31、神の死んだ日。そして......
5月の連休が始まったころから、八井田玄は毎日のように鈴音市民病院近くの公園に足を運ぶようになった。
57歳になった玄はひどく憔悴していたが、ここへ足を運ぶためのエネルギーだけはどこかから調達していた。
朝早くに公園にやってくると、玄はある立派なけやきの木のふもとに腰を下ろし、ただずっと時を待った。
日が暮れるまでずっと……。
日が暮れると、彼は帰って行った。
しかし翌日には、彼はまた同じ場所に戻って来た。
ただそれを繰り返していた。
彼はずっと誰かを待ち続けているようだった。
この意味を見出せない行為は無限に続くかと思われた。
しかし、そんな迷路にも終わりがあった。
6月2日。
彼は同じようにけやきの木の下にやってきた。
いつもと同じように腰をおろして、時を待ち続けた。
しかし、今日はいつもと違っていた。
曇っていた空の雲の切れ目から日が差したときだった。
目を閉じていた玄が突如覚醒した。
「記代子さん!」
玄はそう叫ぶと立ち上がった。
「待っていました……」
玄は目の前に誰かを見ていた。そこには誰もいなかったが、彼の目には何かが映っているようだった。
彼はこれまでの人生で一番の幸せに満ちた表情を浮かべた。
そして、目の前にいる幻影に手を伸ばした。
幻影は彼の手からするりと離れた。
「待って、記代子さん」
幻影は彼のもとからただただ遠ざかって行った。
彼は追いかけた。走ることもできないほど憔悴していたはずなのに、彼は杖を失ってもなお走り続けた。
「待ってください、お願いです。一言だけ伝えさせてください」
彼はどこまでも幻影を追いかけた。
何もない灰色の世界の先に光を求めるように、彼の疾走はしばらく続いた。
◇◇◇
八井田玄は橋の上で力尽きて膝をついた。
「はあはあ……」
彼は限界を超えて走り続けていたが、まだその目は驚異的な情熱にあふれていた。
そんな彼はすぐに顔をあげた。
通行人が何人かいた。自転車が彼の隣を通過した。
「それ」は彼の近くにあった。
通行人が足でそれを踏んだ。自転車がそれを轢いた。
彼はそれを見下ろした。
彼はしばらくそれをジッと見つめていた。
やがて――彼の目から涙が落ちた。
いくつも涙が落ちた。
それは涙で満たされた。
彼はそれを両手で優しく拾い上げた。
彼の手は震えていた。その間もずっと、彼の涙はそれの上に落ちた。
彼はそれに愛情を注いでいた。ずっとそれに慈しみの視線を向けていた。
それは死んだゴキブリだった。
それはただ忌み嫌われる害虫。
しかし、彼にとって、それはいま最愛の人だった。
通行人がいぶかって彼を見ている。
彼は通行人の前で泣いた。
「あああああああ……」
彼は震えていた。彼の目からは涙がとめどなく流れ落ちた。涙は無限に零れ落ちるかのようだった。
「どうかしましたか?」
通行人が尋ねても、彼は泣き続けるだけだった。
彼の両手にはゴキブリの死骸。彼はそれを大切に抱え泣き続けている。
通行人はわけがわからない状況に困惑するしかなかった。
「ノワーゼットよ、どうか!」
突然、彼は天に向けて叫んだ。
「どうか彼女を、彼女を」
彼は己の生命力のすべてを解き放ち、天にある何かに伝えた。
「彼女の魂をお救い下さい!」
彼は立ち上がると、右手にゴキブリを握り締めた。
ゴキブリはバラバラになって、その一部が地面に落ちた。残りは彼の右手に張り付いた。
彼は橋の柵に手をかけた。憔悴した体からは考えられない力強い動きで柵の上に到達した。
「危ないぞ! やめろ!」
通行人の叫びは届かなかった。
彼は橋の上から落下した。
彼の手にあったゴキブリの死骸が宙に放たれた。
陽の日差しがそれを打ちぬいたように見えた。
彼は橋の下、川の中でうずくまり動かなくなった。
通行人はそれを見て、何かが死んだということを悟った。
人が死んだのか、いや、それ以上に何かが死んだような気がした。
今日は神の死んだ日。そして......。