〜13〜ふたりの中将
紀伊守の気配がなくなるのを待って、そっと目を開ける。静かに立ち上がってあたりを確認した。
北側のほうにある襖障子から、明かりがほんのりと漏れており、人の気配がする。
先輩を探しているという大義名分があっても、女性の寝ている場所に入っていくのは躊躇われた。扉を開ける勇気のない俺は、そっと聞き耳を立てる。
すると、子供の声が聞こえる。さきほどの子だろうか。
「……もし、どこにおられますか?」
あの子がいるのなら、入って行っても大丈夫かもしれない。そう思ったところで、返事をする声がある。
「ここで寝ていますよ」
どきんとした。
女性の声だ。聞いたことがある声だろうか?
そんな気もするし、違うような気もする。
「お客人はもうお休みでしょうか。寝所が近いとどうしようかと思っていましたが、遠いようでよかったわね」
ドキッとして息を殺し気配を消す。こんなに近くにいるって思っていないんだろうな。
先輩、かな?
聞けば聞くほど分からない。声は似ているような気がするのだが、完全に思い出したわけではないので、なんとも言えない。
「廂の方でお休みになっておられます。噂通り、とても美しい方でした」
ほとんど聞こえないが、そのような事を言っている。
「まあ、そう。昼でしたら除き見ましたのに……」
途切れがちで眠そうではある。
もしこの声の主が先輩だったら、覗き見てくれてよかった。そうしたら今すぐにでも入っていけるのに。
「それにしても、人が少なくて怖いわね。こんな時に、中将がいてくれたら」
そんな言葉が途切れがちに聞こえてくる。
え、俺?
思わず襖に手が伸びた。しかしその直後、俺は動きを止めた。
ひそひそと話す、他の女性の声が聞こえたからだ。さっきの子と先輩らしき女性以外にも、人がいる。うかつに動けるはずがなかった。
先ほどの子が動くような気配と、女性同士の小さな会話。声もそう遠くないが、声量が小さいのか聞き取り辛い。
襖を開ければ、すぐ近くにいるような気がして、確かめたい気持ちと違っていたらどうしようと思う気持ちの間で揺れていた。
いきなり入って行って叫ばれたらどうしよう。
いや、そもそもこの襖、開くのか?
襖には上から下ろすだけの細い金具が見えている。こちらにあるってことは、あちらにはないのかな?それとも、両側にあるのだろうか?
あれこれ迷っているうちに、屋敷は静けさで覆われていた。時々寝息のような音も聞こえるが、こちら側から聞こえるのか、あちら側から聞こえるのかも判然としない。
ごくりと自分の喉が鳴る。
なんだか悪い事をしているような気になるが、これは確認作業だと自分に言い聞かせて金具に手を伸ばした。
この金具を外しても襖が動かなかったら諦めよう。
そう思って、そっと金具を外した。そのまま襖を引くと、滑らかに動く。
ど、どうしよう。動いてしまった。
自分でやったことだが、少し焦りを覚えて中を見る。
几帳が建ててあるようで中は見えない。
しばし迷ったが、ここは意を決して中へ滑り込んだ。
「……っ!」
何かに躓き、危うくこけそうになった。よく見ると唐櫃と呼ばれている物入れだ。危ないなとは思ったが、暗いのだから仕方がない。足元に注意を払いつつ探る。
ほとんど何も見えないが、足に色々当たってくるので散らかっているのかも。
漏れ聞こえていた声から察するに、この辺りにいそうなのだが。
「中将……?」
唐突に声がして固まった。かなり近い。
「はい、中将です……。先輩?」
恐る恐るそう言うと、その顔を確認するべく近寄った。うつ伏せていたのか、黒かった場所にうっすらと白い肌が見える。しかし相貌までは見えない。それほどまでに暗かった。
俺はもっとよく見ようと近寄り膝をつく。
「まさか、あなたは……光君」
消え入りそうな声がそう言って、俺の顔に色白の手が添えられる。相手も見えないのだろう。ものすごく近くに気配がある。
「先輩?帰りましょう」
気のせいだろうか。探し人のような気がするのだが、それをどう確かめて良いのか分からない。
「そんな、人知れぬ思いだなんて」
ん?
そんな事言ってないけど。人知れぬ思いって、確か密かに好きだって事だよな?
俺を?それとも俺が?
この行為がそうなるってことかな。
その疑問を声に出す前に、白い手は俺の頬から離れる。目の前の女性は俺から顔を背け、一言、
「や」
と言って離れる。
そそとして伏しているが、それが慰めて欲しいように見えた。
や、って、惟光が前、何かに驚いた時も言っていたような。嫌、って意味じゃなくて、驚いただけなんだろうか。それとも、やっぱり拒絶だろうか。
「あの、先輩ですよね?」
顔もまだはっきり思い出せない先輩。でも、ここから助け出さなきゃいけない人。
「突然来られるなんて」
「それは、ごめんなさい」
なんと説明すれば良いのか。
「いささか軽薄な行動ではありませんか。長年、好いてくださっているのはわかりました。でも私は……いえ、でも、ああ、なんと……、なんと素晴らしい香りなのでしょう。荒ぶる鬼神すらも鎮めてしまわれるほどのお姿」
え?
俺の顔見えてるの?
俺はこの人、全然見えないんだけど。
それにもしやこれって、口説かれている?
「あの……」
戸惑って再度、先輩か確認しようと口を開くが、女性の声に遮られた。
「お人違いですわ……」
消え入りそうな声でそう言った女性は、俺の胸に飛び込んできた。
ぎゅっと胸元を掴んでいるが、その手は震えていた。
言葉と行動がチグハグだ。
「私に何をなさろうとしているの?衣を全て剥ぎ取ってしまおうというのですか?」
「い、いえ!ただ、確認を……」
「お気持ちを告げるだけとおっしゃるのね。でもここには他の者もおります。私をあちらへ連れて行ってください」
俺は少し迷ったが、自分のいた場所ならまだ月明かりでここより明るい。顔を見るにはその方が都合がよいだろうと思った。
女性は俺の首に手を絡めて、足を太ももに乗せてきた。
これは抱えて出ろということだろうか?
「それでは……」
寝るために掛けられていた衣ごと持ち上げると、驚くほど軽かった。
そして俺の手の感触は、生身の肌に触れている。
こ、こ、ここ、これは、ひょっとして……裸?
動揺を隠しきれない俺は、あたりを見回した。挙動不審と言われても仕方ない。
自分が来た方向は暗闇が広がっている。すると、女性の白い腕が暗闇にぼんやりと映り、逆の方を指差した。
「あちらに」
みると、ほんのり明かりが漏れている。
足元に気をつけつつそちらへ向かっていると、ふいに人の気配を感じた。
「あぁ、中将……」
抱えた女性からそう言葉が漏れ、自分が呼ばれたのだと思って足を止めた。しかし、女性はあらぬ方を見ていた。
もしやと思い、冷や汗が背中を流れる。
お世話をする女性も、役職名が中将だったらどうしよう。しかし、この言い逃れができないような状況を見られて、何も言えるはずはなく、俺は彼女の先を促す指に従い足を進めた。