか?」
「はい。よほどお役に立ちたいのでしょうね。小君が自身の牛車で迎えに来るようですよ」
そこまでしてくれるのか。よほど落ち込んでいるように見えたのか、なんだか悪い気もするな。
「あんな小さい子がそんなことまで」
そう言うと惟光は首を少しだけ横に倒す。
「そうですか?若様が元服なさった頃は、もう少し、いや、かなりしっかりしてましたけどね」
え?
元服って成人式みたいなやつだよね?
んん?
「俺の元服って何歳?」
「12です」
「小君って……」
「それくらいのお歳でしょう?」
ええ!
やばい。5歳くらいに思ってた。
え?なんか俺の目にフィルターでもかかってる?
ま、まあそれでもまだ子供には違いないが。
「ですから若様、お召し物ももう少し軽装になさいませ」
そう言った惟光は狩衣を手に持っていた。
陽がずいぶん傾いてから、迎えはやってきた。
手早く着替えされられた俺は、いつの間にか暮れた空を見ながら小君の牛車に乗り込む。
あまり遅くなっては、門に鍵がかかるのではないかと不安になってきたが、なんとか無事に辿り着いたようだ。
人目のない場所に牛車を止めたので、なるべく音を立てないように車から降りた。
陽が暮れてしまったので、屋敷の中にも薄墨のような闇が広がっている。
足音を立てぬよう着いて行くと、止まるような身振りで小君が振り向いた。
「やっぱり見えない……」
思わず呟いてしまう。
背も低いし、手はぷくぷくしてるし。
ま、確かに5歳にしてはしっかりしているが、12歳にはとても見えない。
張り切って先導している姿は微笑ましく、スパイごっこをしているみたいで、なんだかほっこりする。
そんな俺の心情など知らぬ小君は、小さく頷くと1人で先に進む。
先の方にほんのりと漏れた光。暗闇から様子を覗くと、宿直人……守衛の夜番がいるようだった。
小君が通り過ぎると、興味を失ったように顔を背けた宿直人。声をかけられる事もないようだ。
やっぱり子供だからじゃないのかな?
家の子だからかも。どちらにせよ、好都合とばかりその場を通り過ぎる。
やがて立ち止まった小君は、両開きの扉を開けて目配せしてくる。
ここで待てという事だろうか。
小さい子が奔走する姿を見ているのは少し心苦しいが、俺にできる事は何もない。
今は小君を信じて待つより方法がないと諦め、気付かれぬようそっと息を漏らした。
空が見える。
軒先のような場所で闇に紛れて立つのも、なかなか大変だ。月明かりで姿が見えるんじゃないかとヒヤヒヤする。
月は中天に掛かろうとしている。今、夜の中では一番明るい。
月を左前に感じながら小君の様子を伺っていると、大きく迂回しているのが目に映った。
南の隅から格子戸を叩き、中に声をかけている。格子戸を引き上げた小君は、それを閉めずに中へ入っていく。
中からは丸見えだと避難めいた声が聞こえて来たが、小君は暑いと反論して、なぜ開けてはいけないのかと理由まで尋ねている。
「西の対の姫様がお見えで、姉上と碁を打っておられるのです」
「それで閉め切っていたんだね」
先輩かもしれない人と、もう一人女性がいるって事か。
ここから顔、見えるかな。確認できたらいいな。
そう思った俺は、月明かりに気をつけながら近寄って行く。
簾が下ろされているので、そっと隙間を見つけて体を滑り込ませる。
「屏風……」
一瞬、そのせいで中が見えないのではと思ったが、全くそんな事はなかった。
屏風のおかげで、こちらがうまい具合に隠されている。
その屏風は端が畳まれていた。小君が通った時に、ついでに畳んだのだろうか?
目隠しのための几帳も、暑さのせいか風通しをよくするため、端の方が捲り上げられていた。
パチリ
碁を打つ音が闇世に溶ける。