〜14〜闇夜の太もも
遭遇した気配が後ろからついてくる。彼女の従者だとしたら、心配で堪らないのだろう。
でも、この人が先輩だった場合、元の場所に戻れるまで俺が守らなきゃいけない。従者といえど、怨霊の可能性だってあるんだし。
それに一緒にいなければ、連れ戻る事ができない。それが出来なければ、ここにいる意味もなくなってしまう。
だから、けっして、けっっして、太ももの感触に負けたワケではない。
手に柔らかい肌を感じつつ、自分にそう言い聞かせると、従者らしき人物の気配を無視して明かりの方へ向かった。
光の漏れる襖を、彼女を抱いたまま開けるのは少し大変だったけど、人が通れるくらいになった。先に進もうと片足を出した瞬間、抱えた女性から言葉が発せられた。
「暁のころ、迎えにきなさい」
従者に言ったようだ。背後の気配が遠のく。
どきん、と大きく脈打つ心臓。
これって間接的に朝まで一緒に過ごそうって言ったんだ。
えぇ!
もしこの人が先輩だったら、朝まで我慢できる自信がない。
いや、先輩でなくても……
先ほどより少し明るい部屋で、俺は女性をそっと下ろす。その間にも、女性は衣で顔を隠していて、頭髪と額以外の確認ができない。
「あの、お顔を見せてくださいませんか」
「これは、現実のことですか?」
か細い声がそう答える。顔は隠したままだ。
そうだと答えようとした俺は、その言葉を飲みこんだ。
現実とは何をさすのだろう?ここは現実の世界?いや、俺は現代人だから違ったはず。
しかしどう違うか説明できるほど、俺も理解できていない。
分かっているのは、先輩を連れて帰らないといけないって事くらいだ。それをどう説明したものか。しばし悩んでいると、布越しのくぐもった声。
「身分が低いと思って、自由にできるとお考えですか?軽い女とでも思っておられるのですね」
ええ!
「ご、誤解です」
「それとも、身分が低ければ、その意思を無視して体を自由にできるとでも?手慣れておられますもの、きっと何度もこのような事をなさっているのですね」
あまりの言葉に俺は思わず、言い訳のような事を口にしていた。
「身分の事など考えておりませんし、このような経験もありません」
こんな裸同然の女性を抱えて閉じこもるなんて楽しい経験、あるわけない!
「いいえ、噂で聞いておりますわ」
なんの噂なのか!
未経験の俺の噂など、嘘に決まっている。
これにはさすがにちょっとむっとした。
「噂を鵜呑みにして責めるなんて、随分酷い事を言いますね」
そう言ってから、中納言の君と中務の顔が脳裏を過ぎる。いやいや、あれは彼女たちの戯れ。
俺の意思ではない。
勝手に気まずくなって彼女を見ると、未だうずくまったまま顔を隠している。顔を隠すために布を使用しているのはいいとして、その布は肩から腰の微妙なラインを隠していない。
頭隠して尻隠さずにかなり近い。
細い肩、脇の下からチラリと見える乳房の下ライン、きゅっとくびれた滑らかそうな腰。豊かな髪に見え隠れしているお尻。
やっぱり裸。
どう見ても裸。
暗くてもわかるレベルの裸。
チラチラ目が行ってしまうのは仕方がない。相手が顔を隠しているおかげで、チラ見はバレていないが。
「軽薄なのですね」
どきっ!バレてる?
「酷い」
そう呟くように言うと、女性は肩を震わせて泣き始めた。
「顔を見せてください。人違いならすぐにでも退室しますから」
俺は懇願するように膝をついて、彼女の泣いている肩に手を置きかけ、それが素肌である事に気がついて躊躇う。
「人妻でなければその胸に飛び込んで、すべてを委ねてしまいたいのに……あぁ……」
「え?」
「だけど、こんな身分の低い男に嫁いでしまった私を、あなたがこの先愛することはないでしょう。それならいっそ、この契りを忘れてくださいませ」
契り?
約束のこと?
それとも男女の……
いや、まだ何もしてないし!
それとも想像しただけでやっちゃった事になってんの?
「一夜限りの逢瀬など、先々辛くなるばかり。それならいっそ、忘れてください」
そう言ってしくしく泣く。
牽制しているのだろうか。俺はようやく会話が微妙に噛み合っていないと感じ始めた。それでも、顔を確認するまでは諦めきれない。
先輩である可能性は低いような気もするのだが、なぜかこの人を助けねばならないと感じていた。だからと言って、泣き続ける女性の手を掴んで、無理に顔を見ることもできない。
まあ、そもそも手を取ると衣が落ちそうだしね。
……それはそれで良いかもしれないが、叫ばれると面倒かも。
う〜ん、でもどうするかなあ。
自宅でもないここに、そんな頻繁に来れるとは思えないし。
あれこれ考えていると、夜明けを告げる鳥の声が遠くに響いた。
え、早くない?
いや、空耳かも。
でも、なんか色々焦ったりして、わりと時間使っていたのかも。
こんなところを見られたら、さすがに拙いだろう。
どうしようかと心中で慌てるも、表情には出さずにいると男の声がちらほら聞こえ始める。
空耳じゃなかった。
俺の従者達だ。
遠くに「御車ひき出でよ」と聞こえるので、帰り支度をしているのだろう。
戻らないと!
でも、この泣いている人をこのままにして良いのだろうか。
迷っていると紀伊守の声まで聞こえてくる。早朝過ぎるからもうちょっとゆっくりして行けと言っているようだ。
逆にここから出て紀伊守に遭遇したら、それはそれで気まずくない?
裸の義母と上司みたいな俺が同じ部屋にいたのだと知ったら、顔面蒼白もんだよな。
どうしようと、自分もやや顔面蒼白気味で考えていると、扉が薄く開かれる。
やばい!
そう思ったが素早く動く事などできず、恐々そちらを見る。
逆光のため見えにくかったが、女房らしき人物がこちらの様子を伺っていた。
「中将?」
小さく問うと、頷きが返ってきた。こちらから出ろと言いたいのかもしれない。
俺はその女房に大きく頷いて、まだ泣いている女性にそっと声をかけた。
「今日のところは帰ります。もし、わたしの助けが必要ならお知らせください。あなたがわたしの探し人でなくても、きっと力になってみせます」
先輩であってもなくても、助けねばと思ったのだからそう口にした。
確認なんてできなくても助けを求めるのなら、全力で手を差し伸べたい。
いらぬお世話になるのは本意ではないから、選択権は相手に委ねた。
そして立ち上がったところで、女性から声が漏れる。
「つれなきを恨みも果てぬしののめに、とりあへぬまでおどろかすらむ」
うわ、和歌だ。
え〜っと、つれないあなたに恨み言も言えないまま夜が明けちゃったって事?
鳥までもが鳴いて起こすって意味かな。自信ないけど。
俺がつれないとは失礼な。
そして自信ない解釈の歌に、返歌とかできなんだけど。
「と言う心情ですか?」
え?
はい?
…………えっと、俺の気持ちを歌ってくれたの?
じゃあ、とりあえず頷いておこうかな。
恨み言まで口に出した覚えはないけれど、意思疎通のできないまま夜が明けたのは間違いない。さっきから、鳥の声もうるさくて、早く帰れと言われているようだし。
俺は諦めたように溜息を落とし、中将の方へ足を向けた。
「身の憂さを嘆くにあかで明くる夜は、とり重ねてぞ音もなかれける」
背後から囁くように言われた和歌はほとんど聞き取れなかった。
まさか、自分で読んでもいない和歌への返歌だなんて、知る由もない。