女の子とジンギスカン
子ども頃から物語を読むのが好きで、何時か自分自身の物語も書いてみたい。そんな思いを抱いて早幾年。書き始めるのももの凄く難しいけれども、それよりももっと書き続けることは難しい。そしてそれよりももっともっととんでもなく終わらせることは難しい。
多くの方々が見事に物語を書き上げ、そして終わらせ切っておられること、本当に尊敬してしまいます。適うなら何時かそんな皆さんの仲間入りが出来たなら、そして誰かの心を満たすことが出来たなら、その時は私にとって最高の一時になる…なりますように!
翌日からの僕はまた男の僕。
毎日朝早くから夜遅くまで、それこそコマネズミのようにくるくると働いた。でもそのきつい仕事も、何故だか以前のようにしんどくは感じなかった。
どうしてだろう? 色々考えてみたのだけど、どうもよく分からない。言ってみれば憑き物が落ちたとでも言うのだろうか?
自分の心がとても軽くなっている事だけは実感として分かった。
だからこの一週間はいつもの週以上によく働いたのだけど、心は比較的元気なまま週末を迎えることが出来た。
もちろん身体の方はへとへとだ。恒例のコンビニ弁当の晩ご飯を食べ、風呂に入るともうぐったりとした感じだ。
しかし今の僕には楽しみがあった。いそいそとお湯を沸かし、お茶の用意をする。
多分このお茶を飲んだらダウンしてしまうので、トイレに行ったりするような諸事は全て先に済ませてしまっている。
再び部屋中に良い香りが漂う。僕はゆっくりとそのお茶を口に含み、心から楽しみながら一口一口と飲み干した。
やがて来る安らかな眠りへの誘い。僕にはその眠りが待ち遠しかったし、それ以上に次の日の目覚めが楽しみだった。
「あふっ」
ベッドの上で大きく伸びをする。天井見上げながら視線の先に手をかざす。小さいけれどしなやかで優しい手。それが今の僕の手だった。
残念ながら今週末は亮子さんとお休みが重なることはなかった。ああいう商売なので人と同じようにいつも週末に休む訳にはいかないそうだ。
何でも三日出ては一日休むといったシフトらしく、そうなると僕の休みと重なるのは三週間に一回くらいになってしまう。
そう言う話をしたのは先週喫茶店に行った時のことだった。
短い時間なのに良くあれだけ沢山のことを話すようになったものだと、自分でも感心してしまう。
普段の僕はどちらかというと話し下手な方だったから、実際自分でも少し驚いてしまっていた。
僕はそれが亮子さんの人柄のせいではないかと考えていた。どうやら彼女は、僕のことをすっかりと妹分としてみている。
だから僕が週末彼女に会えないことをぼやく以上に、彼女もまた休みが重ならないことを怒っていた。
もちろんそんなことは怒ってみても始まらない。でもそんな風に言ってくれる彼女のことが嬉しかった。
そんな彼女から一つの代案が来ている。彼女の今度のお休みは月曜になるのだけど、日曜の仕事は比較的早くに終わるので食事に来ないかというのだ。
僕は飛んで行きたい思いを抑えつつ、出会ったばかりでそこまで甘えるのはどうか?と言うような内容のメールを出した。
すると彼女から次に来たメールの内容は、
「妹がお姉ちゃんに甘えるのは当たり前。四の五の言わずにとっとと来なさい!」
と言うものだった。
それを読んだ僕は思わず苦笑。その時の僕は男だったのだけれど、妹として優しい姉を持った気分を満喫させてもらえた。
当日言われるがままに午後六時頃店の方に行く。しかしお客の応対が混んでいたらしく、亮子さんは未だ働いていた。
遠目に僕のことを確認すると、誰も見ていない隙にそっと僕の方に手を合わして拝むふりをする。なんだか亮子さんらしいと言えば言えるかも知れない。
結局彼女が仕事を終えて着替えて出てきたのは、それから一時間ほど時間が経ってからのことだった。
「ごめーん!随分待たせちゃったねー」
「お仕事なんですから仕方ないですよ」
「でもほんとごめんね」
本当に腰が低いというか、彼女の相手を気遣う思いの深さに圧倒され気味だ。
「旅行に行っていた友達から、大量にジンギスカンのお肉貰っちゃったのよ」
「ジンギスカンて、北海道ですか?」
「そうそう、よく知っているわね。それで一人では食べきれないから、応援を御願いしようかなって思ったの」
「私なんかで良かったんですか?」
「なんかってことはないわよ、良美ちゃんだから御願いしたの。第一同僚とは休みが同じになることは滅多にないし。ジンギスカン嫌いじゃないわよね?」
「いえそんな、余り食べたことはないけど、大好きですよ」
「んで、これから一緒に焼く野菜を仕入れなくちゃいけないの。付き合ってね」
僕は彼女に引き連れられながらそのスーパーの地下の食料品売り場に行った。
夕方の忙しい時間は少し前に終わっていたのだけど、まだまだ盛況だ。
特に都市部の店だけ有って総菜売り場がかなり賑わっている。
「もやしに、キャベツに、それから・・・」
カートに乗せられたカゴの中には、野菜だけでなく様々な食材がどんどん放り込まれていく。
「こうして買っておけば明日また来る必要ないからね。それに・・・」
そう言うと亮子さんはニヤリと笑って見せた。
「今日は荷物持ちの応援さんが居てくれるからね」
一瞬何のことか分からなかったが直ぐに笑いながら返事した。
「あっ?はいっ!もちろんですよ!」
「ああもう、そんなにまじめに取らないでよ。ほとんど冗談のつもりなんだから」
そこで僕はつっこみを入れた。
「ほとんどー?」
「だから良美ちゃんて好きだな」
二人は顔を見合わせるなり吹き出してしまった。
レジを終えると二人で半分こにして荷物を持ち、亮子さんのマンションへと向かった。
亮子さんのマンションは、僕のところのものより少し古びていたが、内容はほとんど同じようなワンルームのマンションだった。
「さ、入って入って」
やはり女性のと言うべきか、当たり前?とでも言うべきなのかな?僕の部屋に比べて実に綺麗にきちんと整頓されていた。
ベッドの前にあるテーブルには花すら生けてある。
「あ?それ?」
僕がまじまじと花を見ていたのが分かったのだろう。
「なんだか亮子さんさすがだなって・・・」
僕がそう言うと彼女は照れくさそうに笑った。
「それは近所の仲のいい奥さんから、沢山咲いたからお裾分けって頂いたものなの・・・、や、やだな、なんだか照れちゃう」
そう言いながら彼女は、その花を花瓶ごと優しくそっと窓際の棚の方へと移した。
「なにか手伝えること有りません?」
僕がそう言うと亮子さんは首を横に振って言った。
「良いの良いの、座っていて。第一ここの台所は狭くて、二人で料理なんか出来やしないんだから」
そう言うと彼女はスーパーのレジ袋の中身を台所で広げ始めた。
「良美ちゃんも自炊とかしているの?」
「お休みの日とかはしていることもあるんですけど、普段はなかなか」
「普通はだよねー。私も早番で帰ることが出来る日ならともかく、そうじゃない日は無理だなあ」
亮子さんは手早く野菜を洗い、適当な大きさに切り分けて盛りつけた。
「仕事の方は楽しいの?」
彼女には以前、母の知り合いだった方の会社に高卒で入社して、今は事務の仕事をしていると話していた。
高卒って言うところ以外は出来るだけありのままの自分に近い話をしている・・・つもりだった。
だから色々聞かれても余り気を遣わないで居られた。
「一生懸命にやって、それがうまく行ったって言うか、きちんと出来たときは頑張って良かったなって思うけれど、いつもいつもはそんなこと無いから、大体はもう無我夢中って感じですね」
「そう言うところはどんな仕事でも一緒だね」
お互い仕事の話や、日々の下らない愚痴などを気軽に言い合い、時折冗談を言い合っては和気藹々といった感じだった。二人は元からの姉妹よろしくうち解けて仲が良かった。
こたつ兼用のテーブルの上に載せられたすき焼き鍋が、卓上コンロの熱であぶられてかすかに煙を上げ始めた。
「そろそろ頃合いね」
大きなボールの中のたっぷりとしたタレの中に浸かっているジンギスカンの肉を焼き始めると、ジュージューという音と共に何とも言えない良い匂いが立ち上り始めた。
亮子さんはコンロの足に薄い雑誌をかませて鍋を傾け、焼いている肉から出た汁が片方に多く寄るようにしている。
そして手際よくその汁の中に野菜を投入していった。
「専用のジンギスカン鍋を使えばこんなことしなくても良いのだけど、この一回のために鍋を買うって言うのもね」
やがて肉に火が通り、野菜も良い具合に柔らかくなってきた。
亮子さんは冷蔵庫からビールの缶を二本持ってきて僕の方をもの言いたげに見ている。
「良美ちゃん、社会人とはいえまだ二十歳前なのよね?」
「・・・うん」
年格好の説明の上からそう言うことにしたのだけれど、まずかったかな?
「少しは飲んだこと有るの?」
本当は少しではなく沢山飲んだことがあるのだけど、今はそう言えようはずもない。
「ほんの少しだけれど有ります・・・」
「そか、じゃあまあいいか。今日は私が許す」
そう言うと彼女は冷たく冷えたビールの缶を僕の手の中に押しつけた。
「ジンギスカンに何が合うってビールが最高だからね。今日は特別、さあ飲もう飲もう」
二人そろってプルタブを引き、ジンギスカンの肉を食べながらのビールは本当に格別なものがあった。
もちろん未成年という建前があったので、僕がおつきあいしたのは二口だけで、後は亮子さんに飲んでもらった。けれどもその二口でも十二分に旨さを味わえたことは内緒の話。
亮子さんはもう三本余計に缶ビールを空けていたけれども、実に明るくよいお酒だった。
本当に気が合うとはこのことなのかも知れない、いくらでも話すことが後から後から湧いてきた。その最中に亮子さんは急に何かを思い出したような顔をした。
「あ、そうだ、肝心なことを忘れるところだったわ」
そう言うと亮子さんは壁に貼ってあったカレンダーを指さした。
「来週・・・再来週ね。私たまたま土日に休めるんだけど、その時にちょっと骨休みに実家の温泉に行ってこようかと思って居るんだけど、一緒に行かない?」
「温泉ですか?良いなあ、行きたいなあ。でもご実家への里帰りなのでしょう?私なんかが付いていったらお邪魔じゃないですか?」
「とーんでもない、車で帰るときに誰か連れが居ないと寂しいなって思っていたの。だから付いてきてくれたら大助かりなのよ」
「でも私、運転はだめなんです。だから手助けにはならないかと・・・」
本当はちゃんと免許証は持っている。しかしその免許証の写真は男の僕が載っているから、それを持って運転するわけにはいかないのだ。
「それは良いのよ。だって里帰りするときはいつも一人なんだし、もう何度も行き来した道で勝手知ったるって言う感じだから気にしないで」
土曜に行って日曜に帰るのなら、問題ないだろう。そうは思っては見ても不安が全て消えるわけではない。
「なにか予定があったのかしら?」
そう聞く亮子さんの目が何となく寂しそうだ。
「いえ、何も予定なんか無いんです」
僕は思わずむきになってそう言ってしまった。
「ただいきなりご実家にまでのこのこ付いていって良いのかなって・・・。そうでなくとも未だ出会ったばかりなのに。今日だってこうしてご馳走になってしまっているし」
もそもそとそんなことを小さな声で言っていると、そこへ亮子さんの一喝。
「妹がつまらないことを気にしないの!姉の私が良いって言ってるのだから良いの!」
なんともはや強引な。僕たちは顔を見合わせると二人して吹き出してしまった。
「亮子さん。もしかして家でもそうなの?」
「え?」
虚を突かれたのか、彼女は一瞬しどろもどろになった。そしてどことなく決まり悪そうに彼女は頭をかいた。
「言われてみればそうかも知れない、妹にもいつもお姉ちゃんは過保護だって言われているから」
「でも亮子さん、私はそのお陰で助けられている。本当にありがとう」
それは僕の本当に自然な思いだった。
「・・・」
ふと見ると亮子さんが目に涙を浮かべている。
「もしかすると、うううん、きっと実際に助けられているのは私なのよ」
「え?でも・・・」
彼女は目に溜まった涙をそっと拭うと言葉を続けた。
「五年という約束でたった一人でこの街に出てきたのだけれど、故郷で憧れて見ていたようには毎日の暮らしって上手く行くものではないのね」
僕は黙って彼女が話し続けるのを待った。
「毎日毎日生きる為に働くって言うか、もちろんその中でも色々な楽しいことは一杯有ったわ。でも・・・、」
冷蔵庫の微かにうなる音が、彼女の黙りこくった静寂の中、唯一自分の存在を主張している。
「その忙しさの中に埋もれてしまって、自分の心を表に出したりすることがすっかりと苦手になってしまっていたの。しかも始末が悪いことに、その事を自分自身全然自覚していなかったのね」
亮子さんはしばらくの間視線を彷徨わせた後、ふっと僕の目を見た。
「それがね、良美ちゃん、あなたと出会ってからどんどん表に出てくるようになってしまって、それまでの自分が全然ちゃんと生きて無いような気がしてしまったの。だから・・・」
そう言うと彼女は会心の笑みを僕にくれた。
「本当は助けて貰ったのは私の方だなって、そう思っている訳なの」
僕からしてみたら、これ以上ないくらい地にしっかり足を着けて生きているように見えていたのに、人間と言うものは不思議なものだ。
ああ、そうか。だからこそ人間は一人では生きていくことが出来ないのだな。
気がついたら僕も涙を流していた。
「なんだか私、亮子さんと出会ってから泣いてばっかり。嫌になっちゃうな」
「嫌にならないで、私だって田舎から出てきてこんなに泣くようになったの、初めてなんだから」
後はもう二人で泣き笑い。でもこんな風に満たされた思いで居られたのは、本当に久方ぶりのことだった。
その後僕はご馳走になったお礼に片付けをさせて貰った。
亮子さんは散々姉の権力を振り回して後片付けは自分がするのだって言っていたのだけれど、頑固な妹?は、その姉の横暴?に屈することなく、自ら望んだ仕事をきちんと果たし終えた。
楽しい時間があっと言う間に過ぎるのは常なることで、気がついた時には夜も随分遅い時間になっていた。
「今日は本当にごちそうさま」
玄関で頭を下げると僕は亮子さんに礼を言った。
「こちらこそジンギスカン退治に協力してくれてありがとう」
二人は顔を見合わせると吹き出してしまった。
「再来週が楽しみね」
「はい、本当に」
「それじゃあお休み」
「お休みなさい」
もっと一緒に居たいという思いはは尽きないけれど、僕には明日からの仕事があった。
名残惜しげに見ている亮子さんに手を振りながら、夜の街を歩く。ジーと何処かで虫の鳴く声がする。
都会の喧噪の中ふと静寂に包まれてしまったような不思議な感覚に包まれた。
前書きであんなことを書きながら、はたして私はどこいら辺まで来ることが出来て居るのだろうか?千里の道も一歩から、とにかくボチボチ行こか。