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たった六ヶ月のラプソディ  作者: ライトさん
23/28

女の子頑張る!

子ども頃から物語を読むのが好きで、何時か自分自身の物語も書いてみたい。そんな思いを抱いて早幾年。書き始めるのももの凄く難しいけれども、それよりももっと書き続けることは難しい。そしてそれよりももっともっととんでもなく終わらせることは難しい。

多くの方々が見事に物語を書き上げ、そして終わらせ切っておられること、本当に尊敬してしまいます。適うなら何時かそんな皆さんの仲間入りが出来たなら、そして誰かの心を満たすことが出来たなら、その時は私にとって最高の一時になる…なりますように!


 建物の中に入ると薬品の臭い。やっぱり好きになれない。早く葵ちゃんをここから出して上げたいと思ってしまう。

 エレベーターに乗り、廊下を抜け葵ちゃんのいる病室へと向かう。

亮子さんが看護婦詰め所に言っている間に僕は先に病室に入った。


 何故かモノトーンに感じてしまう部屋の中に葵ちゃんは静かに眠っている。僕はベッドの傍らに椅子を運び腰掛けると、そっとその手を握りしめた。


『さあ始めようか?』


『はい、良美さん』


当たり前のことなんだけれども、葵ちゃんから緊張した思いが伝わってくる。


『精一杯頑張るから、必ず身体に戻して上げるからね』


 そう言うと僕は目を瞑り意識を集中させ始めた。

実を言うと昨日の経験が随分参考になっている。


 前回は葵ちゃんと言う存在自体を感じ取ることすら出来なくてとても苦労した。でも今回は、葵ちゃんの人格というか、彼女を内包する存在そのものを何となく感じ取ることが出来るのだった。


 僕は意識の上で、葵ちゃんと僕の間にある微妙な境目を少しずつ見いだしつつあった。

最初のうちその部分というのはものすごく曖昧で、どこから何処までが僕でどこから何処までが葵ちゃんなのか、きっちりとした線引きをすることが全く出来なかった。


 でも何度もその境界面を行き来しているうちに、次第に彼我の差分を理解できるようになってきていた。


 こうやって説明していると、何となく分かって来ているように思えてしまうのだけれども、本当に感覚的な物で、きちんと説明するにはそれに該当する言葉すら巧く見つけられないというのが実情だった。


 だが説明できる出来ないはともかく、僕は徐々にそれを自分の物としていった。

境界面に触れているときの圧力みたいな感覚からすると、葵ちゃんもまた同様に理解しつつあるようだった。


 こうなるとしめた物で、二人で協力し合いながら互いの境界面の輪郭を更にはっきりさせることが出来るようになっていった。

 やがて僕は自分の中にいる葵ちゃんの、おおよその全体像をつかむことが出来るようになってきた。


葵ちゃん、そして僕、それぞれの存在がどんどん際だっていく。


『葵ちゃんどう?』


僕は葵ちゃんの存在をはっきりとした感覚で捉えながら言った。


『良美さんの存在がなんだかとても良く分かるような気がする。私、今あなたに包まれているよ、それもとっても優しく』


そう言う葵ちゃんはなんだか嬉しそうだった。


『うん、なら葵ちゃん、君の片方の側からそっと押すようにしてみるから、葵ちゃんはその押す力に反発するようにしてみて』


『うん、分かった』


 そこで僕は葵ちゃんという存在の一方からそっと力をかけ、反対の方向へ押してみるという作業に取りかかった。

 その作業はとてもデリケートな上、未だとても慣れているとは言えない状況なので、ゆっくりゆっくり本当に少しずつ圧力を高めていく。


 最初のうちは殆ど感じなかった抵抗のような物が徐々に強くなっていく。それは触れているという触覚のような感覚から、徐々に力強い圧力のような物に変化していく。


『その調子だよ』


 僕は葵ちゃんを励ましながら、その裏側で実は自分自身を叱咤激励していた。

圧力を掛けている部分も初めは点でしかなかったのが、今は徐々に面になりつつある。受ける抵抗もどんどん大きくなっていく。


 そして何かの限界を超えたときに、葵ちゃんの存在がゆうるりと動き始めるのを感じた。

いける!僕は心の中でそう叫んだ。しかし力を掛けるポイントがずれていたのだろうか?葵ちゃんの存在がまるでワックスの良くかかった車の上の水滴のように、するりとその場から逃げ出していってしまった。


あ?と思うまもなくそれまでの努力は一瞬で水泡に帰する。


「ふう」


 僕は大きく息を吐き出すと目を開いた。

心の中でイメージを作り上げるだけ、そのことを繰り返しているだけなのにどうしてこんなにも身体が疲れるのだろう?僕はいつの間にか大粒の汗を額に浮かべていた。


「大丈夫良美ちゃん?」


僕の集中力が途切れているのを知った亮子さんが声を掛けてくれた。


「なんとか・・・」


僕はそう言うのが精一杯だった。


「どんな感じなの? なんとかなりそう?」


 きっと亮子さんは心配で仕方ないのだろう。矢も楯もたまらずといった感じで聞いてきた。

僕は口をきくのも億劫な気がしたが、亮子さんの問いには答えたかった。


「だいぶ感覚が掴めてきているんです。でも実際に効果が現れるのはまだまだこれからと言ったところでしょうか」


「大変みたいね・・・でも頑張ってね」


「はい」


 きっと亮子さん自身、自分でなにか出来る物ならどんなことも厭わなかっただろう。でも今の彼女には何もなすすべがなかった。ただ僕達の努力が結果を出すことを信じて待つことしかできなかった。有る意味それは僕達の誰よりも辛い立場だったかも知れない。


 極端に意識を集中させているためか、早くもなんだか頭がぼうっとしている気がする。

ふと病室の時計を見ると、ここに入ってから既に三時間近くも経っていた。

 なんだか時間の感覚が無くなってしまっている、それは恐ろしいくらいだった。


『良美さん』


葵ちゃんの言葉が心に響く。


『何? 葵ちゃん?』と僕。


『もうお昼過ぎているよ』


 ああ、そう言えばそんな時間だ、僕の中ではそう言う時間のとらえ方が全く抜け落ちていた。僕は身体の緊張を解くために思いっきり伸びをした。


「はい良美ちゃん」


亮子さんが僕の頬になにかを押しつけた。


「冷たい!」


 僕は急に我に変わりながらそれを見た。それは果汁百%と書いたオレンジジュースだった。

 ストローを取り外して伸ばし、紙パックの口にぎゅっと差し込む。

急に喉が渇いていることに気がついて、もどかしい気持ちでストローの口を吸った。

冷たくて甘酸っぱい果汁が一気に口の中にほとばしってくる。僕は思わず一気に飲み干してしまった。


「ああ美味しかった」


大げさに思えるかも知れないけれど、本当に生き返った気分だった。


「そろそろお昼にしましょうか?」


 亮子さんは僕の目を見つめながらそう提案した。僕は黙って頷いてみせる。

亮子さんは病室に備えてある小さなテーブルの上に、お母さんの心づくしのお弁当を手際よく広げていった。


 僕もなにか手伝わなくてはと思いはするのだけど、なぜだか身体が動こうとしない。またそうするための気力も湧かなかった。


「はい」


 そう言うと亮子さんはお手ふきと箸を手渡してくれた。僕はゆっくりと丁寧に手を拭き箸を手に持った。


「頂きます」


 正直言うと最初のうち、僕には全く食欲がなかった。

これからのことを考えると食べておかなくてはならないという義務感があったので、無理矢理にでも食べ物を口に運んでいた。

 しかし一口食べ、二口食べしているうちに、またしても自分が猛烈に空腹であることに気がついた。


 そう気がついてから後はもう無我夢中だった。せっかくのお母さんの手作り弁当なのに、味わう余裕もないといった感じでむさぼってしまう。こうなるともう食べ物という感じではなく、エネルギーの補充と言った方が正解かも知れない。


 亮子さんのお母さんはきっとこの食欲を見越していたのだろう。こんな僕にでもたっぷりと思えるだけのお弁当を用意してくれていた。

 僕はそれを平らげると心底ほっとした気分になっていた。


「相変わらず凄いわね」


 亮子さんは半ば感心、半ば呆れたという感じで僕に言った。彼女は未だ食べつつあった彼女自身のお弁当を差し出すと言った。


「これも良かったら食べる?」


僕は苦笑した。


「いえ、さすがにもうお腹いっぱいです」


「本当に?」


亮子さんの目が僕の目をのぞき込む。


「本当に!」


僕は慌てて本当にお腹いっぱいであることを強く主張した。


 亮子さんは僕の返答を聞きながら笑っている。僕はなにかおかしいことをしてしまったのだろうか?でも僕にはそのことを余り深く考える余裕はなかった。

 お腹が一杯になった僕はこの上もない幸福感を味わいつつ、押し寄せてくる猛烈な眠気に抗えなくなっていた。


「ごめん亮子さん、一時間だけ寝かせて、本当に一時間だけで良いから」


「ん」


 亮子さんは頷きながらにっこりと微笑んでくれる。僕は彼女のその笑顔を見たか見ないうちにそのまま眠りに落ちてしまった。

 たった一時間の眠り。でもその一時間は長くもあり短くもあった。僕にとってはそれこそ一瞬の物だったのだけれど、果たして葵ちゃんや亮子さんにはどうだったのだろう?


 僅かな時間に深い深い眠りに落ちていた僕だったが、誰にも起こされることなくその眠りの淵から戻りつつあった。


『なんだろう? とても暖かい』


僕は不思議な温もりに包まれているのを感じつつゆっくりと目を覚ました。


「起きた?」


亮子さんの声が問いかける。気がつくと僕は亮子さんに抱えられるようにして眠っていた。


「ごめん亮子さん」


僕が慌てて身体を起こして言った。


「良美ちゃん、眠った後椅子から落ちそうになっていたのよ」


どうやら亮子さんはそんな僕のことを抱き留めてくれていたらしい。


「顔洗ってきます」


 そう言いながら部屋を出ようとする僕の後を亮子さんの視線が追った。どことなく残念そうなのは気のせいだろうか?


しばらく経って頭をすっきりとさせた僕は病室に戻った。


「あらあら、お化粧がすっかり台無しね」


僕は苦笑いしながら言った。


「もともと殆どしていないから・・・それに実を言うと苦手なんです」


「私がレクチャーして上げたら良かったかもね?葵もナチュラルメーク派って言うか、余り本格的にお化粧はしない方だしね。」


僕にとってはその葵ちゃんのメークでも驚きの連続だった。


「うん、でももう・・・」

 そう、僕がこの姿で亮子さんに会うことはもう無いだろう。

僕はなんだか複雑な思いでいる自分自身に気がついた。どう言えばいいのだろう?

 僕はある意味とても純粋な思いで亮子さんのことが好きなんだと思う。


 もちろん男性に戻ってからもこの気持ちは大切にしたい。でもやっぱりどこかで男と女になってしまうのだと思う。


 それはそれで嬉しくもあり、様々な喜びを伴う物なのだろうと思う。

でも僕は、何者でもない僕自身と言う存在で亮子さんと接してこれたことを多分一生忘れないだろう。


 僕はベッドの横に来ると大きく深呼吸をしてから椅子に座った。ほっそりとした葵ちゃんの手を握る。


「良美ちゃん頑張ってね」


亮子さんの励ましに僕は真剣な面持ちで頷いた。


『葵ちゃん』


『はい』


『今度こそきっと・・・』


『うん、お願い。私も頑張るね!』


 その言葉を最後に、僕は目と瞑って深く深く意識を集中させた。

今回はかなり早いうちに互いの感覚をつかむことが出来たように思う。やはり何事も経験か?


 僕が葵ちゃんの存在を押すと、素早く反応が返ってくる。うん、良い感じだ。僕はゆっくりと葵ちゃんを押し始める。じわっとした感じがして彼女が動き始めているのを感じる。

 それに力を得た僕は、更に力を加える。


 と、ある時点を境に葵ちゃんがするりと横にずれるような感覚を味わう。多分重心を外しているのだ。

 僕はその一感覚をつかみながらほんの少し押す場所を変える。今度は良い感じ。更に押す力を強くすることが出来るようになる。この調子ならもしかすると?そう思った瞬間、葵ちゃんの存在がぐらりと揺れて横にそれてしまう。


 なかなか微妙で根気が要ることのようだ。その作業のあまりの繊細さに気持ちが揺らいでしまうが、だからと言って簡単に諦めてしまうわけにはいかない。

押す場所を変えてまたゆっくりと力をかけ始める。

 今度は直ぐに横にそれ始める。慌てて僕は押す場所を変更した。

そう言うことを一体何度繰り返していることだろう。葵ちゃんの方から僕に呼びかけてきた。


『良美さん』


『どうしたの葵ちゃん?』


 早くも僕は力を使い果たしつつあった。意志の力を注ぎ込むと言うことはそれだけ大変なことなのだった。


『良美さんが押してくれるのに合わせて少しでも巧く動こうと思っているのだけれど、有る程度移動した後急に動けなくなるの。その時ってなんだか二つの力に挟まれたみたいなそんな感じがするのよ』


『二つの力?』


『そうなの、だから良い感じて押されていても、どこかの時点で押し出されるように横にずれてしまうの』



僕はしばらく考えあぐねてしまった。


 だがそうも言っていられない、時間がないのだ。僕は再び意識を集中させて考えた。

一体どうすれば現在の状況を打開できるのだろうか?色々考えを巡らせて見るも、なかなか良い考えを思いつかない。


 しかしただ考えていても仕方がない。とにかく色々と試行錯誤を繰り返してみることにした。

 当面圧力を加えると言うところまではこれまで通り。違うのは葵ちゃんの存在を中心と考えて、押している部分の丁度反対側にも意識を集中させることだった。

徐々に押す力を増して行くにつれ、葵ちゃんが動き始めるのを感じる。この辺は良い感じだと思う。

 しかし有る一定の所まで来ると止まってしまう。これは一体?


 僕は葵ちゃんを中心に反対側に当たる部分に意識を集中させた。

確かに葵ちゃんの向こう側に抵抗を感じる物がある。これは一体何なのか?

試しに葵ちゃんを全ての中心と考えて、あらゆる方向に探りを入れてみる。すると全ての方向で同じような壁に行き当たることが分かった。


 なんだろうこの壁って?まずこいつの正体を知らなければならない。でないと葵ちゃんを元の身体に戻してあげるなんておぼつかないことだった。


 それにしても不思議だ、どうして今までこんな壁を意識したことがなかったのだろう?

あれやこれやと色々なことを考えているうちに、ふと思いついたことがあった。


 つまりその壁というのは元々そこに存在している物で、そこへ葵ちゃんという異質な存在がやって来た。それによって僕の意識の中で彼我という区別が生じ、それによって距離や方向という感覚が生じたのではないか?そうなって初めて壁に行き当たることが出来たのではないか?と言う物だった。


 そしてこの壁は実は僕自身を成り立たせている壁で、普段なら自分自身を意識することなんて無いものだから、その存在を知ることがなかった。と言うことじゃないだろうか。

だとすればこの壁はおそらく僕自身と外界を隔てる物に違いない。


 そこまで考えていて僕は有ることに気がついた。

今までは自分という存在の中から葵ちゃんをただ外に出すことだけを考えていた。でもそれでは葵ちゃんを追い出しただけで、彼女の肉体に戻すことにはならないのではないだろうか?


 そこで僕は自分の意識を葵ちゃんの手に集中することにした。考えてみたらなんの思惑もない状態だったけれど、最初からしっかりと彼女の手を握りしめていた。その手を利用すると言うのは有る意味良い考えなのではないだろうか?


 それにもしかすると肉体的な接触を利用する方が壁の抵抗が少なくなるかも知れない。

大きく深呼吸して再度意識を集中させる。


 焦らないようにしながらゆっくりゆっくり集中の度合いを高めていく。意識面だけでなく肉体的な感覚面でも葵ちゃんの存在をイメージするようにしてみる。

 とても暖かで優しい存在が胸から腕へゆっくりと移動していくイメージを作り上げる。

うん、さっきまでと比べて遙かに移動が楽な気がする。これなら行けるのかも知れない。


 僕の心は期待感で一杯になった。

もう少し、もう少し。彼女の存在は既に腕を通り、手の平の辺りまで移動している。

僕は、僕と葵ちゃんの間を隔てる壁が、極限まで薄くなるような感覚を感じていた。


 その感覚を頼りに更に意識を集中させ、葵ちゃんの存在を強く押す。

だがどんなに強く押しても、意識を集中させても、最後の一歩の部分を貫き通すことが出来なかった。


 急激に押し寄せてくる疲労感。心と体、疲れがその両方の部分から僕自身を押しつぶそうとしていた。

 僕はともすれば意識を失いそうになっている自分自身に気がつき、思わず目を開けた。

丸で酸素を求める魚か何かのように口を開けて大きく息をする。亮子さんがそんな僕のことを心配そうに見守っている。


 だめだ弱音を吐いては。亮子さんや葵ちゃんのためにも今頑張らなくていつ頑張るんだ。

僕は一端葵ちゃんの手を離すと椅子を立ち上がった。


「亮子さん、少し歩いてくるよ」


亮子さんはなにかを言おうとしながら結局何も言わずに頷いた。


 でも僕が部屋から出ようとすると手になにかを押しつけてくれた。見るとそれは昔ながらのドロップが入った缶だった。


「ありがとう亮子さん」


 僕はそう言うと部屋を出た。廊下を歩きながらそっと缶の蓋を開けるとフルーツの香りがする。そう言えば子供の頃良く母さんが買ってくれたっけ。

 オレンジ色したドロップをそっと取り出し口に含む。甘い香りと味が口いっぱいに広がっていった。


 疲れ切った僕にはなんともその甘さが嬉しかった。

病棟出ると気の向くまま、足の向くままに僕は彷徨った。でもそうやって歩きながらも僕は、どうやって葵ちゃんを戻してあげるべきなのかと言うことを考え続けていた。


 いくつかドロップを口に含むうちに次第に身体の疲れが取れていく。

朝方は寒かったのに、日中は日差しに暖められて気持ちの良い季候だった。

 銀杏の街路樹がお日様の光りを浴びて金色に輝いている。何もかもがきらきらと輝いて見える、そんな午後の一時だった。


「葵ちゃん見ている?」


僕は声に出して言った。


『うん、見ているよ。本当に綺麗』


「元の身体に戻ったら、一緒に散歩しようね」


『うん、楽しみにしている』


 僕はふと立ち止まり空を見上げた。高く高く彼方まで続いている青い空。見上げているとなんだか自然に涙が湧いてくる。

 日差しの温もりが身体の奥まで暖めてくれる。僕は自分自身をそして葵ちゃんを抱きしめた。


 生きているってこんなにも素晴らしい。だからこそ葵ちゃんにはなんとしても元気になって欲しい。僕は大きく息を吸い込むと再び歩き始めた。


 そうやって歩いている間にも口に含んだドロップは少しずつ解け、甘い香りで僕を包んでいく。

 しばらく歩き続けた僕は、いつの間にかドロップが溶けて無くなってしまったことに気がついた。こじる様にして缶の蓋を開け、カラカラと音をさせながらドロップを取り出す。

 僕はそのドロップを口に放り込みながら、と有ることにはたと気がついて凍り付いたかのように動きを止めた。


 まさか、そんな月並みなこと有り得るのだろうか?もし間違っていたら葵ちゃんだけでなく、亮子さんにも怒られたりしないだろうか?

 いや、僕の知っている彼女等姉妹ならそれはないだろう。そして多分理解してくれるだろう、何故そうしてみなくてはならなかったって言うことを。

 それに今の僕は女性なんだし、有る意味葵ちゃん自身でもあるのだ。そう考えたら試してみる価値は十二分に有るだろう。


 だが理屈で考えることとは別に、感情の上では曰く言いがたいものがあるのも事実だ。

ええいままよ。葵ちゃんや亮子さんの思いを考えたら少しリスクがあるかも知れないけれども、それがなんだというのだ?


 僅かなリスクを冒すことを恐れて、しなくてはならないことをしない方がよほど恐ろしい。僕は自分の思いつきを実行してみることを固く決意するのだった。

 そう決めると気のせいかほんの少しだけ肩の荷が下りたような気がするのはどうしてだろう?


 それからなおも色々考えた末、葵ちゃんには当面詳しいことは説明しないことにする。

万に一つでも葵ちゃんの心に変化を起こして、うまく動かせなくなるかも知れなくなることを恐れての判断だった。


 実際今やっているようなことは、互いの心に深く関わっているようなことだから、どんな心の力が障害になるか分からない。


 本当は亮子さんにだけは打ち明けておきたいところだけれど、今の状況ではそうする余裕も方法もない。後はなるようになれだ。

 そう考えると僕は踵を返して再び病室に戻ることにした。疲れも少し取れてきたのだろう、足取りも軽くなってきていた。


 病室の扉をそっと開けると、そこでは亮子さんが葵ちゃんの手を取ってぎゅうっと握りしめていた。


 もちろん亮子さんは葵ちゃん自身が僕の中に居ることを知っている。でもそれでもそうせざるを得ないような、そんな思いが亮子さんの中にあったのだろう。

「ただいま亮子さん」


 そう言いながら僕の胸は熱くなった。その時点で初めて僕の存在に気がついたのか、亮子さんはじっと閉じていた目を開き僕の方を見た。


「お帰りなさい良美ちゃん」


 いつものように笑みを浮かべながら迎えてくれる亮子さん。その目が真っ赤なのが痛々しい。

僕は椅子から立ち上がった亮子さんのことをぎゅうっと抱きしめると言った。


「きっと何とかなるから・・・」


そして亮子さんと入れ替わるようにベッドの傍らの椅子に腰掛けた。

すっかりとやせ細ってしまっている葵ちゃんの顔を見詰め、目にかかっている髪をそっと指でかき上げた。痩けた頬、血の気のない唇、その全てが切なかった。


ようやっとここまで辿り着きました。三姉妹じゃないけれども、それぞれが幸せになって欲しいななどと考えつつ、もう間もなく物語は終わりの時を迎えます。

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