女の子の逡巡
子ども頃から物語を読むのが好きで、何時か自分自身の物語も書いてみたい。そんな思いを抱いて早幾年。書き始めるのももの凄く難しいけれども、それよりももっと書き続けることは難しい。そしてそれよりももっともっととんでもなく終わらせることは難しい。
多くの方々が見事に物語を書き上げ、そして終わらせ切っておられること、本当に尊敬してしまいます。適うなら何時かそんな皆さんの仲間入りが出来たなら、そして誰かの心を満たすことが出来たなら、その時は私にとって最高の一時になる…なりますように!
出かけた先は亮子さんが働いているスーパーの地下の食料品売り場だ。ここに来るのは亮子さんにジンギスカンをご馳走してもらって以来のことだった。
パスタに入れるほうれん草やベーコン、サラダにするレタスやその他諸々の食材をカートに乗せたカゴに放り込む。
ちょうど夕方の混み合う時間にかかっていたので、それだけの買い物をするのでも一仕事だった。全てのレジが開いていてフル稼働しているのに、なかなか人の列がはけない。
「凄い人だね、私の田舎ではこんなに沢山の人が買い物をしている光景なんて信じられないくらい」
葵ちゃんがしみじみとした感じでそう言う。もっとも都会住まいの僕にしたって、時々この人の群れには辟易するのだから、況や葵ちゃんはってことだろう。
無事レジを通り過ぎた僕は、亮子さんの働いているフロアに上がっていった。
その時亮子さんはちょうど接客を終えたところだった。
「あら、良美ちゃん、来てくれたのね?」
「はい」
僕が元気良くそう言うと亮子さんは本当に嬉しそうな笑みを浮かべた。
「元気そうなので安心したわ。あれからもう何ともないのかしら?」
「はい、絶好調です」
そう言う僕の顔を亮子さんは急にしげしげと見つめた。
「あの・・・何か?」
じっと僕の顔に見入る亮子さんの視線に、すっかりとどぎまぎとしてしまっている。
「ふーん、良美ちゃんお化粧したんだ。今まで良美ちゃんがお化粧しているところ見たこと無かったから、余り好きじゃないのかなって思っていたんだけど、こうしてみると見違えるくらいだね」
「え?あの、そうですか?」
そんな時に赤くなるなと言っても無理な話だ。僕は自分の顔の赤さを肌で感じ取っていた。
「うん、とっても綺麗だよ。こうしてみるとますます妹と瓜二つなんだなあ」
「妹さんて、あの・・・」
「そう、病院で会ってもらった妹の葵のことだよ」
僕の心中は複雑だった、あなたの言うその妹の葵ちゃんの指導でした化粧なのだから。かなうことなら葵ちゃんの存在をこのまま教えてしまいたいくらいだった。
そんな心の中の思いが表情に出たのかも知れない。亮子さんの目の中に一瞬何かの影のような物が見えたかと思うと、急に話題を変えてきた。
「で、今日は何をご馳走してくれるの?」
彼女はそう言いながら僕の手から下がっている袋の中をのぞこうとした。
「だめですよ、帰ってからのお楽しみなんですから」
僕はそう言うと袋を身体の後ろに回した。もっともそうは言ってもそんなに大した物が作れるわけではないのだから、全く冷や汗ものだ。
「それでお願いなんですが・・・」
「なあに?」
「あの、亮子さんの部屋の鍵をお借りできますか?」
「鍵?」
「ええ、帰ってこられたときに食べることが出来るようにしておけたらなって思って」
「わお、それは嬉しいなあ。今日は多分八時過ぎにあがれると思うから、家には八時半くらいには着くと思うわ」
そう言うと亮子さんはポケットの中をごそごそと探った。
「はい、これ鍵」
そう言うと彼女は小さなフクロウのフィギュアの付いたキーホルダーを僕に手渡してくれた。
「ありがとうございます、それじゃあおうちで待っていますね」
「うん、楽しみにしているね」
亮子さんはそう言うと新たに接客をすべくその場を去っていった。
「お姉ちゃん元気そう」
遠ざかっていく亮子さんの姿を見送っていると、葵ちゃんがそうぽつりと言った。
「うん、亮子さんていつも元気いっぱいって感じだよ」と僕。
「お姉ちゃんとっても嬉しそうだった、良美さんに会えて」
「そ、そう?」
「うん、本当に生き生きしていた」
僕はふと考え込んだ。
「もしかすると亮子さん、僕のこと葵ちゃんと重ねてみているのかも知れないね」
「え?それってどういうこと?」
「だってさ、亮子さん葵ちゃんとものすごく仲良かったのでしょう?」
「うん、それはまあそうだった。近所でも評判に仲が良かったよ」
「そんな仲の良い妹が事故で意識を失ってずっと寝たきり状態。そんなところへ葵ちゃんそっくりの僕が現れて仲良くなったりしたら、やっぱりどこか葵ちゃんと僕を重ねてみているところがあっても仕方がないのじゃないのかな?」
「でもそれじゃあ良美さんがかわいそうだよ」
僕はにっこり微笑んだ。もっとも今の葵ちゃんは僕の中にいる訳なのだから、その笑みは見えなかっただろう。
「それは心配しないで。確かに亮子さんはそんな風に僕を君と重ねているところはあるけれども、でも彼女は僕は僕としてもしっかりと見てくれていると思うから」
「どうしてそう思うの?」
葵ちゃんの口調は実に不思議そうだった。
「だってね、」
僕は通りがかりにあったガラスの中にある自分の顔を見ながら微笑んだ。
「亮子さんは一度だって僕の名前を呼び間違えなかったんだよ」
「え?」
「普通さ、誰かに誰かの思いを重ねてしまっていたら、その誰かの名前をうっかり呼んでしまうことだって有ると思うんだよ。でも亮子さんは一度だって僕の名前を間違えなかった」
「そうだったんだ」
「うん、でも・・・」
「でも何?」
「ちゃんと僕は僕としてみていてくれたのかも知れないけれど、その分僕には見えないところで悲しい思いをしていることもあったのかも知れないな・・・」
「・・・」
急に僕の胸の奥の方できゅんとなる物があった。きっと葵ちゃんの心が染みてきているのだろう。
そうこうするうちに僕は亮子さんのマンションに着いた。
亮子さんから預かっている鍵で扉を開ける。
「お邪魔します」
大きくもなければ小さくもない中途半端な声でそう言った。
主の居ない部屋に勝手に訪れるのは、いくらその人から了解をもらっていても、何となく気が引けるのだ。
部屋の中は以前お邪魔させてもらったときと同じように、こぢんまりと綺麗に片付いていた。中に入ると微かな生活臭に混じって亮子さんの化粧品の匂いがした。
なんだか急に少し胸がどきどきした。何だろうこれって?それがどういう思いからだったのかは自分でも分からなかった。でも何となく葵ちゃんに知られたくないなって思った、何故だろう?
部屋に上がった僕は窓を開けた。すっと風が通り、爽やかな気分になる。
僕は買ってきた物を台所で広げると、下ごしらえにかかった。
もっとも下ごしらえと言ってもそう大したことではない。少し多めのニンニクを薄くスライスし、ほうれん草を丁寧に洗って茎の部分と葉の部分を切り分け、ベーコンは細かく短冊状に切っておく。
それからフライパンにたっぷりとオリーブオイルを入れると、スライスしたニンニクと鷹の爪を一本だけ入れ、低温からとろ火でじっくりと油の温度を上げ、ニンニクがかりかりになるまで暖め続ける。
かりかりになったら、鷹の爪は捨て、ニンニクはキッチンペーパーの上に取り出してしっかりと油切りをする。これでパスタの下準備は終了。
お次はレタスをこれまた丁寧に洗い、一口大にちぎる。それにキュウリのスライスにトマト。タマネギは特別薄くスライスしてしっかりと水にさらす。サラダの方もこれで下準備は終了。ドレッシングは自分で美味しい物を作れた試しがないので、市販の和風の物を用意した。
ふと時間を見ると丁度七時半。後小一時間くらいで亮子さんは帰ってくるだろう。そこでテレビをつけて適当な番組を見ながら彼女の帰る頃までしばらく時間をつぶすことにした。
「良美さんて随分手際が良いのね?」と葵ちゃん。
「そう?あの程度のことなら普通じゃないのかな?」
「全然普通じゃないよ、ジャガイモの皮一つ剥けない人が男の子だけじゃなくて、女の子でもいるくらいだもの」
「うーん。僕は男の子だから女の子だからって言う意識はないなあ。母が自分の教えられることは何でも教えてくれたから。もちろん僕が興味を持てばってこと何だけれど」
「ふーん、そうなんだ。お母様は?」
そこで僕は母が数年前に事故で亡くなっていること、その母が例のお茶を僕に残してくれたこと、その経緯なんかを話した。
「おっといけない」
ふと時計を見ると、亮子さんが帰るって言っていた時間までもう余り間がなかった。
大きな鍋にたっぷりの水を入れ、目検討で塩を放り込んで湯を沸かし始めた。
湯が少し沸き始めたところで火を小さくする。
「ただいまー」
亮子さんが帰ってきた。
「お帰りなさい」
「ああ疲れた・・・」
そう言いながらも声の主はにこにこしていた。
「何か良いこと有ったの、亮子さん?」
「そりゃあそうでしょう?家に帰ったら誰かが迎えてくれて、その上晩ご飯まで作っていてくれるんだから、これが嬉しくなくてなんとする?」
僕はそんな風に亮子さんとやりとりをしながら、二人分のパスタを湯の中に放り込み、タイマーの時間をセットした。
そしてゆで上がりを待つ間に、フライパンにさっき作ったニンニク風味のオリーブオイルを入れ、さっとベーコンを次にほうれん草の茎、葉の順に入れ、少し多めの塩と軽く振るくらいの胡椒で炒め始めた。おおよそほうれん草がしなっとすると、出てきた汁を捨てる。
この頃丁度あつらえたかのようにパスタがゆで上がる。そのパスタをフライパンに移し、追加のオリーブオイルを適量、更にゆで汁を少し入れて具を混ぜ合わす。
ニンニクの薫りがとても食欲を刺激する。おしまいに少し味見をして不足分の塩胡椒を補い、トングで大皿に盛る。もちろんサラダも手際よく。
「おお!美味しそう!」
着替えを終えた亮子さんが、部屋に漂う香りをかぎながらリビングのソファーに腰掛けた。
その前に僕は出来上がった物を配膳する。すると亮子さんは戸棚からワイングラスを出し、そこに冷蔵庫から出したワインを注いだ。勝手が分からずフォークとスプーンを探していた僕に気づいた彼女は、何も言わずに引き出しから目的の物をそろえてくれる。
彼女の気配りのすごさに思わず気がつかされた瞬間だった。
「お待たせしました」
席に着くと僕はそう言いながら亮子さんの表情を伺う。彼女はにこにこしている。
どちらからともなく、
「いただきます」
そう言うと早速お腹の虫を大人しくさせるために、パスタを食べ始めた。
「美味しい・・・」
一口食べると彼女はそう言った。僕はその一言を聞いて、いつの間にか自分がとても緊張していたことに気がついた。肩の力がゆっくり抜けて、かくんと落ちていく。
僕は亮子さんのその言葉がただただ嬉しく、にこにこしながらパスタを食べ続けた。
「ご馳走するとは言ったものの、余り出来る料理がないから気に入ってもらえて良かったです」
「うううん、大したものよ。パスタのゆで具合は良いし、味もとても美味しいわよ」
「良かった・・・」
僕はなんだか大役を果たした気分だった。
『良いなあ、私も食べたいなあ』と言ったのは葵ちゃん。
『そのうち目を覚まして元気なったら、ちゃんと作って食べさせてあげるよ』と僕。
もちろん亮子さんの目の前で声に出して喋るわけにはいかないから、心の中での会話になっていた。
「ところで身体の方は?」
グラスのワインを傾けながら亮子さんはそれとなく僕に聞く。
「もうすっかり良いです、って言うかあの時だけのことだったみたいなんです。医者に行って検査してもらっても全くなんにも見つからないし、本当にたまたまあの時なんか調子悪かったんだと思います」
「そう、良かった」
そう聞いた亮子さんは本当に安堵したようだった。
今となっては何となくその原因は分かっているのだが、それは亮子さんに言うわけにはいかない。それに実際には医者にも行っていない。
都合僕は亮子さんに二つの嘘を言っていることになる。僕にはそれが何とも切なかった。
『ごめんなさい、亮子さん』
僕は心の中で思わずそうつぶやいた。
『ん?何をお姉ちゃんに謝っているの?』
心の声を聞きつけたのだろう、葵ちゃんが話しかけてきた。そこで僕は今の思いを葵ちゃんに話した。
『ごめんね、良美さん』
しばらくの沈黙の後に葵ちゃんはそう言った。彼女なりに色々考えた上でのその一言なのだろう。なんだかじんと胸に染みる物があった。
「どうしたの良美ちゃん?」
ふと気がつくと、じっと僕を見つめる亮子さんの目があった。
「え・・・その」
瞬間的に色々な考えが頭の中で錯綜したけど、うまい答えを見つけることは出来なかった。そんな僕の顔を見つめる亮子さんの瞳には、心配という思いがありありと表れていた。
「まだなにか調子が悪いことがあるんだったら正直に言うんだよ?」
亮子さんの強い思いが伝わってきて、僕の胸はぎゅっと痛くなった。
『お姉ちゃんは本当に心配性なんだから』
葵ちゃんが僕の中でそうつぶやく。
ほろりと涙が頬を流れた。
「あ・・・あれ?」
僕は予期しなかった涙に自分自身でもとまどってしまった。
手の甲でごしごし拭くと、必死になって笑顔を浮かべる。
「何で私泣いて居るんだろう・・・?」
そんな僕の所に亮子さんは飛んできた。そして彼女は勢いよく僕をぎゅうっと抱きしめた。
「本当に? 本当に良美ちゃん何でもないの?」
そう問いかける亮子さんの声は不安な思いで満ちていた。そして微かに震えていた。
「嘘なんか言ったら怒るからね、正直に言うんだよ。でないと私・・・私」
そう言うと彼女は僕のことを抱きしめたまま、声を殺して鳴き始めた。
熱い涙がいく粒も僕に降りかかってくる。
胸が熱い。これは僕の思い、そして葵ちゃんの思い。二人の思い、一つの思い。
僕と葵ちゃんはいつの間にか混じり合ったようになって泣いた、泣いた、泣いた。
一体僕達はそれからどれだけの時間泣いたんだろう?泣き尽くしてぼうっとなりながらそっと身を離した亮子さんと僕は、泣きはらした目でお互いを見つめ合った。
「亮子さん、心配しすぎ・・・」
でもありがとう亮子さん、あなたの心が痛いほど嬉しい。
「だって、良美ちゃんがいきなりぼうっとしたり涙流したりするんだもの」
「うん、でも調子悪くて泣いたんじゃないからね。亮子さんがあまりにも優しいから、だから・・・」
「だって・・・」
そう言うと亮子さんは微かに微笑んだ。
『お姉ちゃん・・・』
葵ちゃんがそう僕の中でつぶやく。
ああ、僕の心の中はもう千々に乱れっぱなしだった。
僕はこの三人で泣いた一時の間に有ることを心に決めていた。それは僕のためではなく葵ちゃんのためであり、亮子さんのためだった。今までずっと本当の僕を明かさずに来ていたという、贖罪の意味もあったかも知れない。
しかし思いを決めると言うことと、実際にそれを実行すると言うことの間には大きな隔たりがあった。
「亮子さん・・・あの・・・」
前書きであんなことを書きながら、はたして私はどこいら辺まで来ることが出来て居るのだろうか?千里の道も一歩から、とにかくボチボチ行こか。




