19、箱の中
東言葉は敏子からもらった箱を持ち帰った。
八井田玄の遺産に続いて、また部屋の置物が増えることになった。
言葉は机の上に箱を置いて、その箱をしばらく眺めた。
もったいぶっていても仕方ないので、箱を開くことにした。
ガムテープでそれなりに厳重に封印されていたので、言葉はハサミを使ってガムテープの封印を取り除いた。
箱の中には古くなったノートが束ねて置かれていた。
一番上にあったノートの表紙には「桜田記代子ちゃんと私の交換ノート」とマジックペンで書かれていた。
敏子が個人的に患者と交換ノートによるやり取りをしていたのは言葉も知っていた。
言葉も敏子と交換ノートのやり取りをしたことがあった。
記代子という人物ともそのやり取りをしていたようだ。この風習は敏子が新人のときから続けていることだったようだ。
もしかしたら、記代子という人物が「元祖交換ノート」を生み出したのかもしれない。
ノートは七冊にも及んでいた。
言葉は一番上のノートを開いて、とりあえずパラパラとめくった。
ぎっしりと書き込まれたノートだった。時折、赤いペンで記入されているところがあるが、それは敏子の文章だった。
2004年 5月18日からノートが開始されていた。今から40年以上前のことだった。
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新しくできた病院、東洋医学の専門家が多いらしいけど、期待はしていない。
私の病気は絶対に治らない。
だいたい、一度でも東洋が西洋に勝ったことがあるのかしら。
戦争だって負けたくせに。
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かなりネガティブなことが書かれていた。
記代子という人物はかなりの達筆で、八井田玄よりもずっと小説家の片鱗を見せた。
2004年 5月21日
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漢方療法が始まった。
苦くて臭くて、毒以外の何物でもないものを飲まされた。
胃カメラよりマシだと思ったら、来週は胃カメラを入れるらしい。
結局、西洋医学におんぶにだっこで頼りない。
東洋の神秘のように、妖術の力で治してくれないのかしら。
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記代子の二本目の日記。
相変わらずネガティブで、記代子の沈み切った心が良く現われていた。
2004年 5月26日
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痛い。とにかく痛い。
体を起こすときが地獄。
起き上がってしばらくの、何かが込みあげてくる感覚は本当に地獄の沙汰でしかない。
歯を食いしばれば耐えられるけれど、これが毎日続くだけの人生って……どこに生きる意味があるのかしら。
希望によって、人は苦痛に耐えているのに、私だけ希望という武器を持たせてもらえない。
こんなアンフェアな戦いはないと思うわ。
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日記に慣れて来たのか、少しずつ文章が手慣れてきていた。
6月に入り、新展開があった。
2004年 6月1日
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明日は私の血塗られた誕生日。
なんか学校の同級生がお節介で誕生日カードを持ってくるらしい。
そういう形式的なやつ、私大嫌いなんだけどね。
結局、形式的な行事で親切をした気になる。
幸せになるのは連中だけ。私はただ利用されるだけの傀儡。
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記代子は難しい漢字も難なく達筆で表現していた。
しかし、彼女の表現はすべてネガティブなもので塗り固められていた。
夢や希望を表現した文章は表れなかった。
2004年 6月2日
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私の誕生日を祝うために同級生が23人でゾロゾロとやってきた。
一応笑顔で対応してやったら、教師がこう言った。
「記代子さんの笑顔が見れてよかった」
大の大人が作り笑いか本当の笑いかも判別できない。
これが現実。
地獄の嘆きは領界の外には決して届かない。
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2004年 6月7日
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また私の誕生日を祝うために学校の連中がやってくるらしい。
何でも、前回たまたま学校を休んでいた生徒が二人いたから、先生がその二人を連れてくるらしい。
また作り笑いをしなければならない。
こっちは体を起こすのも大変なのに、結局私の都合なんて関係ない。
私は医学会の換金システム、並びに教育界の道徳教育ツール。
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2004年 6月8日
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今日は変なやつに出会った。
八井田玄とか言うやつ。
出会っていきなりおどおどし始めて、どもりまくっていた。
女子慣れしていないにもほどがある。
突然、小説家になると言い出して、挙句には「おれは小説の神様になる男だ」とか言ってきた。
頑張ってと言ってあげたけど、すぐに見栄張ってるだけってわかったわ。
難病の女の子なら嘘八百で口説けるとでも思ったのかしら。浅はかな男だと思った。
第一、タイプじゃないしね。
私はイケメンスポーツマン派だから。
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ここで初めて、八井田玄という人物が登場した。
言葉は息を吐いた。
2004年 6月8日――小説家、八井田玄の誕生日。