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たった六ヶ月のラプソディ  作者: ライトさん
20/28

女の子の挑戦、その前夜

子ども頃から物語を読むのが好きで、何時か自分自身の物語も書いてみたい。そんな思いを抱いて早幾年。書き始めるのももの凄く難しいけれども、それよりももっと書き続けることは難しい。そしてそれよりももっともっととんでもなく終わらせることは難しい。

多くの方々が見事に物語を書き上げ、そして終わらせ切っておられること、本当に尊敬してしまいます。適うなら何時かそんな皆さんの仲間入りが出来たなら、そして誰かの心を満たすことが出来たなら、その時は私にとって最高の一時になる…なりますように!


 翌朝目を覚ました僕は久しぶりにとても良い気分だった。もちろん不安な思いがない訳ではない。しかし朝日の昇っていくこの時間、きっと何とかなるという思いが心を満たしていた。


 僕はそそくさと支度をすると慌てて朝食をかき込んだ。

胸の中にある不安な思いが逆に僕を進めと駆り立てていた。全ての準備を終えた僕は部屋を出て扉にゆっくりと鍵を掛けた。


 果たして次にこの部屋に戻ってくる時にはどんな思いで居るのだろう?だが今はそんなことを考えていても仕方がない。


 僕は意を決すると荷物を持って歩き始めた。

僕はそのまま亮子さんの家まで行くつもりだったのだが、建物を出るとそこには既に彼女がやってきていた。


「おはよう!」


 亮子さんの明るい声を聞くと心の中の不安がどこかに行ってしまいそうだ。

傍らには明るい赤のファミリーカー。どうやら前回と同じ車種の車を借りてきたらしい。既にエンジンがかかっていて、静かに排気の湯気を朝の大気の中に吐き出していた。


「おはようございます」


僕は荷物を手にぺこりと頭を下げた。


「良美ちゃんと旅行できるのもこれが最後ね」


「確かにこの姿では・・・」


 そう言うと僕は苦笑した。そう言えば僕は亮子さんに男性の姿を一度も見せたことがなかったっけ。


『今度いつか三人で旅行に行けたらいいね』


心の中から葵ちゃんがそう囁きかける。


『おはよう葵ちゃん、話しかけてくれないから眠っているのかと思ったよ』


『うううん、実はずっと前から起きていたの・・・って言うか、今の私に当たり前の意味の眠りって言うのはないみたいなの。まあ、それはともかく、色々なことを考えていたのよ』


『そうかあ・・・、ねえ、車に乗ったらまたこの間みたいに半分子で良いよ』


『ありがとう』


葵ちゃんの感謝の念が自然に心の中に伝わってくる。


「さあ早く乗って、出発するわよ」


 そう言うと亮子さんは運転席に収まり、バタンとドアを閉めた。僕は慌てて後部シートに荷物を放り込むと亮子さんの隣に席を占めた。


「今日もよろしくお願いします」


「お任せ! って、よろしくお願いするのは本当はこっちなんだけれどもね。葵、ちゃんと付いてきている?」


「うん、お姉ちゃん!」


 元気良く葵ちゃんは返事をした。それを聞くと亮子さんは本当に嬉しそうに笑った。その時僕は、彼女が後方を確認するふりをしてさっと涙をぬぐうのを見逃さなかった。多分葵ちゃんも。


 前を向いた亮子さんはゆっくりと車を走らせ始めた。滑るように車線に入り、キビキビとした走りを見せる。亮子さんらしい走りだった。


 空は晴天、道行きは実に順調で気持ちの良いドライブだった。

途中休憩でドライブインに入って食事をしたりしたが、後はトイレ休憩で一度止まっただけで、僕達は一路亮子さんの、そして葵ちゃんの故郷を目指した。


 街中ではまだまだだったけれども、高速道で走る山間部では徐々に紅葉が始まりつつある。それは目的地に近づくにつれて徐々に顕著になっていった。


 やがて高速道を降りると辺りの風景は急に田舎道の様相を呈し始めてきた。前回来たことがあるせいか何だか懐かしい気がする。


「まっすぐ葵ちゃんの病院に行くのかな?」


そう聞くと亮子さんは前を見つめながら首を横に振った。


「いいえ、結構強行軍出来ているからいったん家に帰って、汗を流してから病院に行こうとも思うの。余り時間が取れないかも知れないけれどもそれでも良いわよね?」


「ああ、それはもう全然」


 きっとそれは亮子さんなりの配慮なのではないかと思った。彼女はこう言うところへの気配りを欠かさない女性だった。


「ところで葵、両親に会ったらどうするの?」


「どうするって・・・」


 なるほどそう言うことか。迂闊にも僕はそこまで気を回すことが出来ていなかった。

しかしそう言うことは僕の口から言うには少し微妙すぎるものもあった。


「私はね、父さんや母さんに、今の貴女の状態をあるがまま話しておくべきだと思うの」


「でも、そんな・・・」


 当たり前のことながら、葵ちゃんは難色を示している。確かにその気持ちは分からないでもない。

 別人の、それも若い男性の中に、例えそれが今は女性の姿になっている時だとしても、間借りしている状態になっているのだ。


 僕が葵ちゃんでもそんなことは話したくないことだろう。多分葵ちゃんは何もかもがうまくいって、そう言ったことを何も話さなくてもすむことを願っているのだろう。


「葵の気持ちだって分からない訳じゃないのよ」


 勿論うまく行けばそれに越したことはない。しかしそれはあくまでうまく行けばと言う大前提付きの話だった。


 うまく行かなかった場合はどうなるのだろう?もしかすると葵ちゃんと僕はこのままの状態で居るのかも知れない。ただし僕はもう女性の姿になることは出来ないから、心で話すことが出来るのが関の山になる。


 だがそれはあくまで希望的観測で、果たしてそれほど幸運な結果になりうるのだろうか?葵ちゃんと話が出来なくなることも十分に考えられる。


 そうなったら僕は、いや、葵ちゃんはどうなってしまうのだろう?誰にも顧みられることなく、まさに幽霊のようになってしまうのだろうか?

 亮子さんの言葉はその可能性を示唆していた。


 そんなことを考えると、葵ちゃんが今どんな状態で居ようとも、また、どんな思いで居ようとも、両親と話をしてみるべきではないのだろうか?話をしてお互いの気持をしっかりと伝え合うべきではないだろうか?


 要するに亮子さんが言いたかったのは最悪の事態が起こりうるとしての話だった。言うなれば保険だったのかも知れない。


「亮子さん・・・」


 その事を話さなくてはならない亮子さんの苦しい胸の内を思うと、何か言いたくて思わずそう口走ってしまったが、僕はそれ以上の言葉を言うことが出来なかった。

 でも亮子さんにはその一言で十分だったのかも知れない。


「大丈夫よ良美ちゃん、私は大丈夫だから」


何だか僕は亮子さんの心の強さを見たように思った。


「うん・・・」


そこへ葵ちゃんが割り込んできた。


「ねえ、二人して何を話しているの?言いたいことがあったらちゃんと言ってくれないと分からないじゃないの」


 その口調は何となく不服げだった。僕と亮子さんは顔を見合わせた。だがいくら亮子さんでも単刀直入で言うのはいささかはばかられたのかも知れない。

 少しの間沈黙の時間が流れる。


「ねえ良美さん、あなたも知っているのならかまわないから教えてくれる?」


痺れを切らした葵ちゃんは、矛先を僕に向けてきた。


「う・・・うん」


僕が答えに窮していると、亮子さんが助け船を出してきてくれた。


「いくらなんでも良美ちゃんにそれを言わせるのは酷というものよ。だから私が話して上げるしかないと思う。でもその前に考えをまとめるから少し時間を貰える?」


「うん」


 重苦しい空気が辺りを支配する。良子さんは車を止める場所を求めて右に左に視線を走らせていた。


 しばらく行くと道の左側が少し開けてきた。短く刈られた下草の中に良子さんはすっと車をすべり込ませる。ギッと言う音と共にサイドブレーキを引き、車のエンジンを切る。


「さて、どう言ったものかしらね?」


 そう言うと彼女は車の扉を開けて外に出た。僕と言うか葵ちゃんも後に続く。


 しばらく僕は一歩後ろに下がっておこう、自然にそんなことを考えていた。

見上げた空は抜けるように青く、どこまでも高かった。気持ちの良い、本当に心に染みいるような天気だった。


「あのね葵」


 しばらく逡巡していた良子さんが話の口火を切った。今や葵ちゃんのものになっている身体が微かに強ばる。


「私達がどうしてここに来ているかってことは分かっているわよね?」


いきなり良子さんにそんな風にいわれた葵ちゃんは、ほんの少しだけ口を尖らせた。


「それはもちろんよ。お姉ちゃんだけでなく良美さんにもものすごく迷惑をかけているし」


「そっか、でも私に限って言えば迷惑だなんてちっとも思っていないからね。思うに多分それは良美ちゃんも同じだと思う」


誰にも見えないかも知れないけれども、僕は心の中で大きく頷いた。


「もう分かり切っていることなんだけれど、今回のことはあなたをなんとか貴女自身の体に戻して上げるためなのよね。でもこんな不思議なことって、多分世の中の誰も経験したことの無いような物だと思うの」


 良子さんの言葉はいよいよ核心に触れようとしていた。彼女はこれから葵ちゃんに万が一を思い、全てが失敗に終わった時に備えて両親に全てを話すことを勧めようとしていた。

 だがその時僕は何かが間違っていると思った。有る意味それは天啓のようなものだったのかも知れない。


「だめ!待って亮子さん」


いきなり叫ぶように言った僕に、亮子さんは目を丸くしながら聞いた。


「良美ちゃん?」


予想外の僕の言葉に彼女は二の句を告げずにいる。


「とにかく待って亮子さん」


 そう言うと僕は深呼吸をした。そして僕は自分がこれから言おうとしていることが亮子さんにもしっかりと伝わるように大きな声で言った。


「ねえ葵ちゃん、僕と亮子さんのこと信じられる?」


そう言うと僕は葵ちゃんも声に出して言えるように身体の主導権を明け渡した。


「そ、それはもちろんよ!」


「ならどんなことがあっても僕と亮子さんのことを信じてくれるよね?僕達は必ず葵ちゃんを元の身体に戻して上げるから」


 僕が一体何を言おうとしているのか、不安な面持ちで見つめていた亮子さんの眼差しに、次第に理解の色が拡がっていく。強ばった顔が少しずつ笑顔になる。

 亮子さんには僕の言いたいことが伝わりつつあるようだった。


「そう、そうなのよね。確かに良美ちゃんの言うとおりだわ」


そう言いながら亮子さんはいきなり僕の背中をどんと強く叩いた。


「痛い!」


この叫びは僕と葵ちゃん、二人同時のものだったと思う。


「ごめん葵、色々言いかけたけれども、絶対に何とかするから、ここはお姉ちゃんと良美ちゃんにどんと任せて!」


僕は痛む背中を押さえながら恨めしそうな顔で亮子さんを見た。


「亮子さん、少しくらい手加減してくださいよ」


「あら、今は良美ちゃんだったの?うっかりしちゃったわね」


「葵ちゃんも一緒にいました」


 なおも僕が恨めしそうに見ていると、その有様がおかしかったのだろう。彼女はぷっと吹き出すと、その後大笑いを始めてしまった。

 余り亮子さんが笑うものだから僕はちょっぴりむくれてしまった。何故ってまだ背中がひりひりしているから。葵ちゃんはと言うととっくの昔に心の中の方に待避してしまっている。


 でも不思議なことに、亮子さんに笑い声にはどこか人の心を幸せにするようなものが含まれている。

彼女の笑い声を聞き、その様を見ていると、いつの間にか僕もしかめっ面をしていることが出来なくなってしまった。


 やがてにはその笑そのものが伝染してしまう。

そんな僕達のことをじっと見つめている葵ちゃん。いや、心の中からのことなので、本当に見つめているのかどうかは分からない。


 しかしどこか重苦しかった彼女の心が、ほんの少しずつなのだけれども温かく、そして柔らかくなっていくのを感じる。この感覚は多分間違いないものだと思う。


『そう』


僕は自分自身の心の中だけで思った。


『今はやるべきことに疑念を差し挟むべき時じゃない、全てを賭けて何かを信じる時なんだ』


 そんな風に考えていると、それまで不安で一杯で押しつぶされそうになっていた心が少しずつ軽くなっていく。本当にきっと何とかなるという思いが芽生えていくのだった。


『良美さん』


心の中に葵ちゃんの声?が響く。


『葵ちゃん?』


『最初の内は良く分からなかったのだけれど、お姉ちゃんは万が一にも失敗した時のことを考えていてくれたのでしょう?』


『う、うん』


ああ、忘れちゃいけない、葵ちゃんはそう言うことにはとびきり勘が良い子なんだ。


『だから話が出来る内に両親に話をさせておこう、そう思ったんだろうね』


 ふと気がつくと、僕の目の前には心配そうな表情でのぞき込んでいる亮子さんの顔があった。きっと僕が急に黙りこくったから気になったのだろう。

 僕は彼女が安心できるように笑みを浮かべると頷きかけた。その一方では心の中で葵ちゃんとの会話が続いていく。


『うん、僕もそうだと思うし僕も同じことを思ったよ』


ここまで来たら黙っていても仕方がないと思い、僕は真実思ったことを話すことにした。


『そうか、やっぱりね』


 この瞬間、葵ちゃんの心の中をどんな思いが去来していることだろう。今の僕には彼女の思いをうかがい知ることは出来ない。

 でも葵ちゃんから伝わってくる心の音色は決して暗いものではなかったように思う。

なんだろう、むしろ暖かくすら有る。ふと気がつくと熱い涙が一筋流れた。


「あれ?どうしたんだろう?」


 でもその言葉を口にしながら僕は理解した。それは葵ちゃんの心の中から染み出したものなんだってことを。


『良美さん、少し良い?』


僕には多くを語らずとも彼女の望んでいることが分かるような気がした。


『うん』


 葵ちゃんに望まれるがままに、僕は身体の支配権を受け渡した。

一粒だった涙が二粒に、そして止めどなく溢れていく。葵ちゃんは少しの間黙ったまま天を仰いだ。ほんの少しきゅっと唇をかみしめ、やがてゆっくりと口を開いた。


「まず最初にお姉ちゃん、良美さん、本当にありがとう。うううん、いくらありがとうって言っても二人には全然足りないんだけどね」


亮子さんもまた目に光るものを浮かべながら葵ちゃんの話を聞いている。


「お姉ちゃん達がどんなに私のことを大切に思っていてくれているか、痛いくらいに良く分かるの。だからね、だから」


 葵ちゃんと身体を共有している僕には、涙で既に亮子さんの姿が見えなくなっている。

ふと手に温もりを感じた。これは亮子さんの手、その手を葵ちゃんが握り返すのを感じる。


「私は絶対に諦めない。お姉ちゃん達のことを信じている。そして自分自身のことも信じている。だから絶対に自分の身体に戻るし、必ず目を覚ますよ」


「約束だからね」


 声を震わせた亮子さんの言葉が胸に響く。二人の手が重なり、指切りげんまん。僕は彼女達姉妹の心の絆を丸で手に触れられるものであるかのように感じていた。

 だからなんとしてもこの姉妹を幸せにしてあげたい、心からそんな風に思った。

豊かな思いが心に満ちて行くにつれ、次第に溢れた涙は乾いていく。


「お姉ちゃんたら酷い顔」


「そう言う葵だって・・・」


  あれだけ涙を溢れさせたら誰だってそうだろう。

でも涙の雨が晴れた今の心は、天に広がる澄み切った青空そのもののようだった。


「お化粧し直さなくっちゃね」と葵ちゃん。


「きっとこのまま帰ったら父さん達、誰が来たのか分からないわよ」


 亮子さん達はそう言うと顔を見合わせるなりぷっと吹き出した。僕はそんな彼女たちの様子を見ながらしばらく退場。

 早く姉妹達のこんな会話が当たり前の物になればいいな、そんなことを考えながらしばらく彼女たちだけの時間を上げることにしたのだ。


 その後控えめにもう良いよって言う葵ちゃんの声を聞いたのは、車に乗り込んでからだった。


「あーなんかすっきりした」と、走り出した車の中で亮子さん。


「ん、どうして亮子さん?」


「だってって、今はもう良美ちゃんなんだね?」


「はい」


「あのね、色々なことを一杯考えて、それをお腹の中にずっとためてうじうじいるのって嫌じゃない?」


なんとも亮子さんらしいと言えば亮子さんらしい意見だった。


「それにね、そう言うのがあると逆に迷いを産みそうな気がしていたの、良美ちゃんはそう思わない?」


「うーん、確かにね。まあ微妙な点もあるけれども今日に限って言えば正解なのかも知れないって思います」


「でしょう?」


 葵ちゃんは黙ったまま、おそらく僕達の会話を聞いているとは思う。でも今は何も言ってこようとはしなかった。

 彼女は彼女なりに色々考えている最中なのかも知れない。


 そうこうするうちに車は峠道にさしかかってきた。こうなると亮子さんの両親がやっているひなびた旅館まであと僅かだった。

 前回来た時よりもかなり早い時間でここまで来ている。それは亮子さんの心の中を表しているようにも思えた。


 すっかり紅葉しつつある深い森の道を一気に突き抜けるとそこが目的地だった。

未だ二回目なのにとても懐かしい気がする。

 あれ?目が熱い。僕って泣いているのかな?そうか、葵ちゃんなんだ。彼女が僕の中で泣いているんだ。


『葵ちゃんごめん、これから先しばらくの間僕が前に出るね』


心の中でそっと囁く。

 葵ちゃんが出たい時にいつでも出れるようにしていたのだけれど、今は僕が主導権を取るようにする。


『うん』と葵ちゃん。


 彼女にしてみれば本当に久方ぶりに生身の身体で実家に帰ってきていることになるのだ。彼女の思いが思わず溢れてしまうのも無理からぬことだった。

 ただいくら何でも宿に着いた早々に目を腫らしていたのでは困ったことになってしまう。そう考えた僕はあえて前に出たのだった。


 亮子さんが車を駐車場に入れようとしている間に素早く鏡をのぞき込んだ。少々赤くなっているけれどもこれくらいなら大丈夫だろう。


 車のドアをロックした亮子さんも僕の様子に気がついたのだろう。自分のコンパクトを出してのぞこんでいた。


「お待たせ」


 荷物を手に僕達は車を離れた。そこから二人で並んでのんびり歩き、宿の正面から入っていく。


「ただいまぁ!」


 しんと静まりかえった閑静なところで、亮子さんがいきなり大きな声を出す物だからびっくりしてしまった。


「わわっ!」


逆にその声に驚いた亮子さんが僕のことをまじまじと見ながら言う。


「わわって何よ?」


「だっていきなり亮子さんが大きな声を出すから・・・」


「だって仕方ないじゃない、こうでもしないと聞こえないんだから」


 確かにそれは亮子さんの言うとおりで、いつまでたっても誰も出てこないので彼女はもう一度大きな声を出さなくてはならないことになった。


「ただいま!」


 また無音の世界。どこかで鳴いている鳥の声がその静寂さを更に際だたせる。

と、どこからかパタパタとスリッパで歩く音。廊下の角から姿を現したのは亮子さんのお母さんだった。


「まあまあ亮子ちゃんじゃないの、お帰りなさい。それに葵じゃなかった良美さんでしたね?ようこそまたこんなひなびたところまで」


 お母さんはたった一日滞在しただけなのにしっかりと僕の名前を覚えていてくれた。

病院で伏せっている娘さんと瓜二つともなれば覚えないわけにはいかないのだろうけれど、ふとその心中を思うと申し訳ない気持ちで一杯になってしまった。


「今日はまた随分早く着いたのね?」


「ん、ちょっと頑張っちゃったかな?」


「余りとばしたらだめよっていつも言っているのにね」


 やんわりとたしなめられた亮子さんはどことなく居心地が悪そうだった。しかしそれでいてどこか嬉しそうなのは気のせいだろうか?


「またお世話になります」


 そう言いながら僕は頭を下げた。多分と言うか間違いなく、僕がこの姿でここを訪れることはもう無いだろう。そう思うとなんだか訳もなく寂しい気がした。


「いえいえ、自分の家だと思ってどうかくつろいでいってくださいね」

そう言うとお母さんは、暖かい笑顔で僕達を迎え入れてくれた。


「この前と同じ部屋を用意してあるのだけれど、それで良かったかしら?」


「うん、あの部屋私は大好きだし、それに多分良美ちゃんもよ」


「はい、お気に入りです」


「そう、良かった」


そう言うとお母さんは先に立って部屋に向かった。


「良いよ母さん、別に付いてこなくても。忙しいのでしょう?」


「でも・・・」


「かまわないから行って行って」


「そう?」


「うん」


 なおも少し立ち去りがたそうだったお母さんだったが、直ぐにまたスリッパの足音をさせながらその場から去っていった。


「大丈夫良美ちゃん?」


お母さんがいなくなったのを見計らって亮子さんが聞いてきた。


「?」


「だって今にも泣きそうよ」


 そう言われて初めて僕は気がついた。いつの間にか自分の目が涙で決壊しそうになっていることを。


『葵ちゃん・・・』


 こうならないように僕が主導権を撮るようにしていたのだけれど、葵ちゃんの思いは更に強く、いつの間にか僕の挙動に大きく影響を与えていたらしい。


『ごめんね良美さん』


声なき言葉で申し訳なさそうに謝ってくる葵ちゃん。


『うううん、気にしないで』


 だって葵ちゃん、そんなの無理だよ。僕は自分の心の中だけで思った。

ずっとずっと会えないでいたお母さんに会え、手を伸ばせば触れられる状況になったんだもの。


 そんな風に考えていると、僕自身の思いでも涙が溢れそうになった。

それにしてもさすがは亮子さんだ。僕の異変にいち早く気がついて手を打ったのだ。

 でも本当に気がつかなかったのかな?僕にはお母さんのあの立ち去り難そうな姿がとても気になってしまった。


 だがそんなことを悩んでいても仕方ない。僕達は荷物を手に前にも泊まった部屋に向かった。


「うわぁ綺麗!」


部屋に入るなり僕は感嘆の声を上げてしまった。窓から見える美しい風景に圧倒されたのだ。


 この前来た時は燃えるような若葉の景色だった。しかし今回は色とりどり、目も彩な色彩のオンパレードだった。


「でしょう?この辺りの景色は何処も結構綺麗なんだけれど、この部屋から見えるのは最高なのよ」


まさに亮子さんが太鼓判を押すだけのことはあった。


『葵ちゃん達はこんな風景を見ながら育ってきたんだね』


僕が心の中で思わずそう呟くと


『うん』


と言う葵ちゃんの答えと共に、しみじみとした感傷の思いが伝わってきた。


「さあお風呂にでも行こうか?」


そんな感傷を振り払うかのように亮子さんが言う。


「う・・・うん」と僕。


『葵ちゃん、主導権渡すから亮子さんと入っておいでよ』


『でも・・・』


『良いよ、久しぶりでしょう? こちらのお風呂に入るのは?』


『それはそうなんだけれど』


心の中でそんなやりとりをしていると、亮子さんがいぶかしげな表情で見ている。


『あのね』


葵ちゃんが言う。


『良美さんにはものすごく迷惑かけていること分かっているの』


『迷惑だなんてそんな』


『うううん、かかっていないわけ無いじゃない。だからせっかく入るんだったら、良美さんにも楽しんで欲しいの。良美さんもここのお風呂大好きなんでしょう?』


『そりゃあまあそうなんだけれど』


『私がちゃんと自分の身体に戻れたら、そのうちまた三人で一緒に入ろうよ』


『ええ?』


 思いもかけないことを言われた僕は、一人顔を赤くしてしまった。本来の僕は男性なんだ、いくら何でもそれは・・・。


「ねえねえ、二人で何を話しているの?」と亮子さん。


「さっきから見ていたら、なんだかにやにや笑ったり赤くなったり、一体どうしたの?」


 そう言う亮子さんのなんとも口惜しそうな表情を見た僕達は、思わず一緒に吹き出してしまった。


「ぷふっ!」


「あー、何それ?」


「内緒だよお姉ちゃん」


 葵ちゃんが笑っている。僕も笑っている。二人が笑っている。二人の心が解け合ってそれこそ境目無しに笑っている。

 そんな僕達の様子を見ていた亮子さんは何故か泣き笑い。


 結局僕達は身体は二人だったけれども心は三人で、この宿ご自慢の露天風呂にはいることにした。


 この間の緑に染まったお風呂も良かったけれども、今回の紅葉の元入る温泉もまた格別だった。

今まで何度も色々な所で紅葉は見てきているけれども、これほど鮮やかな物は見たこと無かった。


 亮子さんに言わせると、寒暖の差が大きいこの辺りならではのことらしい。

短い時間だったけれども僕達は心の底からリフレッシュすることが出来た。


 お陰で結構余裕のない旅をしてきているはずだったにもかかわらず、かなり元気になった。

これならもしかすると?そんな思いで病院に向かうことが出来た。


 色々と思うことはあるけれども、今はただ前に進むことを考えていくしかない。

ここまで連れ帰った葵ちゃんをこれからどうやってその身体に戻せばいいのか?分からないことだらけだったけれども、何とかするしかないんだ。


 前に行った時には随分時間がかかったような気がしていたのに、今回はなんだかあっと言う間に病院に着いてしまった。

 膨らむ期待感と緊張感。自分の心臓の音がなんだかやけに大きく聞こえる。


 病院までの道行きは早かったのに、駐車場から病棟までの道のりが何故か長く感じられた。

 先程まで未だ明るいと思っていたのに、あっと言う間に日が傾き、空を茜色に染め上げている。


 亮子さんに続いて病棟の中にはいると、とたんに病院独特の薬の匂いがする。亮子さんは慣れた感じで廊下を進み、看護師詰め所に挨拶に行った。

 その間に僕は近くの休憩所でボトル入りのお茶を二つ買った。なんだかさっきから喉が渇いて仕方なかったのだ。詰め所から帰ってきた亮子さんにも手渡すと二人で並んで飲んだ。


 少し多いかなって思ったのだけれども、案外簡単に飲めてしまう。

コトン!ボトルをゴミ箱に捨てると、人気のない廊下で妙に大きく音が響いた。


「じゃあ行こうか?」


「はい」


 亮子さんが先に立って病室に入り、僕が後に続いた。

と、亮子さんのはっと息を飲むのが聞こえた。何かあったのだろうか?僕はなんとも言えない不安を感じながら亮子さんの傍らに立った。


 前に僕がこの病室に来たときには、直ぐに倒れてしまったから余り葵ちゃんのことを見る機会というものはなかった。


 しかしそれでもとても綺麗な寝顔だったなと言うくらいには記憶が残っている。

なのに今目の前にある葵ちゃんの姿は、すっかりとやせ細ってしまってみる陰もないほどだった。


「葵・・・」


亮子さんは一言そう言うとはらはらと涙を流した。

 それは僕の中にいる葵ちゃん本人にとっても予想外に大きなショックなことだった。


『良美さん、私、私・・・』


 葵ちゃんからの動揺が津波のように心に押し寄せてくる。もちろんそれは僕自身も同じ思いだった。


 でも今は僕まで心を揺らしている場合ではない。こんな時こそ僕がしっかりしなくてどうする?僕はともすれば揺らぐ自らの心を叱咤激励しながら、ゆっくりとした口調で口を開いた。


「大丈夫だよ、きっとなんとかなるから」


 僕は二人の耳にはっきりと聞こえるように、そしてその言葉が心の奥底に届いてくれることを願った。


 亮子さんが僕の手をぎゅっと握りしめる。涙で一杯の目ですがるように僕を見つめる。

亮子さんは何度も口を開こうとしながら何も言えないでいた。きっと口をきけば泣き出してしまう、そしてそれを止めることが出来なくなってしまう、そんな風に感じていたのではないだろうか?


 でもその思いはちゃんと僕には伝わってきている。

亮子さんは物言えぬままぎゅっと唇をかみしめると、僕のことをありったけの力を込めて抱きしめた。


 僕はそんな亮子さんの思いに答え、そして僕自身の思いを返すべく彼女を抱きしめた。

二人の体温が互いの身体を行き来したままの状態で、どれだけの時間が過ぎたのだろう。

僕は少しずつ落ち着き始めた亮子さんの身体をゆっくりと引き離すとベッドの傍らに座った。心の中では沈黙したままの葵ちゃんに必死の思いで語りかけている。


『きっと大丈夫、絶対に何とかするから』


 もちろん僕に何らかの勝算があった訳じゃない。でもそうやって自分自身でも信じて確信を持たないと、どうにかなってしまいそうだった。


 僕は布団の下に隠されていた葵ちゃんの手をそっと取り出した。

病でやせている人の手ってこんなにも儚い感じになってしまうのだろうか?僕は冷たくなっている葵ちゃんの手をそっと両方の手のひらで包み込みながら、なんとも言えない切ない気持ちに苦しくさえ有った。


僕は目を瞑るともう一度葵ちゃんに話しかけた。


『葵ちゃん、葵ちゃん、聞こえる?』


何度か呼びかけているとようやっと返事が返ってきた。


『ごめんね良美さん、返事しなくて』


「こんな状況なんだもの仕方ないよ、でもこれからこの状況を変えるんだよ。だから精一杯頑張ってみようよ」


僕は葵ちゃんだけでなく亮子さんにも聞こえるように、声に出してそう言った。


『うん、そうだよね、うんそうだよ。私目一杯頑張ってみるね』


「うん!」


 そう言うと僕は目を閉じて意識を集中させた。もちろん何をどうすれば良いかなんて何も分からない。ただもう分からないなりに心の中でイメージを浮かべて、葵ちゃんが僕の中から彼女の身体の中に入り込んでいくところを想像していた。


前書きであんなことを書きながら、はたして私はどこいら辺まで来ることが出来て居るのだろうか?千里の道も一歩から、とにかくボチボチ行こか。

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