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30、神の生まれた日

 東言葉あずまことのはは最後の一文字を原稿に書き入れた。


 その瞬間、一つの世界が終わりを遂げた。


 言葉は息を吐いて脱力した。

 時計と、それからカレンダーを確認した。


 今日は6月2日。


 言葉が八井田玄やいだげんの遺産と出会ってからちょうど1年が経過していた。


 あれからもう1年も経ったのか。


 言葉は浦島太郎になったような気分だった。

 この一年間、ずっと原稿と向かい合ってきた。

 そして、一度は失った小説家としての魂を呼び起こし、こうして1つの作品を書き上げた。


 それは東言葉という人物を形作る魂が集約された作品。

 八井田玄の魂、桜田記代子の魂、東言葉の魂、それらはすべて決して独立することがなかった。それらは奇跡というものによってつながり、それが「小説」というあまりに奇妙な概念を作り出した。


 小説とはなにか?


 言葉はそんな哲学じみたことを考えるつもりはなかった。

 小説をそんなたいそうなものに捉えたいとは思わない。

 気まぐれに手に取り、気まぐれにページをめくるものでいいと考えている。

 人の狂った思想や人生が呪縛のようにこべりついた作品など、小説という概念には不要だと考えている。


 しかし、その呪縛を解く者がいなければ、おそらくは完成することのなかった奇跡の作品がそこにある。


 今後、科学が発達すれば、すべての言語と文章を掌握するAIが登場するだろう。

 もはや人間が文章を刻むことはなくなることだろう。


 しかし、その文章に秘められた魔力、言霊を解放できるのは人間しかいない。

 

 人間は不完全で愚かな存在。

 人間とは、天使ノワーゼットも悟った唯一無二の無能。


 ゆえ……人間は神を殺すことができた。

 無能なるがゆえに「小説」というくだらないものを生み出すことができた。


 言葉は初めて「小説」というものを愛おしく見つめた。

 面白い小説とか、つまらない小説とか、そんな領域ではない「小説」を目の前にしていた。


 神の死んだ日、そして......はこうして完成した。


 ◇◇◇


 言葉は完成した上下巻の作品を親友である吉田うさぎに渡した。

 うさぎは言葉の作品が完成するのをずっと楽しみに待っていた。


 作品を渡した夜、うさぎから電話があった。


「しくしくしくしく」


 うさぎは泣いていた。


「作品読んだよ。私、泣いちゃったよ」

「……」


 言葉はうさぎの感想を、自分の作品をめくりながら聞いた。

 うさぎの読書感想文は長々と続いたが、言葉はそれらをお経のようにしか聞いていなかった。

 この作品にそんなものはいらないと思った。

 ただ1つだけ聞ければよかった。


「うん、間違いなく傑作。すごいよ、この作品は」


 傑作。それは間違いない。

 言葉は八井田玄の遺産を徹底的に改変してまとめた。

 かつて記代子が言った通り「ゴミ」を徹底的にリサイクルした。

 もはや、そこに八井田玄のにおいはない。


 言葉はそれでいいと思った。

 こんな世の中に、八井田玄の魂をつなぎとめたくなかったから。


 八井田玄はもう人間としての役目を終えたのだ。


 どこかに行って神にでもなればいい。

 こんな人間界にとどまる必要はない。


 言葉にとって今回の執筆は八井田玄の魂を成仏させることでもあった。

 八井田玄に「ベストセラー作家」などという安っぽい肩書きはつけたくなかった。


 小説家八井田玄はたしかに死んだ。


 今日は神の死んだ日。そして......神の生まれた日。


 ◇◇◇


「神の生まれた日。そして......」は7月9日に「斎藤文太さいとうぶんた」のペンネームで上下巻の形で出版された。


 そこに八井田玄の面影はどこにもない。

 本書は発売から約1か月で300万部を超える大ベストセラーになった。

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