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2、小説家志望、八井田玄

 小さくもキレのある音が断続的に響く部屋の一室。

 男は部屋の片隅にこじんまりとたたずみ、黙々と作業をこなしていた。


 刃が鉛筆を研ぐたびに、小さな切れカスが机に落ちていく。


 八井田玄やいだげんは机の上に散らばった切れカスをていねいに指でつまんでゴミ箱に落とした。

 非効率な作業だったが、玄はその作業をとても大切にしていた。彼の目は無駄な作業の中で研ぎ澄まされていった。


「よし、今日は……」


 彼は椅子に座り直し、一つ大きく息を吐いた。

 目の前には原稿用紙が一枚だけ置かれていて、彼の左手が用紙の端切れに触れた。

 彼の右手には一本の鉛筆が握られた。鉛筆は彼と一体化しているように馴染んでいた。


 彼はこれから魂を創作しようとしている。

 あまりに頼りない薄っぺらい原稿用紙に己の命を宿す神聖なる行為。


 神聖な作業は二時間ほど続いた。

 夕焼けが山へと落ちていこうとする時分、彼は鉛筆を机の上に置いた。

 原稿用紙には、彼が刻んだ命のワードが刻まれていた。

 彼はそれを両手で持って、心の中で音読をした。

 目を閉じて、物語を感じるように。


 音読を終えた後、彼は窓の外を見た。


「そうか……」


 彼は何かを思い出したように立ち上がった。

 先ほど書き上げた原稿をていねいに持つと、何もない部屋を歩いた。向かった場所はクローゼットの前だった。

 そこを開くと、段ボール箱がいくつか収納されていた。

 彼はその一番上に積まれていた箱を開くと、赤子を扱うように、先ほど命を込めた原稿用紙をそっと裏向きに置いた。

 その作業が終わると、彼はホッと息をついた。


 それから、彼はアパートの賃貸借契約書など、重要書類も入っていた段ボール箱を引っ張り出してきた。

 原稿を収納した段ボール箱はていねいに並べられていたが、その箱の中は雑多に散らかっていた。

 彼はその中からカレンダーを探り当てた。

 まだ封を開けていないカレンダーだった。もう今年も半分終わったにも関わらず、今日が開封日になった。


 彼はカレンダーで今日の日付を確認した。


「六月二日……あれからもう十年になるのか……」


 彼は今日という特別な日を遠い目で見つめ、何かを思い出すように天井を見上げた。


「君はもうまもなく二七歳になるのだね。おそらく……より一段と美しくなったのでしょう……」


 彼は目を閉じて何かを想像して、しばらく余韻に浸った。


「しかし、僕はまだ君との約束を果たしていない。でももうすぐ……必ず……僕は……」


 彼はその後の言葉を呑み込むと、役目を終えたカレンダーを箱の中に戻した。


 ◇◇◇


 翌日の早朝、彼は小説の新人賞に応募する原稿のコピーを取るために、最寄りのコンビニにやってきた。

 まだ日が昇ってきていない時分で、客はいなかった。駐車場にはトラックが一台あり、運転席で運転手が仮眠を取っていた。


 彼はコンビニに入ると、そのままコピー機の前に向かった。

 一枚一枚ていねいに原稿をコピーした。すべてのコピーを終えると部屋に戻り、原稿用紙を封筒にまとめた。


 彼は封筒を前に手を合わせた。


「一生懸命書きあげました。どうかよろしくお願いします、神様」


 彼はずいぶんと長い間手を合わせていた。

 神への長い祈りを終えると、開店と同時に郵便局に封筒を提出した。


 後日、新人賞の第一次選考が行われ、通過者が発表された。

 その中に「八井田玄」の文字はどこにもなかった。


 彼は落ち着いた様子でその結果を確認した。

 彼は表情を変えず、二度うなずくと、次の原稿用紙に向けて、右手を伸ばした。

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