女の子で旅館
子ども頃から物語を読むのが好きで、何時か自分自身の物語も書いてみたい。そんな思いを抱いて早幾年。書き始めるのももの凄く難しいけれども、それよりももっと書き続けることは難しい。そしてそれよりももっともっととんでもなく終わらせることは難しい。
多くの方々が見事に物語を書き上げ、そして終わらせ切っておられること、本当に尊敬してしまいます。適うなら何時かそんな皆さんの仲間入りが出来たなら、そして誰かの心を満たすことが出来たなら、その時は私にとって最高の一時になる…なりますように!
「お正月以来かなあ?」
亮子さんが独り言のようにつぶやく。
やがて全貌が見えてきた建物は、純和風の作りで谷川の横に広がるなだらかな丘陵地に建っていた。周囲は美しい広葉樹の森に囲まれ、谷側の方は対岸にある山裾のところまで視界が開けていた。
旅館の脇にある未舗装の道路のようなところに車を入れる。どうやらそこが駐車場のようだ。ほかにも数台の車が留まっている。
「お疲れ様、到着よ」
「亮子さんこそ運転お疲れ様です」
「うふふふ、これくらいなら肩慣らし程度かなあ?」
僕達は車の中から荷物を取り出すと、旅館の正面玄関の方へと回った。パタパタと中から足音がする。
「お帰り亮子ちゃん」
現れたのは少し年配の女性、何となく亮子さんに似ている。きっとお母さんなんだろう。
「こちらがお客・・・あらまあ!」
そう言うとその女性は絶句しながら僕の顔を見つめている。
「え?その?あの?」
面食らった僕は言葉にならない。
「くすくす・・・」と笑いの漏れる声。振り返ると亮子さんが口を押さえて笑っている。
「ごめんね良美ちゃん、ちゃんと言わなくて。でもお母さんにはちゃんと言っておいたでしょう?」
「でもね亮子ちゃん、いくら似ているって言っても、こんなに似ているだなんて思ってもみなかったのよ」
亮子さんのお母さんは目をまん丸にしている。
「ほらほら母さんたらそんなに驚いてばかりいないでちゃんと挨拶してったら」
「あ・・・そうね、亮子の母です、いつもお世話になっております、今日はのんびりしていって下さいね」
そう言うとお母さんは丁寧に頭を下げた。僕もそれにつられるようにして頭を下げると言った。
「あの、良美といいます、よろしくお願いいたします。でもお世話になっているのは私の方なんですよ」
そう言うと照れくさそうに頭をかいた。
「ところで亮子さん、お母さんは何をそんなに驚かれたの?」
「あのね良美ちゃん、前にあなたのこと妹に似ているって言っていたことあったでしょう?」
僕は無言のままうなずいた。
「でも少し言葉が足らなかったの。あなたは私の妹に似ているなんてもんじゃなくて、そうね、言ってみればまるで生き写しなのよ」
なるほどそれでお母さんの反応に納得がいった。
「その妹さんはこちらに?」
僕はそこまで似ていると言う妹さんに興味を持って聞いた。
「うううん、葵はここにはいないの。少し離れた町にいるのよ。明日にでもそこに連れて行こうかなって思っているのよ。会ってくれる?」
「もちろんですよ」
僕には亮子さんの願いを断るべき理由は何一つとしてなかった。ただ、妹さんの話が出たとたんにかすかに曇ったお母さんの表情が、何故だかとても気にかかってしまった。
「さあさ、お部屋に案内しますから上がって上がって」
そう言うお母さんの表情にはすでに暗さは微塵もない。僕はそこで靴を脱ぐとスリッパに履き替え、案内されるままに廊下を奥の方へと歩いていった。
亮子さんはその後をすたすたとついてくる。
いくつかの角を曲がり、小さな階段を上り、引き戸を開けると部屋に行き着いた。
窓は谷側に面していてそこからの景色は絶景だった。さやと入ってくる風には木々の香りが融け込んでいて何とも清々しい。
「うわー凄い。本当に素敵なところですね。亮子さんが好きだって言っていた訳が分かるなあ」
「ここはこの旅館の自慢の部屋の一つなんですよ」
そう言うとお母さんは僕達に座布団を勧めた。ふとみると亮子さんは深呼吸をしている。
「やっぱりここの空気はおいしいなあ」
「そう思ったら早く帰ってきなさいよ」
お母さんのその言葉は愚痴のようでありながら、決してそうではなかった。
彼女はほっとした感じで座り込んだ僕に、優雅にお茶を入れて勧めてくれた。
「今日はお客さんは?」と亮子さん。
「まだシーズンには少し間があるから二三組と言ったところかしら?だから亮子ちゃん、今日はのんびりとしていていいからね」
「あ、でも・・・」
思うに亮子さんは、実家にのんびりしに帰るとは言っても、いつもきっと家の手伝いに奔走しているのだろう。何となくその有様が目に浮かぶような気がする。
「だめよ、今回は一人で帰ってきた訳じゃあないんだから。ちゃんとお客様のお相手しないと」
「はぁーい」
不承不承のような返事をしながら、彼女の目は温かな笑みを浮かべている。
「あの・・・」
「なあに良美ちゃん」
「そうでなくともご厄介になりっぱなしだから、私にも出来ることがあったら・・・」
「そんなとんでもない」
亮子さんとお母さんが同時に言った。
「亮子の連れてきたお客さんなんですから、気になさらずにのんびりとくつろいでくださいね。でないと泊めてあげません」
お母さんにそこまできっぱりと言われてしまっては引き下がるしかなかった。
「それではごゆっくり・・・」
そう言ってその場を去る彼女を見送ると亮子さんの方を見た。
「・・・と言うことだから気兼ね無くね」
「・・・と言うことだからって亮子さんたら・・・」
そう言うと僕は吹き出してしまった。彼女とお母さんの間の友達ライクな感覚が何とも好ましかった。
「お母さんと仲が良いんですね」
「そう?」
「うん」
「いつもあんな感じだから、取り立ててそんな風に思ったこと無かったわ。ところでせっかくこうやって温泉宿に来たんだからお風呂に行かない?」
「そうか、亮子さんとこには温泉が有るって言っていたよね」
「建屋からほんの少し上がっていた所に野趣溢れた露天風呂が有るの。そこからの景色は最高なのよ」
「わぁ、良いなあ、露天風呂大好きなんです」
とそこまで言ってはたと気がついた。この調子だとその露天風呂には亮子さんと二人で入ることになってしまう。
ええ?良いのか?良いのか?そりゃあ今の僕は女の子に違いないのだけれど、でも元々は男の僕の意識が基本なんだし・・・。どうすれば良いんだろう?ここまで来て入らないなんて言ったらそれこそおかしいって思われてしまうだろうし。
頭の中で思考がぶんぶん音を立ててめまぐるしく動いたが、いくら考えていたって答えが出るで無し、亮子さんはと言うと既に行く支度を調えている。
「さあさ、これに着替えて」
綺麗に畳んであった浴衣と丹前を手渡してくれる。いや、そのと思ってもそんな思いは伝わるわけがない。
亮子さん本人はさっさと着替え始めている。僕は慌てて顔をそらした。もじもじしていても仕方がないので急いで着替える。
「ほらほら早く」
急かす亮子さんに引き連れられて部屋を出、来た道順とは違うところを通って建物を抜けた。
裏玄関とでも言うようなところに揃えてあった可愛らしい下駄を履くと、外に歩み出した。
建屋の上から覆い被さるように緑の木々が茂っている。どこかで鳴いている小鳥の声がとても清々しい。
亮子さんは僕の手を引くとその木々の間を抜け、細い小道を山の上に方へと昇り始めた。
「遠いの?」
下駄をかたかた鳴らしながら僕がそう言うと亮子さんはにっこりと笑った。
「直ぐそこよ、でなきゃこんな下駄で出かけられないでしょう?」
言われてみたら確かにそうだった。その道をほんのちょこっと上って少し曲がったかと思ったら、東屋風の小さな小屋があり、露天風呂はその直ぐ裏手だった。
風の動きに載って微かに湯の温もりが漂ってくる。小屋の中には小さな棚が有り、竹を編んで作った籠が置いてある。
亮子さんはと言うと早速衣類を脱いで温泉へと向かっていた。意を決した僕もその後を追う。
自分では見えないから確かめようがないのだけど、顔がとても上気しているのを感じる。
小さな木の桶でかけ湯をし、段々になっている部分からそっと湯の中に入っていく。ほどよい温もりの柔らかな湯が全身を包み込んでいく。
「ふー」
「良いところでしょう?」
亮子さんが空を見上げるようにして言った。
僕も釣られて見上げると、木々の緑の葉の間から抜けるような青空が見えた。風が吹くと梢が揺れ、どこかで鶯の声が聞こえる。
「本当に・・・良いところですね。フワンと湯の中に身体を伸ばしていると、自分の中にあるつまらない物がみんな溶け出していくような、そんな気がする」
「うん・・・そうなんだよね。都会から帰ってきてここのお風呂に入る度に、私もいつもそんな風に感じて居るなあ」
そう言う亮子さんの顔はなんだか見たこと無いくらいに無防備な感じがした。
「ん?どうかした?」
僕がじっと見ているのに気がついた彼女はゆうるりと僕の方に寄って来ると言った。
僕はいきなり間近に来た生まれたままの姿の亮子さんにいささか慌ててしまった。
でもなんと言えばいいのだろう。それが温泉の魔力なんだろうか?それとも肝が据わったのだろうか?何となくそのまま亮子さんの存在を受け入れてしまった。
もちろんそうは言ってもありのままの亮子さんの姿を直視できたわけではない。でも亮子さんの存在をごく自然に感じ取ることが出来るようになっていた。
ざわめく葉鳴りの音、静けさの中をするりと通り抜けてくる小鳥の声、木漏れ日、柔らかな湯の感触、その全てが僕達を癒してくれた。
涼風のお陰か余り逆上せることもなく小一時間も入っていられただろうか?普段は烏の行水の僕としては異例とも言える長湯だった。
しかしさすがに疲れたのだろう、湯から上がって部屋に戻るとそれから夕方近くまで眠ってしまった。目を覚ますと丹前の上から布団が掛けられていた。
前書きであんなことを書きながら、はたして私はどこいら辺まで来ることが出来て居るのだろうか?千里の道も一歩から、とにかくボチボチ行こか。