〜15〜太ももへの取り継ぎ方法
「ふう」
長いようで短い夜が明けた。左から登りつつある朝日をぼんやり見ながら、出立の用意ができるのを待っている。催馬楽の話題で脳裏に現れた男子部員の事を、ふいに思い出した。
「…………」
エロ先輩ってことは、何かの先輩だよな。俺が探している先輩と同じカテゴリーの人なのかな。
俺、なんか部活やってたっけ?
男子部員ってことは、何かの部活の先輩っぽいんだが。
う〜ん、と唸りたいのを堪えつつ思考を巡らせるが、今は思い出せそうになかった。
欄干に手を置くと小さく漏れる溜息。ふと右に立てかけてある、障子造りの衝立の向こう側から、数人の声が聞こえてくる。
「朝日に透けて見えますわよ」
「なんて美しいお姿なのかしら」
「本当ね、滅多にないことですもの。今のうちに堪能させていただきましょう」
どこかから女達の囁き声。
「…………」
これって、覗かれている?
しかも会話、全部聞こえてますけど?
こうなると身動ぎひとつできない。
「わたしを抱いてくださらないかしら」
「あら、それならあたしの方が」
「いいえ、私なら楽しませてあげられますわ」
うおぉ、なんて凄い会話をしているんだ、こんな爽やかな朝に。
顔見せてよ、こっちにきて。
そわそわしているのを気取られぬよう、ますます固まっていると従者の一人が俺を呼びにきた。
どんな人たちが噂していたのか、ちらりと振り返って確認したものの、格子のせいでほとんど見えない。後ろ髪を引かれつつ、そのまま牛車に乗りこんだ。
久しぶりに見る二条の屋敷。そこにはずっと会いたかった人物がいた。
「おかえりなさいませ」
人目があるので飛びつきたいのを我慢し、着替えやらなんやら終えるのを待つ。やがて空気を読んだ惟光が人払いをしてくれて、ようやく2人になれた。
「会いたかった!惟光〜」
「わわ、若様!」
俺に飛びつかれて体制を崩す惟光。
「昨日の方違で何かあったのですか?」
「方違?」
「こちらの屋敷が方塞がりでしたので、一度違うところに行って頂く必要があったのです。陰陽道の一種ですよ。中神様と同じ方向に移動して、若様に天罰がくだったら大変ですし」
そうそう、これこれ。このきちんとした説明が欲しかったんだ。
ああ、会話が思うように進む喜び。
惟光は俺の安堵からくる笑みを、にやけた思い出し笑いと捉えたのか、
「また、恋人を増やしてきたのですか?」
そうニヤニヤしながら聞いてくる。
俺はそれに首を横に振って答えた。
「顔も見れなかったよ」
「どのような状況だったのですか?」
俺はかいつまんで昨日の事を惟光に話して聞かせた。俺が人を探している事は説明しようがないので、人妻に懸想した事にしておいた。いや、誘ってきたのはあっちかもしれないのだが……
ふいに思い出す太ももの感触。
うっすら笑っていたのか、惟光が気味悪そうにこちらを見る。
「本当に何もしていないのですか?今の顔はいい事を思い出していた時の顔ですよ」
うるせっ。
心の中で突っ込んで、顔を改める。
「まあ、とにかくその人と連絡が取りたいってことですよね」
「うん、頼めるかな」
「そうですね……では、紀伊守を呼んでみましょう」
「ここに?」
「はい」
惟光、やっぱり頼りになる奴だ!
「では、手配しますので明日も左大臣邸へ向かってくださいね」
「え、なんで?」
「方違で逗留した先で、何かやましい事があったと思われてはいけませんから」
本当にできた奴。
「惟光」
「はい」
「困ったことがあったら、何でも言ってくれ!」
俺にできる事は少ないけど、こんなに助けてもらっている恩返しがしたいと思った。
「は、はあ。では、困ったことが起きましたらご相談致します」
そうしてくれと、満面の笑みで大きく頷いた。
翌日、俺は仕事終わりに惟光の言いつけ通り、左大臣邸へ来ていた。
どうせなら妻と対面して話しをしたいのだが、今日も会えないようだ。
ここにいる妻が先輩である可能性は低いような気もするが、一度も確認していないため絶対ではない。むしろ積極的に接触してこないのは、怨霊ではない証のように感じている。それなら、救出対象なのかも?
先輩のように閉じ込められた女性だったとしたら、見知らぬ場所で俺みたいに目が覚めて、今から婿が通ってくるから相手しろと言われたら怖いよな。
「……でも、まだ先輩の可能性もあるか。顔見てないし」
俺は男だし、構ってくる相手が女性の場合、そこまで恐怖を感じない。
……相手が怨霊の場合を除くが。
それに記憶の片隅ではあるが師匠がいるので、怨霊を祓う力を持っている……と思う。
しかし先輩にそんな力はないし、記憶を失っていたとしても、突然夫がいると言われて納得するかな。何らかの違和感を感じたのだとすると、警戒するのは当然だ。
先輩が未経験かどうかは知らないが、見知らぬ男に体を預けるほど奔放な性格ではなかったはず。これも思い出していないので確証はないが。
そこまで考えて疑問が浮かぶ。
「体か……」
ここにいるのは俺の全部?それとも一部?
でも、この思いついた疑問こそが、全部がここにないって事じゃないかと思った。
それなら、ここで初体験を迎えた場合、戻った時はどうなるんだろう?
肉体って、今どんな状態?
…………。
分からん。
分からんが、俺はともかく先輩は女だし、肉体的になんともなくても、精神的にショックを受けるかもしれない。そうか、早く見つけないといけないような気がしていたのは、これかもしれないな。見知らぬ男の毒牙にかからぬよう、急いで見つけないと!
決意も新たにしたところで、惟光からの迎えが来た。
俺は左大臣邸を後にして、会えなかった妻を少しだけ思いつつ二条の屋敷へ戻る。
二条邸には、惟光の手配ですでに紀伊守が来ていた。
ついと紀伊守と対面してみると、継母の事を聞く言い訳をまったく考えていない事に気がついた。言い淀んでいると、惟光が代弁してくれる。
「母君の弟であらせられる、小君の件でお呼びいたしました。実の父君が身罷られて出仕の夢が潰えた事を、若君が大変心を痛めておられます」
小君って誰?
あ、もしかして、あの小さい子?
これは後で惟光に確認したのだが、小君と言うのは貴族の少年に対していう愛称のようなものなのだとか。
坊ちゃん、みたいな感じかな。
なるほど、そうきたか。
俺は惟光の言い分に感心し、大きく頷いて同意のように見せた。
かなり上手い口実だな。あの子……小君は太ももの人の弟だし、一緒の部屋に寝るほど距離も近しい。
例えるなら女湯に入っていく男の子だな!
「よろしいのですか?」
紀伊守が不安げに尋ねる。
惟光がこちらに紙を渡してきた。素早く目を通すと、記載された内容をそのまま告げた。
「わたしの側使えにと思ってね。大変可愛らしい子だし、側にいれば帝の目にも」
そこで紀伊守が感嘆の声を漏らす。後半は惟光が引き取って繋いだ。
「こちらの若君から、主上へ殿上童に推薦してくださるやもしれません」
「なんと畏れ多きお言葉。かの者の姉にも申し伝えましょう」
やっぱり、あの子の保護者は姉になるのか。
惟光はふと疑問に思った様な素振りで、紀伊守に問いかける。
「その姉君というのは、もうお子を授かっておられるのか?そうすると、貴殿の弟になるのでしょうが」
「いいえ。まぁ、年齢差もかなりありますし、継母は元々宮仕えの為に教育を受けていたと聞いております。亡き親の意向と現状が、大きく違うのを戸惑っておいでなのでしょう」
親の力って本当に偉大なんだな。俺がしみじみそう思っていると、惟光もまたしみじみとした声色で言う。
「気の毒な事ですね。若君に伺った事ですが、紀伊守の継母様はかなり評判になったお方なのだとか。さぞかしお美しいのでしょうね」
「え、ええ。まあ、悪くはありません。ただ、わたしとは歳が近いものですから、あまり親しく見えない様配慮しております。変な噂になっても困りますので」
確かになあ。じゃあ、今回の事はどうやって伝えるつもりだろう。
そう思ってじっと紀伊守を観察する。
目が泳いでいた。
あ、こいつは下心ありだなと思いつつ、訝しげな表情を作って見つめた。
それなら、こいつに伝言を頼むのは危険ではなかろうか。これをチャンスに動かれたらどうしよう。
そんな不安から、太ももの感触を思い出す。あの太ももを、この目の前の男が……などと、いけない妄想が暴走しそうだったので、慌てて自分の考えを振り払った。
信じて待つより他に手はないのだと、言い聞かせながら。